「エリザベス1世の統治術」9 スコットランド女王メアリー③
メアリーは目の前で彼女が最も寵愛している臣下リッチオを滅多突きにされ殺された(ショックで流産させることを狙ったともいわれる)。彼女は、以前愛したのと同じだけの激しさでダ―ンリを憎み始める。しかし、謀叛人たちの捕虜となったメアリーは、ダ―ンリを懐柔し、彼を再びメアリーの従順な道具とする。これまで自分の感情を隠しておくことができなかった彼女が、今や初めて自分を装うことを知り、偽ることを知った。
1566年6月11日、メアリーは恐ろしい難産の末男児を出産。後にジェームズ6世としてスコットランドの王位に上がり、エリザベスの死後はイングランドをも手中に収める、あのジェームズ1世である。男児の世継ぎ誕生は、市民たちに熱狂的な歓喜で迎えられた。母となった事への安堵は、再び彼女にダ―ンリへの断固とした態度を取り戻す。そして、メアリーの人生を狂わすことになるボスウェルとの愛人関係が始まる。大胆不敵にも常に単身で目的に向かって突進するこの軍人を、メアリーはスコットランド副指揮官、戦時のための武装軍の最高司令官に任命。ボスウェルの権力は上昇を続け、ダ―ンリはもとより国務大臣メイトランド、マリ伯のそれをも凌ぐようになる。そしてメアリーは彼の後ろ盾により、初めてこの国の権力を一手に司ることになった。
1567年2月10日、エディンバラのカーク・オ・フィールド教会(現在のエディンバラ大学構内)でダーンリーが殺害されているのが発見された。聖油が注がれ王冠を頭上に戴いて即位したスコットランド国王の殺害に、各国の王たちは激昂する。メアリーは、各国の首脳から、君主殺しという恐るべき犯罪の首謀者を一日も早く見つけ出し、厳罰に処すように攻め立てられる。しかしメアリーはダ―ンリの死を悲しんでも見せないし、犯人を見つけ出すための捜査を開始するでもない。被害者の父レノックス伯の要請で開かれた裁判でも、ボスウェルは満場一致で無罪とされる。その後、ボスウェル伯はメアリーに結婚を申し込み、その数日後ダンバー城にメアリーを連行し、結婚に踏み切らせ、5月15日に2人は結婚式を挙げた。当時、ダーンリー卿殺害の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリーであると見られており(実際の証拠はなかったが)、カトリック・プロテスタント双方がこの結婚に反対した。
間もなく、反ボスウェル派の貴族たちが軍を起こした。6月15日にメアリーはエディンバラの東のカーバリー・ヒルで反乱軍に投降。メアリーは湖水に浮かぶ小さな島の上に建つロッホ・リーヴン城に移される。メアリー幽閉のニュースを聞いた時のエリザベスの反応はどのようなものだったか?エリザベスの気持ちは複雑だった。彼女がこれまでメアリーに対して個人的にいだいてきた悪感情からすれば、メアリーの失墜は彼女にとってこの上なく喜ばしいニュースといえる。もはやエリザベスは、メアリーがうるさく要求してくるイングランド王位継承権に悩まされることもない。しかし、隣の国で反乱貴族たちに捕らえられ幽閉されているのは、彼女と同じ聖油を頭上に注がれて即位した女王なのである。メアリーに対するそのような仕打ちを認めることは、エリザベス自ら女王という地位の不可侵性を否定することになる。家臣たちに、女王である彼女自身に対して反乱を企てる権利を、結果として認めることになる。エリザベスは、反乱者たちに対して厳しい叱責の手紙を送りつける。
「・・・諸卿がスコットランド女王になしたやり方を、ゆるすことも、がまんすることもできません。神の御命にしたがえば、諸卿は臣下であり、女王は支配者です。それゆえ諸卿が、自分たちの非難にこたえるよう女王を強制することはゆるされないことでした。なぜなら、頭が足に従うのでは自然にさからうことだからです」
7月25日には、メアリーは退位を求める書類に署名させられる。「署名か死か、二つに一つ。命令がきけぬなら、今すぐこの切っ先がお前の喉を貫くだろう」と脅されて。そして4日後の7月29日生後13か月の王が即位する。このジェームズ6世の摂政に就いたのはメアリーへの復讐に燃える異母兄のマリ伯。彼を交えたスコットランド議会はメアリーを、ダ―ンリ暗殺の共犯者として正式に告発する。メアリーにもはや一刻の猶予もない。この後自分を待つのは死刑かあるいは終身刑の宣告だけ。彼女は出口を探す。
エリザベス1世(左)とスコットランド女王メアリー(右)
ジャン・ルヴェス「リッチオの殺害」ワルシャワ国立美術館
女王メアリーと夫ダ―ンリ
メアリーの3番目の夫ボスウェル
ウィリアム・ミラー「ロッホ・リーベン城」1832年
(現在)ロッホ・リーベン城
ジョセフ・セヴァーン「退位を迫られるメアリー」ヴィクトリア&アルバート博物館
ロッホ・リーベン城から脱出するメアリー