日本宣教24-慶長の役の始まり
2020.05.29 11:28
偽りの和平を結んだ小西行長は秀吉に処刑されそうになったが、淀君が秀吉の前に立ちはだかり、助命されたといわれる。淀君を掲げる三成らのネットワークはもうできていた。淀に弱い秀吉は仕方なく、小西を再び朝鮮に送りこむことにした。だが明のほうは、交渉に当たった沈惟敬らを処刑した。
朝鮮の役には、キリシタン大名黒田孝高も出陣している。大将宇喜多秀家の軍監だった。ところが宇喜多は飾りだけで、実質三成が仕切っているのを見てヤル気を失い帰国してしまう。しかし戦況悪化で1592年再び朝鮮に渡る。秀吉の命令は、交渉を有利にするように晋州城攻撃だった。
ところが現場では、まず越冬のための城塞工事が優先事項だった。5月21日現場状況を伝えるため帰国するが、秀吉は敵前逃亡とみなし、会見も許されず朝鮮に戻された。この間は三成の讒言との記録もある。晋州城攻撃では息子の黒田軍を援助し、装甲車である亀甲車をつくるなど攻略に貢献した。
しかし秀吉の勘気は冷めず、孝高は息子に遺書まで書いて帰国し、髷を切って「如水」と号して引退すると報告、危機一髪で秀吉に許された。如水は中国風の名前だが、実の意味はヨシュアだったという説がある。ヨシュアはエリコを制圧した英雄、ということでまたまた朝鮮に行くのである。
下は大河ドラマ「軍師官兵衛」より頭を本当に剃った岡田如水