スズムシ
20年近く前、当時勤めていた大手設計事務所で、数人でテーブルを囲んでランチを食べている時に聞いた話だから、ところどころ曖昧な部分があるのだが、スズムシを自宅のテラスで飼っているという先輩の話をひとつ。
古い水槽に流木などを入れて暗がりをつくってやり、水槽の上部には外敵が入らないようにネットを張って、餌を与え、ここ数年越冬させて繁殖させているという。
「それじゃどんどん増えちゃうのではない?」と誰かが聞くと、それがそうでもないという。共食いも多少はあるのかもしれないが、理由は他にあるのだそうだ。
増えない理由は単純で、水槽を覆うネットの目は、小さいスズムシは通り抜けられるほどの荒さなのだそうだ。 一度もネットをくぐり出ることなく、水槽で一生を過ごすスズムシもいるかもしれないが、おそらくほとんどのスズムシがネットをくぐって外に出ているようだ。 中でも要領の良いスズムシは、外で遊んでお腹が空いたら水槽に戻って餌を食べるということを繰り返すというのだ。あるいは水槽に戻りたくても戻れなくなったスズムシもいるだろう。それにしても最も気になったのは、自分は常に出入り自由だと思っているスズムシが、いつしか水槽の中で餌をもらうことに慣れ、ある日外に出ようとしたら、ネットをくぐり抜けられないほど大きくなっていたという話。
この話を聞いた瞬間、私は水槽を今自分がいる会社、スズムシを自分自身に重ねて考えた。当時私が勤めていた会社はスズムシの水槽よりもあらゆる意味で何倍も居心地のよい立派な組織だった。しかし、幾人かの若い先輩達が、自分はいつか独立するんだと云いながら、安定的高収入を持った身で扶養家族やローンを増やし、結局独立できないでいるのを見て、それは、いつの間にか水槽を抜け出せなくなったスズムシと同じじゃないかと思ったのだ。
その数ヶ月後、ここで大きくなることをやめようと思った一匹の小さなスズムシは再びこの水槽には戻らないことを決めてネットをくぐり出たのだった。
(神田雅子)