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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 19 (28/5/20) 西原町 (2) Gaja, Amuro, Tobaru, Ikeda, Kohatsu Hamlets 我謝/安室/桃原/池田/小波津集落

2020.05.28 18:24

我謝 (がじゃ、ガージャ)

安室 (あむろ、アムル)

桃原 (とうばる、トウバル)

池田 (いけだ)

小波津 (こはつ、クファチ)

5月24日に西原町北部を訪れた後、26日に残りの史跡を巡ろうと出発したのだが、走り始めてすぐにパンクしていることに気がついた。すぐに予備のチューブと入れ替えて2キロぐらい走った時に、またタイヤの空気がどんどん抜けている。先ほど取り替えた後輪だ。タイヤにガラスの破片とかが残っていないかはチェックしたのだが、何か問題があったのか? 追加の予備チューブは持ってきていないので、自転車を降りて、押しながら家に戻ることにした。この日は再出発を断念。翌日は一日中雨。今日は雨が降らないという予報なので西原町の残りの史跡を巡る。(結局、途中で雨となり、帰宅となったのだが...)


今日訪れる4つの字の行政の変遷は以下の通り。(緑色は屋取集落)


我謝 (がじゃ、ガージャ)  - 2022年9月7日に再訪している。詳しい訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 209 (07/09/22) 西原町 (9) Gaja Hamlet 我謝集落」参照。

西原町の中で一番南に位置しており、与那原町と接している。人口は3300人で西原町で3番目に多い字。我謝の発祥地は、黄金森 (クガネムイ、我謝毛 ガージャモー、南風原町喜屋武の黄金森とは別物) の丘陵地帯にある上ヌ嶽付近とされている。 聖地として『琉球国由来記』に、上ノ嶽、謝名越ノ嶽、烏帽子井之嶽 (エボシガワノタキ)、我謝巫火神 (ガジャノロヒヌカン)、我謝根所火神 (ガジャネドコヒヌカン)、我謝里主所火神の記載がある。(この内、謝名越ノ嶽はとうとう見つけられなかった。)  我謝の謝は海岸地に立地する集落名を表しており、「おもろさうし」にも「我謝の浦の...」とあり、かつては海岸線が集落近くまで伸びていたことがうかがえる。

我謝集落も緩やかな丘陵の斜面に広がっている。

与那原町には沖縄三大綱曳の与那原大綱曳きが開催されているのだが、この与那原に綱引を教えたのが、我謝集落だそうだ。今から450年以上も前の事。今でも続いている。我謝綱引きでは東と西ではなく、上割 (リンゴー) と下割 (ウフカー) に分かれ2回行う。一回目に勝った方が二回目は勝ちを譲るという暗黙の習慣があり、いつも引き分けで終わるそうだ。昔は我謝馬場で綱引きを開催していた。今は公民館の前の道路で行う。

(明治時代我謝馬場)

(現在の我謝馬場)

(我謝綱引の様子)


我謝公民館 (村屋 ムラヤー)

まずは集落の村屋 (ムラヤー) だったと勝手に思っている場所に行ってみた。公民館の前には広い広場がある。典型的な村屋 (ムラヤー) の造りになっている。


ユブシガー (烏帽子井 エボシガー)

ユブシガーは我謝部落北西部、運玉森の麓に位置する拝井泉。琉球国由来記に、我謝の聖地として烏帽子井嶽 (ヱボシガワノタキ  神名: 君ガ御水主が御水の御イベ) の記載があり、この場所と考えられている。ここで聞得大君加那志らによって毎年2月と3月に祭祀が行われた。古波津爾也 (こはつにや) という人がその井泉を自分の烏帽子で覆おおい、農耕に用いたのに因ちなんで、そヱボシガーというようになったとも言われている。

この場所にも天女羽衣の伝説が伝わっているらしい。それは南風原町の宮城集落の大国子の羽衣伝説と全く同じだ。


西原間切我謝村に、烏帽子井があります。 古波津爾也 (こはつにや) が、ある日のこと、天女が水浴みずあびしているのを見ました。天女の飛衣 (とびんす) を稲束 (いなづか) の中に隠かくしたため、それから後、天女と夫婦になりました。 ある日のこと、子どもが歌う子守唄から、飛衣のありかを知った天女は、二人の子どもを両脇に抱かかえて、天高く舞上がると、飛去さっていきました。  なお、その井泉のそばにある嶽を祀まつって「烏帽子井の嶽」と呼ぶようになりました。



我謝遺跡

我謝遺跡は、我謝と与那城集落の後背にグスク時代の遺跡で、現在の西原ハイツの地に形成されていた。標高40~50m前後の小丘陵上に位置し、通称「クガニムイ (黄金森)」とか「ガージャモー (我謝森)」などと呼ばれ、かつて我謝部落の殿 (トゥン) があった。 宅地造成工事時に緊急発掘調査が実施され、グスク系土器を主体に輸入陶磁器、須恵器など比較的古い時期のものが出土している。遺物は沖縄貝塚時代後期からグスク時代にまたがっている。


拝所我謝守護神 (6月2日 訪問)

黄金森 (クガニムイ、我謝森 ガージャモー) は現在は西原ハイツになっており、西原ハイツ公園に御嶽があるので、行って見たがそれらしきものはなかった。後で調べてみると、公園は北部と南部に分かれており、拝所は南部にあるとなっていた。北部に行ってしまったのだ。後日 (6月2日)、再度ここに来て御嶽を見学した。琉球国由来記に記載されている幾つかの御嶽が、合祀されていた。拝所我謝守護神という拝所には、上ノ嶽 (神名:マヤリ君ガナシノ御イベ) の上之殿 (我謝里主所火神)、中之殿 (我謝根所火神)、下之殿 (我謝巫火神) が祀られている。ここで祀られているが我謝ノロは安室、桃原、与那城も合わせて管掌していた。この4つの集落は近い関係だったのだろう。


井戸跡

我謝集落内には案内所には記載されていない井戸跡がいくつかあった。集落をくまなく回ったわけではなく次の目的の史跡に向かう途中で見つけただけなので、これ以外にも多く残っているのだろう。見つけた井戸には給水パイプが設置されていたので、今でも使われている様だ。


安室 (あむろ、アムル)- 2022年9月10日に再訪している。詳しい訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 210 (10/09/22) 西原町 (13) Amuro Hamlet 安室集落」参照。

我謝から桃原に向かう途中にこの字安室がある。安室集落は西原町の古い集落の一つで稲作の盛んな地域でもあった。西原町が出している文化財の案内には何も紹介されていなかったのだが、拝所に出会した。聖地として『琉球国由来記』に、オンタマノ嶽、佐久眞ノ嶽、安室火神、安室之殿 の記載がある。小さな字で人口330人で西原町では3番目に少ない。かつての安室邑 (アムルムラ) は運玉森麓にあったのだが、そこからこの低地に移動してきて今の形となったそうだ。戦前までは綱引きや八月遊びという集落の行事があったが、現在は行われていない。オンタマノ嶽と佐久眞ノ嶽は場所が特定できなかった。


集落は我謝から降ったところにあり、比較的平坦な場所に集落が作られている。


安室之殿 (アムルヌトゥン)

集落の外れに拝所がある。安室之殿 (アムルヌトゥン)で、隣に火之神 (ひぬかん) が併設されている。琉球国由来記 (1713年) にも記録が残っている。

広場の右奥には殿井 (トゥンカー) という井戸がある。


桃原 (とうばる、トウバル- 2022年9月10日に再訪している。詳しい訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 210 (10/09/22) 西原町 (12) Tobaru Hamlet 桃原集落」参照。

隣接する安室 (アムロ) 集落と合わせて「安室、桃原島隣り (あむろ、とうばる、しまとなり)」と二つの集落で一つの言い方がされている。 安室 (アムロ) 集落を自転車で走っていると知らない間に桃原 (とうばる) の集落になっていた。桃原シジという丘陵地にかつての集落が立地していたといわれている。桃原 (トウバル) とは「平坦な場所」という意味で、現在の集落が位置する地形をそのまま集落名になったと考察されている。 聖地として『琉球国由来記』に、桃原火神、眞境名之殿の記載がある。桃原の人口は230人で西原町では一番小さな字だ。


桃原の石獅子

1996年 (平成8年)、西原町字桃原の古島付近での宅地造成中に地中から石獅子2基が100年余ぶりに掘り出された。言い伝えによると、かつて桃原上古島には呉屋部落方面に向けて石獅子を安置していたが、たびたび夜中に呉屋部落の青年らが来て、この石獅子の向きを変えたりしたので、よそに持っていかれるのを恐れ、この石獅子2基を地中に埋めたという。掘り出された二基とも珊瑚石灰岩で造られ、全体に朱に塗られた跡がある。幌出された後も、盗難防止のためか、錠前月のおりに入っている。沖縄で天然痘やイリガサー (はしか) が流行したので、桃原でもフーチゲーシ (流行病除け) として石獅子を仕立てたといわれる。


桃原土地改善センター

桃原には公民館が地図では載っていなかった。この様なケースでは地域の公的施設を探すとそこが村屋 (ムラヤー) 跡であることがある。土地改善センターが村屋跡に立っていた地域があったので、ここもそうでないかと思い、来てみた。果たして、ビンゴ!ここが村屋とは書かれていないが、センターの前は公園で広場になっており、間違いない。

この集落も高台にある。周りは畑や森林が多く、集落は小さく集中している。集落の向こうに雨乞森の丘が見える。


桃原御嶽 (トウバルウタキ) / ウカミヤー [6月2日 訪問]

この広場の前の道路を挟んだ向かい側にウカミヤーがある。桃原御嶽と書かれてある。琉球国由来記に記載されている桃原火神と地頭火ヌ神が祀られている。


眞境名之殿 (マジキナヌトゥン) [6月2日 訪問]

児童公園の方には眞境名之殿 (マジキナヌトゥン)がある。この殿も琉球国由来記に登場している。


桃原の獅子屋 (シーシヤ)  [6月2日 訪問]

桃原では獅子舞が残っている。沖縄戦で獅子が焼失し、獅子舞は途絶えていた。昭和35年に獅子を再現したのだが、獅子舞の後継者不足で、舞は行われていなかった。平成5年に児童公園の南側の上ヌモーに獅子屋 (シーシヤ) を再建した折に、獅子舞保存会を発足し、獅子舞を再開した。


広場の片隅に文化財説明板がある。御茶多理道 (ウチャタイミチ) と御茶多理真五郎の墓 (ウチャタイマグラーヌバカ) を紹介している。古い道だそうだ。これを見るとどうしても通って見たい衝動に駆られる。

登り坂、目の前に広がる丘陵を越えなくてはならない。沖縄はそれ程高い山はないので、苦しくなったら自転車を降りて押せば良いと言い聞かせ、登ることにした。


御茶多理道 (ウチャタイミチ)

中城の和宇慶から内間、呉屋、桃原を通り、豆腐小坂 (トーフグヮービラ) を上り首里弁が岳までの道が残っている。桃原土地改善センターからから豆腐小坂までは登り坂になっており、ここを御茶多理坂 (ウチャタイビラ) と呼んでいる。中城の人々や、西原間切の海岸の集落の人々が、魚や野菜を首里に売りにいくに使われた古い道。5/24に訪れた内間御殿に住んでいた金丸 (後の尚円王) もこの道で首里に登城していたのだろう。桃原集落の人達や、内間御殿から来た人達が、この坂道で国王を出迎えたので、マチンジャービラとも呼ぶそうだ。ペリー探検隊もここを通ったそうだ。

この御茶多理坂 (ウチャタイビラ) が通る丘陵は御茶多理毛 (ウチャタイモー) と呼ばれ、その頂上付近に御茶多理真五郎の墓 (ウチャタイマグラーヌバカ) があるという。西原町が出しているGoogle マップのスポットを目指して、それらしき道を行くことにする。この道は降っている、ということはまた頂上付近まで登らなければならないということだ。頂上に向かってとんでもない急坂に出会す。ここを登ればあるかもしれない。立派な山登り。いくつか墓があったが御茶多理真五郎の墓は見つからなかった。

場所を確認する為に、今度は先程の案内板の写真を見るとGoogle マップのスポットと異なっている。隣の丘陵のほうだ。ここはもう隣の字の池田に入っている。


池田 (いけだ)

もともとは桃原 (とうばる) にあったが、明治初期の廃藩置県で首里から旧士族が移住してきてここに屋取集落を造り、昭和初期に桃原 (とうばる) から独立した字となった。人口は800人で西原町では13番目に多い字。もともと属していた桃原の約4倍にもなっている。


御茶多理真五郎の墓 (ウチャタイマグラーヌバカ)

先ほどの道では御茶多理真五郎の墓は見つからなかったが、気を取り直し、御茶多理坂 (ウチャタイビラ) まで戻り、桃原土地改善センターの案内板に従って、入り口を探す。それらしき山道がある。多分ここだろう。山道を進むと途中から、急な崖を横切る道に誘導されている。崖の道にはロープが張られており、それを引っ張りながら登る。

斜面にいくつかの墓がある。その中の一つが御茶多理真五郎の墓 (ウチャタイマグラーヌバカ) だった。

沖縄ではじめての説話集として1745年に編集された『遺老説伝』に、「西原間切嘉手苅村の御茶多理真五郎、勇力人に過ぎ歌絃及び相撲を好くし、葬後も其の気散らざるのこと」として、ウチャタイマグラーの話が載っている。昔、嘉手苅村に強力で歌や相撲が好きな五郎という若者がいた。祭りになると各村々を廻り相撲をとったが誰にも負けなかった。沖縄一の相撲とりとの評判であった。五郎は死後、御茶多理墓に葬られた。しかし、五郎の霊は成仏せず、夜な夜な亡霊がでて相撲の喊声や歌、三線の音が聞こえた。 それから五郎を御茶多理五郎と呼ぶようになった。人々は日が暮れると敢えてその墓地付近を通らなかった。その後、祭祀の供物が腐敗するようになったので、人々はこれらはマグラーの霊が盗み喰いしたものと思い、御茶多理街道を通って首里へ行く部落では、ムーチーを一日早め(旧12月7日)にやるようになったという。一説では、御茶多理真五郎は金丸と近い関係で、相撲をとりに行った地域の情報を金丸に報告していたという。与並岳生著の小説「琉球王女 百十踏揚」では金丸の部下として隠密活動をしていたことになっている。日本でも戦国時代から江戸時代には各国に旅をする商人や僧侶などが隠密活動をしていたので、満更、100%フィクションではないかもしれない。残念ながら御茶多理真五郎は金丸が王位につく前に亡くなってしまった。


尚円王先妃志礼君加那志の墓

御茶多理真五郎の墓 (ウチャタイマグラーヌバカ) を探しているときに、崖の斜面にいくつかあった墓の中に尚円王先妃の墓と石碑が建っているものがあった。「尚円王先妃志礼君加那志」と書かれている。1957年に作られた石碑だ。尚円王の妃として有名なのは尚円王の若い側室の第三代王尚真の母親の宇喜也嘉 (オギヤカ) だが、彼女は「世添御殿之按司加那志 (よそいうどぅんのあじがなしい)」側室は君清らの按司加那志 (子は内間大親)、まむた親部の妹内間ノロ (子は章氏安谷屋若松)、平安山ノロ (子は楊氏山内昌信) がいる。始めは、地理的に近いので、内間ノロだった側室の墓かと思ったのだが、一般的にはこの墓が誰のものなのかは不明。この石碑には卓氏と呂氏の名が見られる。三人の側室の子孫でもなさそうだ。石碑に書かれている「先妃」とは何だろう? 金丸が24才の時に伊是名村を出たときは妻を島に残したことになっている。この妻を呼び寄せ他のだろうか?このはかは彼女のものなのだろうか?


豆腐小坂 (トーフグヮービラ) [5月24日訪問]

御茶多理道 (ウチャタイミチ) は豆腐小坂 (トーフグヮービラ) に続く。豆腐小坂 (トーフグヮービラ) は西原町字池田から首里弁ケ嶽へ上る旧道で この坂道の土質がクチャ (島尻泥岩) からなり、まるで豆腐の角切りに似ていることから、トーフグヮービラと呼ばれるようになった。この道は1960年代ごろまで、首里への道として利用されたが、昭和59年の沖縄自動車道の開通に伴い一部が分断され、通行不能となっている。


小波津 (こはつ、クファチ)  - 2022年9月7日に再訪している。詳しい訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 209 (07/09/22) 西原町 (11) Kohatsu Hamlet 小波津集落」参照。

集落の発祥地は集落後方のイーヌヤマといわれてい る。 聖地として『琉球国由来記』に、上ノ嶽、下ノ嶽、小波津巫火神、小波津根所の記載が ある。 かつては、クファチターブックヮ (田んぼ) と呼ばれる稲作地帯で、西原口説にも「ターブッ クヮ前なちょる 小波津村」と歌われた。 小波津は古村落で、由緒ある伝統行事が残っている。綱引きでは毎年ウマチージナとウファチジナが行われる。人口は3千人で西原町では5番目に多い字。


津記武多 (チチンタ) グスク

小波津団地の西方標高60メートルのユツキーモーと呼ばれる丘の上に立地している。今帰仁城主が北山王の怕尼芝 (はにじ) に滅ぼされた時、滅ぼされた世の主の四男がこの地に逃げ延びて住み着き、津喜武多御嶽を守護神として、グスクを築いて津喜武多按司と名乗ったといわれている。これ以外にも諸説ある。今帰仁按司の子でなく婿であったという説。津堅島から来た喜舎場子の子という説。伊波按司の二男が築城したとも言われている。伝承によると、グスクの石垣は首里城の築城の際、運び去られたといわれているが、調査では根石や中込め石などグスクの石垣遺構を確認できないので、もともと石垣のない、土の城であった可能性が強いと思われる。グスクはところどころに雛段状に削平された地形があり、とくに西側の池田部落に向かう斜面地に多くみられ、造られた防御のための曲輪と考えられている。

丘陵の斜面いは多くの墓がある。

『球陽外巻 遺老説伝 (第94話)』によると、津記武多グスクの城主の津記武多按司は、幸地グスクの城主熱田子 (あったし、アッタヌシー) に滅ぼされたという。その昔話が以下の通り。


むかしむかし、西原の幸地城 (こうちぐすく) の主であった豪族の熱田子 (あったし) は、大変に知略に秀でた武勇の達人で、その時代は誰しもが恐れをなしました。 南側の隣村、小波津 (こはつ) の津喜武多按司 (ちきんたあんじ) と親交を結んで、仲がよい間柄になりましたが、熱田子の真の目的は、按司の奥方の美貌に惚れ込み横恋慕していたためともいわれています。 ある日のこと、熱田子が魚釣りの帰り、その奥方が亭良佐川 (てらさかわ、ティラサガー) で艶やかな黒髪を洗っているのを見て、こっそり奥方の後に回って泥土を投げていたずらしました。 奥方は非常に立腹し、そのことを夫の按司に報告したところ、それを聞いた按司は怒り心頭したものの、何しろ相手は侮り難い力をもっています。その場は取り敢えずは兵を動かすことなく、機会を待つことにしました。 その一方で、そのことを早くも耳にしていた熱田子は、先んずれば人を制すと、腕が立つ腹心の部下、数人を密かに呼んでいうことには、 「今こそ此の機会を利用して、早目に手を打ち、災いを取り除いてしまおう。」と。 そして充分に練った策を部下に伝えると、熱田子は部下達と共に按司を訪問し、今回のことは行き違いによるものだと上手く説明して、謝ったのでした。按司は、相手の丁重な謝罪を受け入れ、直ぐさま仲直りのための酒宴を催し、歓待することになりました。 宴もたけなわになった頃、熱田子が按司に向かって言うことには、「按司どのは、なんでも世に優れた宝剣をお持ちと、お聞きしております。以前から、是非とも一目、拝見させて頂きたいと思っておりました。」と申し出たところ、それが許されました。 按司が宝剣を熱田子に手渡すと、その宝剣を手にするやいなやその瞬間に、熱田子は按司を一刀両断に斬り捨てました。続いて一族はじめ、その場にいた者達を片っ端から皆殺しにしました。 そして、思いを寄せてきた美しい奥方を、熱田子は色々と説き伏せようと、あれこれ試みましたが、貞節な妻は、夫殺しの熱田子を憎みながら井戸に身を投げ、自ら果てました。 さて、遠縁の上に按司と仲が良かった今帰仁按司は、このことを伝え聞くなり大変に激怒し、自ら討伐するため、大軍を率いて、直ぐさま出陣したのでした。 衆寡敵せずと見てとった熱田子は、この戦は、策略で勝る外、万が一にも勝ち目はないと考えました。 そこで、城門を開け放ち、今帰仁勢を待ちました。そして敵の軍が到着するなり、熱田子は自分自ら今帰仁按司を出迎え、平身低頭して自分の罪を認めて謝り、今帰仁の大軍を、自分の城に入城させたのでした。そして熱田子は、大々的に酒の席を設け、遙々やってきた遠征をねぎらいました。全く戦わずして勝った今帰仁の軍は、勝ち戦と有頂天になり、夜が更けるのも忘れ、思う存分に酒を飲み、御馳走をたらふく食べました。 奸智にたけた熱田子は、事前に自分の軍兵を、城の近くの翁長村の北山に伏せさせ、待機させていました。合図によって、熱田子の軍が城に攻め寄せた時、今帰仁勢は殆ど応戦することも出来ずに、難なく攻め滅ぼされてしまったのでした。そして今帰仁按司もまた、討ち死にしました。後世の人はその死を悼んで、翁長村の北山を「今帰仁山」と言うようになりました。 なお今帰仁按司には、四人の息子達がいました。その四人は堅く仇討ちを誓いました。熱田子を倒すべく兵馬の訓練を積み、後に、不意をついて熱田子を急襲。流石に戦国の世に名をはせた武将も、遂に討ち亡ぼされ、四人の息子は熱田子を倒して、津喜多按司と父親の仇を討ちました。 なお熱田子の墓は石嶺御嶽の東にあり、また子孫が翁長村に多く、今でもたびたび香華が手向けられ、乱世の戦国の英雄として面影が偲ばれるほど、未だに人気があるとのことです。


御先尚円長子嘉手苅按司前の墓 (うさちしょうえんちょうしかでかるあじまめーのはか)

尚円王の長男の墓だそうだ。真偽は不明。定説では後妻か側室であった宇喜也嘉 (オギヤカ) の息子が長子となっている。宇喜也嘉 (オギヤカ) が尚円の側室になったのは20才で金丸が50才の時だ。金丸 (尚円王) は61才で没している。資料では宇喜也嘉 (オギヤカ) 以外に3人の側室がおりそれぞれに男子がいた。君清らの按司加那志の 子は内間大親、 まむた親部の妹内間ノロの子は章氏安谷屋若松、平安山ノロの子は楊氏山内昌信となっている。 そのうちの一人なのか?


タンパラ按司墓  [6月2日 訪問]

もう一つの登り口があるのでそちらも行ってみる。タンパラ按司墓と書かれている。タンパラ按司がどう言った人物なのかは一切不明だそうだ。


小波津陣地壕跡 [6月2日 訪問]

小波津には独立歩兵第11大隊が駐留し、南下してくるアメリカ軍と戦った。その第11大隊を側面から援護するため、独立重砲兵隊第100大隊に所属する1個小隊がここに布陣。この壕は、89式15センチカノン砲を隠すために作られた壕と考えられている。


小波津慰霊碑

小波津集落の外れに小波津集落住民の戦没者を弔う慰霊碑がある。沖縄戦当時、小波津集落には144世帯637人が住んでいたが、この戦争で344人が命を落とした。住民全体の54%が亡くなったことになる。30世帯が家族全員が亡くなった。大きな被害があった集落。慰霊碑の片隅に合龍格納庫と書かれた石碑が建っている。合龍とは何なのだろうとインターネットで調べたのだが、それらしきものはヒットしない。いろいろと想像してみると、一つ思い浮かんだのが、龕屋だ。沖縄のこの南部地方では死者を墓場に運ぶため、龕を使い。それを納めているところを龕屋と呼び、何箇所か龕屋跡を見てきた。龕の字は合と龍でできている。多分、龕屋がここにあったのだろう。


小波津集落センター (村屋 ムラヤー)

ここもかつては村屋 (ムラヤー) があった場所だろう。その形を保っている。この小波津集落センターの広場には火ヌ神とともに獅子が保存されている。小波津では6年おきの卯年と酉年に催される伝統行事 「7 年まーる村遊び」があったが、長い間実施されていなかったが、平成 17 年 に 30 年ぶりの復活し、棒術や獅子舞、組踊などが披露されている。

この集落にも酸素ボンベの鐘が残っている。

こんな石敢當がある。この形は初めて見た。


内間殿御願所 (ウチマトゥンウガンジョ)

立派な建物になっている遥拝所である御願所だ。説明はどこを調べても見当たらない。内間御殿への遥拝所なのだろうか?


小波津 (クファチ) の根所  (ねどころ、ニードゥクル) / 後之嶽

集落の始祖といわれているクファチマーという人が祀られており、内原門中 (うーちばらもんちゅう) 宗家の屋敷跡といわれている。根所 (ねどころ、ニードゥクル) とはその集落の発祥の家の称で、根屋とか元屋ともいわれる。


国元井 (クニムトゥガー)

根所の近くに井戸跡がある。クニムトゥ (国元) と呼ばれていたことから、古い井戸だと考えられている。


下之嶽 (シチャヌウタキ)

下ヌ嶽 (シチャヌウタキ) は、部落北側の下ヌ山にある。琉球国由来記に記載されている小波津村の「下ノ嶽」が、ここであると思われる。(神名は「イチニヤハノ御イベ」) かつてはここにも古代集落があったとされる。この集落の宗家の上月門中はその下にある。

上之嶽への山道


印部石 (ハル石)

山道を入り、暫くすると印部石 (ハル石) がある。ハル石とは、王府時代に三司官であった蔡温の命令で行った検地をした際の目印となった石。その数は約1万基あったとされているが、現在確認されている印部石は約200基。石の真ん中に「モ」、右上には我謝にある地名「上の川原」と彫られている。通常はその場所の地名を記載するのだが何故我謝にある地名「上の川原」を刻字しているのだろうか? 南風原町の兼城集落でもこの印部石 (ハル石) があった。


上之嶽 (イーヌウタキ)

上之嶽は部落後方にある上之山 (イーヌヤマー) の頂上付近の標高50メートルにあり、そこが部落発祥の地とされる。琉球国由来記によると、御嶽の神名は「マネノセヂダカシヤカノ御イベ」。


亭良佐井 (ティラサガー)

亭良佐井 (ティラサガー) は、小波津部落の北東、県営西原団地の南側にあり、部落の産井泉 (ウブガー)。正月の若水にも使われた。その井泉はどんな旱魃でも涸れたことがなく、小波津部落の共同井戸や西原中学校の用水摂取池として使われていた。『遺老説伝』に書かれている津記武多 (チチンタ) 按司の夫人が髪を洗ったところがここだ。

ここで雨が降り出した。天気予報では雨とは出ていなかったが。この梅雨の季節は、いつ雨が降ってもおかしくない。雨に降られない日は稀かもしれない。大体、小雨から始まり、止んだり降ったり、そのうちに黒い雲がかかり大雨になる。大雨になる前に帰ろうと、ここで今日の見学は切り上げる。

結局、家に1キロほどのところで土砂降りになってしまったのだが、今日は蒸し蒸しする暑さなので、雨は土砂降りと言っても、不愉快ではなく、体を冷やしてくれる。そうこうするうちに家に到着、シャワーに直行。


質問事項

  • 我謝: 謝名越ノ嶽はどこにあるのか?
  • 津記武多 (チチンタ) グスク: 御先尚円長子嘉手苅按司とは誰か?
  • 印部石 (ハル石): 何故我謝にある地名「上の川原」を刻字しているのだろうか?通常はその場所を示しているのだが。
  • 内間殿御願所: 内間御殿への遥拝所なのだろうか?
  • 小波津集落: 合龍は龕のこと? ここを慰霊碑を建てた理由は?

今晩はイカナゴの冷凍食材があったので、明石でよく母が作ってくれた釘煮を作ってみた。出来は良くなかった。イカナゴが大きくなったもののせいか、苦味が強すぎる。証で売っているイカナゴも小さなものが主流で、大きいのもあるが小指ほどのもので、買ってきたものはその数倍だった。大きなイカナゴは釘煮には向いてない様だ。合わせて大根の醤油で煮物も作ったが、そっちの方がマシだった。