紀元前からの手紙
情報化社会がもたらした副産物は大きい。
そして検索して出てきたモノを見て、分かったような気になってしまうことも実に怖い。
この際 「分かる」とは経験した者のみが使えるワードとした方が良いのかもしれない。
私たちの頭の中にある無数のアイディアは一昔前に比べ、あまり意味を成さなくなってきたように感じる。
情報価値の低下とも言える。
発信者が増えれば一つの情報の価値は総数増加により下がるからだ。
先人の知恵がネット上に溢れ、ご丁寧に失敗談まで記されている時代では、ヤルかヤラナイかしか評価の対象にはならない。
もう・・・「うまくいく方法」なんて何億人もが知っている。
改めて「知識人」ではなく「行動できる人」に注目が集まる時代へと変化することは容易に想像がつき、情報化社会は「行動」しか意味がないということを心得たい。
では「行動」を起こす前に人は何を考え、そして それ以前に何を感じるだろうか。
例えば、仕事を辞めたいと考えている人が居たとする。
仕事を辞めようと考えるには、辞めようか検討するほどの不快な感情があったに違いない。
では、それを辞めようと考えた時、私たちは必ず2択にぶつかる。
①次の職場へ行くことの不安と恐怖
②ここに残ることのストレス
である。
そして感情寄りの人間が2つを天秤にかけた時には
(1) ストレスが大きい方を避ける
(2) 快楽が大きい方を選ぶ
に分かれる。
思考寄りの人間であれば
(1) デメリットが多い方を避ける
(2) メリットが大きい方を選ぶ
に分かれる。
つまり、この4択で人は迷うことになる。
では、子供の場合はどうだろう。
お腹が空いていて、夕飯を楽しみに帰宅した6歳児がいたとする。
そこで目の前にお菓子を出されたら我慢できなくなる。(大人なら我慢するはず)
子供の多くは快楽の上書き保存が起こるため、Aを我慢するのではなくBという快楽が上回った時、いとも簡単にAのことを忘れ去れるようにできている。
また、学校に行きたくない理由が一つあったとしても、それを上回るほど大きな「行きたい理由」が見つけ出せたとき、不登校は無くなる。
つまり「感情」の生き物である。
では私たち大人の場合はどうだろう。
どちらかと言えば打算的でメリットの確認をするはずで、これは「思考」の生き物の証拠である。
そんな私たち大人が行動をするために必要な動機とは「確実性」「安全性」「メリットの確定」ではないだろうか。
これが確認されるのは一体どんなタイミングだろう?
行動を起こさずに、一体どうやってソレらを推測するのだろう?
誰かからの情報か?
ネットによる検索か?
やはり私たちが行動を起こすには、安心材料という 良く分からない情報を頼りに動くことになる。。
それは一体 どこの誰にとっての安心材料なのだろうか。
そんなことよりも、私たちを行動に駆り立てるモノは いつの時代も感情に起因し、それを上手く言葉にする必要はない。
言葉で説明する時とは銀行を説得するときくらいだ。
さあ、行動を起こそう。
行動の先にある快楽が上回れば、大半のリスクは小さく見えてくる。
・・・誤解を恐れずに言えばコロナは私たちにCRASH & BUILD の潔いチャンスを与えてくれた。
今まで縋りついていたセンスのないモノに諦めを与えてくれた。
そこに未来はないと教えてくれた。
戦争は戦わないのが一番。
倒したと思ったら、弱った兵を襲いに来る別群が必ず現れ、いとも簡単にヤラレテしまうからだ。
紀元前からの決まりのように、ソッポを向く奴が一定数いるからこそ全員が死滅せず次へ襷(たすき)を渡すことができた。
戦後の風潮として、不況のタイミングで新手の詐欺と革新的なビジネスが生み出されることも分かっている。
歴史を学ぶとしたら未来へ活かさない手はないわけで、自分では壊せなかったモノを強制的に壊してもらうことで物事には一定の期限とサイクルがあることを私たちは再確認し、だからこそ今を見つめる尊さを知ることになる。
そう、物事には終わりがある。
何も悲しいことではない。
あなたの人生が一つの作品で終わるという思い込み自体が最初から間違っていただけで、トータルで三作品くらいは作るものだと教えてもらわなかったのなら、親や教師に「チェだぜ!」と呟けばいい。
誰かの成功体験は誰かの成功体験であり、自分の置かれた境遇とスペックでは通用しない。
誰かの性交体験は誰かの性交体験であり、自分が気持ち良いわけではない。
今宵もヒト華さかせよう。