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Okinawa 沖縄 #2 Day 20 (29/5/20) 西原町 (3) Yonagusuku, Goya, Onaga, Kochi Hamlets 与那城/呉屋/翁長/幸地集落

2020.05.31 14:07

与那城 (よなぐすく、ユナグシク)

呉屋 (ごや、グヤ)

翁長 (おなが、ウナガ)

幸地 (こうち)  (訪問記は 6月2日)

今日は西原町の残りの史跡を巡る。今日で全て見る予定だったのだが、訪問先でその村の観光案内板で、新しい史跡が紹介されていて、結局は途中で時間切れとなった。



与那城 (よなぐすく、ユナグシク)

もとの集落は隣村の我謝の上ヌ川原付近にあったとされ、その後2回ほどの村落移動を経て、 現在地へ移動してきたとされる。 聖地として琉球国由来記に、與那城火神、謝名越之殿がでている。 戦前、与那城は小さな集落だったため、他集落のような綱引きや村芝居などの年中行事はなく、唯一の行事は旧暦8月の三津武嶽ウガミであった。戦後は村の多くが米軍用地として接収され、居住許可が下りた与那城・我謝に人口が集中した。1968年に字嘉手苅に移るまで西原村役所がおかれ、商店や映画館がたち並び西原村の中心地であった。人口は約2600人で6番目に多い字だ。

与那城貝塚があった場所は西原ハイツという住宅街になっている。大きな邸宅が立ち並んでいる。東京でいえば、田園調布のような感じだ。金持ちが集中しているのだろうか?

西原町教育委員会中央公民館

昔から西原の中心地であった。ここは字の公民館ではなく西原町の公民館。

公民館の前には西原町役場が建っている。西原町行政の中心地。

中央公民館の裏に九六式十五糎榴弾砲が沖縄戦を忘れないために、展示されている。


与那城貝塚

1978 (昭和53) 年の中央公民館建設工事の際に大半が破壊。翌年、この貝塚が発見された。出土遺物から、沖縄貝塚時代後期からグスク時代の11世紀から12世紀前後のものと考えられる。

貝塚があった場所にある西原ハイツから町を見たところ。


謝名越之殿 (ジャナグシヌトゥン) [6月2日訪問]

入口右手に墓があり、與那城大主之碑と書かれている。与那城を治めていた人物の墓だそうだ。

ここから中に入ると謝名越之殿 (ジャナグシヌトゥン) がある。中央公民館近くにある謝名越嶽 (ジャナンキー [場所は不明のまま、見つけられなかった]) の遥拝所。祠の右側には与那城火の神 (ヒヌカン) が祀られている。さらに、祠の右後方には竜宮神の拝所も確認された。この近くまで海岸線が来ていたのだろうか? 与那城集落で旧暦の8月に行われる三津武嶽拝み (ミチンジャキウガミ) という子どもの健康を祈願する行事の際に拝む拝所。この三津武嶽 (ミチンダキ) とは琉球王国時代の神女組織の最高位の聞得大君 (きこえおおきみ) の墓と言われている御嶽 (ウタキ) で、与那原町訪問時に訪れた場所。(Okinawa 沖縄 #2 Day 15 (13/5/20) 与那原町 (1) Yonabaru / Ue Yonabaru Hamlets 与那原 / 上与那原)

三津武嶽拝み (ミチンジャキウガミ) の作法が見つかったのでここに載せておく。今でも一般的に行われているのは興味深い。


上井戸 (ウィーガー)  [6月2日訪問]

この謝名越之殿 (ジャナグシヌトゥン) から少し上に行くと井戸跡がある。上井戸 (ウィーガー)


地頭火神 (ジトゥーヒヌカン)  [6月2日訪問]

ここも、与那城集落で旧暦の8月に行われる三津武嶽拝み (ミチンジャキウガミ) という子どもの健康を祈願する行事の際に拝む拝所 (うがんじゅ) の1つ。


前之井 (メーヌカー 与那城児童公園)  [6月2日訪問]

多分、ここが前之井 (メーヌカー) と思われる。


呉屋 (ごや、グヤ)

現集落後方にある呉屋毛 (グヤモー) が集落発祥の地。 集落の守護神である呉屋の石獅子は、ヤマヌカミ (山の神) のケーシ (返し) であるといわれ、運玉森に向けて設置されている。 聖地として、琉球国由来記に、上ノ嶽、呉屋ノ火神、呉屋根川、呉屋之殿の記載がある。 集落では、かつては綱引きやエイサー、村遊びが行われていたが、戦後は綱引きだけとなっている。人口は約500人で西原町で7番目に少ない字。


呉屋コミュニティーセンター

集落の呉屋毛 (グヤモー) 側に呉屋コミュニティーセンターがある。おそらく、ここがムラヤーであったのだろう。

集落はそれほど大きくなく、丘陵の麓に広がる畑の中に小さく集中している。


農村公園

呉屋毛 (グヤモー) 丘陵の尾根に650mの津花波の散策道がありその道に沿って、御殿小 (ウドゥングア)、津花波之殿 (ツハナハヌトゥン)、上之嶽 (ウィヌダキ、グスクヌチヂ)、中ノ御嶽 (ナカヌウタキ)、呉屋之殿 (グヤヌトゥン)、石獅子、呉屋根川 (グヤニーガー) の史跡がある。それと尾根沿いには電力線を張っている鉄塔が4基も立ち並んでいる。この散策道を徒歩で往復したが、誰とも会わなかった。散策道はきれいに整備されているので、往復1.3kmと散歩には手頃なのだが、平日だったからだろうか? 最も、呉屋集落でも殆ど人は出歩いていない。


[呉屋根川 (グヤニーガー)]

呉屋集落は中ノ御嶽の周辺にあったそうなので、村人はこの井戸の水を使っていたのだろう。


[呉屋之殿 (グヤヌトゥン)]

呉屋集落の拝所。一番重要な拝所なのだろう。祠が作られて、手入れがされている。


[石獅子]

この石獅子は、呉屋部落後方(北側)の殿下方に位置し、集落の守護神として、ヤマヌカミ (山の神) のケーシ (返し) であるといわれ、運玉森に向けて設置されている。製作年代および製作者などについては不明である。


[中之御嶽 (ナカヌウタキ)]

呉屋集落は中ノ御嶽の周辺にあったそうだ。

ここから階段で丘陵の尾根まで登り、遊歩道を丘陵の端まで歩く。


[上之嶽 (ウィヌダキ、グスクヌチヂ)]

この拝所は地元ではグスクヌチヂと呼ばれており、神名は「マネツカサノ御イベ」。


[津花波之殿 (ツハナハヌトゥン)]

昔はこの辺りに津花波という集落があったが、現在は麓の方に移動している。


[御殿小 (ウドゥングア)]

丘陵の呉屋集落とは反対側の斜面にこの拝所がある。この一帯がかつて津花波集落が広がっていた。


翁長 (おなが、ウナガ)

イーヌモをクサティ(腰当)にする古い集落である。18 世紀後半には幸地から翁長に間切番所が移され、戦前まで西原の政治の中心地であった。旧村役場の敷地に、戦争犠牲者を祀った西原の塔などがある。その他、今帰仁按司墓や焚字炉などがある。聖地として琉球国由来記に、コバノ嶽、翁長ノ火神、テラノコシノロ川、翁長神アシアゲ、喜納之殿の記載がある。翁長には有名なヨンシー行事があり、毎年旧暦の8月7日~15 日にかけて村遊びと一緒に行われる。昼間はヨンシーが行われ、夜に村遊びが行われる。人口は約4200人で西原町では一番大きな字となっている。


翁長の焚字炉 (フンジュルー)

現在は翁長公民館となっている建物は、かつての翁長ガニク (馬場) であったが、その一角に焚字炉 (フンジュルー) がある。焚字炉 (フンジュルー) とは字を書いた紙 (字紙) を焼いた炉のことである。これは中国明代の敬惜字紙の風習が伝わったもので、1838年来島した冊封使林鴻年が、文字を敬重し、字紙を敬うことを説き、焚字炉を設置させたのに始まる。そのころ翁長にも焚字炉が設置されたのだろう。同じ頃、沖縄本島各地の番所や村屋などに設けられたが、大正時代以降、焚字炉も少なくなった。現在、翁長の焚字炉は屋根の部分を残すのみであるが、戦前まで完全な形で保存されていた。


神 (カ) アサギ、火之神 (ヒヌカン)

焚字炉 (フンジュルー) と同じ場所に祠がある。神 (カミ) アサギと書かれてある。琉球国由来記に記載されているという翁長神アシアゲのことだろう。カミアサギは場所によって呼び方が微妙に異なり、カミアシャギとも呼ばれる。隣には火之神 (ヒヌカン) が祀られている。琉球国由来記に記載されている火之神 (ヒヌカン)だろうか? 神 (カミ) アサギは沖縄本島中南部に見られる祭祀場の殿 (トゥン) の古い形態で、4本柱または6本柱で壁がない吹き抜け構造で、床張りもなく、軒が極端に低く、腰をかがめないと中に入れない。茅葺屋根の寄棟造が伝統的な様式。これが分布する地域は「神アサギ文化圏」、「北山文化圏」に分類され、三山統一以前の北山王国の版図に重なるとされる。

様々な神アサギ


寺腰奴呂川 (テラノコシノロガー) / ティランキーガー

翁長部落から幸地の方向にある神嘗毛 (カンヌミモー) の東側裾部の標高47メートルに、この拝井泉がある。 琉球国由来記には、テラノコシノロ川と記され、稲穂祭三日崇之時に幸地ノロが来て祭祀を行った。今でも幸地ノロの代理によって祭祀が行われている。地元ではティランキーガーと呼んでいる。井戸の形態は堀抜き井戸形式で、周辺は野面石積みによって、半円形状に構築されている。


樋川井 (ヒージャーガー)

寺腰奴呂川 (テラノコシノロガー) / ティランキーガーの近くに「ヒージャーガー」と呼ばれる井泉にある。 ここにはシマチスジノリが生息しているそうだ。「チスジノリ科に属する淡水産の美しい紅藻で、沖縄本島とマリアナ諸島に分布し、沖縄本島中南部、本部半島、金武町などの石灰岩地域の湧井泉に自生している。 シマチスジノリは、色や形が血管に似ていることからチスジノリと名付けられ、方言ではカースヌイとも呼ばれ、オキナワモズクに似ている。」と解説版があった。

井戸には今でも水が湧いており、きれいに透き通っている。ここにはシマチスジノリというもが生息しているので有名な場所らしい。シマチスジノリらしき藻は見当たらなかった。水が住んでいるせいか、オオシオカラトンボの雄と雌が戯れている。


喜納之殿 (チナヌトゥン)

琉球国由来記に記載されている聖地なのだが、どこを探しても説明は見つからなかった。


西原の塔

西原村は沖縄戦当時、日本軍の飛行場があったうえ、司令部が置かれた首里攻防をかけた激戦の地であったため、沖縄戦で最も激戦地の一つとな李、住民の47%が死亡するなど多くの被害を出した。 戦争でなくなった村民、村内で戦死した軍人、軍属ら7,000柱余りが合祀された。 西原の塔は沖縄戦以前に、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変等の戦没者を祀るために、昭和16年に「忠魂碑」として建立された。この忠魂碑は、沖縄戦で破壊。 生き残った村民が協力して村内各地の野や山で風雨にさらされていた兵士や村民の遺骨を収集し、現在地に納骨した。1955 (昭和30) 年、沖縄協会の援助と村民の奉仕作業及び寄付金運動によって忠魂碑の全面改修を行い、「西原村慰霊塔」と称し、収骨、合祀した英霊は1,700余柱であった。さらに、1968 (昭和43) 年、再び改修を加えて「西原の塔」と改称し、合祀柱数は2,000余柱となった。 その後、沖縄戦において西原村内で戦没した県外出身者、村外本県出身者の確認もでき、英霊の柱数も増えた。併せて村内出身者の軍人、軍属、一般戦闘協力者、村出身外地戦没者も含む英霊の遺族台帳の整備を進めるとともに、1976 (昭和54) 年以降現在まで7,068柱である。1985 (昭和60) 年には、「西原町非核反戦平和都市」を宣言し、積極的な平和事業を推進。 1992 (平成4) 年、本土復帰20周年の記念事業として、「モニュメント」を建立。毎年10月、この西原の塔において、恒久平和の祈りと諸英霊の冥福を祈り、戦没者追悼式が行われている。

西原も沖縄戦では大きな被害を被った地域で、ここにも慰霊碑がある。西原村は第32軍司令部のあった首里城の東方に位置し、海岸線は東方に中城村の和宇慶、津波、南は与那原に通じ、東北から北部は上原及呉屋北方高地、そして更に坂田、棚原、西方に幸地から運玉森、首里の弁ヶ岳へと、正面は中城湾三方は高地で首里攻防の激戦地であった。当時の村民は北部への疎開を行った。第一陣は昭和20年3月24日頃、北部へ移動を完了。その後すぐに、第二陣を纏めたところで、米軍が4月1日に上陸、僅か2日で島を中断される状況下、北部移動は不可能となり、ある家族隣人等は自家壕に潜み、戦線の近迫と共に多数の村民は砲空爆の中、本島南部へ移動、遂に多数の犠牲者を出す事となった。 5月4日の軍の総攻撃は右翼隊として第24師団 (山3430)、第89連隊、山3476部隊の第三大隊は小那覇、嘉手苅、内間での激戦で多数の戦没者が出る。第一大隊は呉屋北方高地 (現琉球大学) に奇襲攻撃をかけ占領すると米軍の猛反撃で殆ど全滅。第24師団 (山3430) 第22連隊 (山3474部隊) の第11隊は、夜半、幸地まで前進するも、白曉には米軍戦車隊の猛攻で破滅される。総攻撃前には上原から幸地に到る攻防戦は熾烈を極め、特に幸地附近は一週間にわたり、取ったり 取られたりの激戦が続いた。 西原村の住民をまきこんだ一連の戦闘は、一家全滅世帯数476家族に及び、激戦地の小那覇で65家族、我謝で68家族、翁長で71家族におよんでいる。西原村における戦没者は実に5016柱に達し、村民の46.9パーセントの命が失われた。


村民の戦没者の氏名が記されている。世帯ごとに刻まれている。亡くなった当時の年齢も併せて記されている。同一家族なのだろう見ているだけで落ち込んでしまった。

ここにも村人の戦没者のリストがある。各字毎に戦没者の人数が記載されている。これをみると沖縄戦の悲惨さに胸が痛くなる。当時、西原町全体で総世帯数は2,156で一家全滅してしまったのは476世帯の21%。戦没者が出た世帯は1,803世帯で83.6%にも及ぶ。当時の西原町全体の人口は10,881人で戦没者は5,106人で45.1%。戦没者の多い字は、我謝 (55%)、翁長 (63%)、小波津 (54%)が目立つ。一つの村で5千人もの死者が数日で発生したのだ。一瞬で家も仕事もなくなり、家族も失ってしまった。戦後、数年も苦しい生活を強いられた。明治初期に琉球王国が消滅し、完全に日本に併合され、その70年後には日本本土の防波堤として沖縄県民は12万人の犠牲者がで、その中で一般人は9万4千人に及ぶ。その後、米軍の支配が続く。現在の新型コロナの被害とは比べ物にならないほどの惨劇だ。この様な悲惨な歴史を経験しているからなのか、この新型コロナでは日本本土ほど、動揺していない様に思える。


顕彰碑・歩兵第八十九連隊山476部隊


外地戦没者之碑 と 歩兵第89連隊丸地大隊戦没者慰霊碑


観世音の像 (石独立歩兵第11大隊)


魂魄 (独立二十八大隊・海上挺身隊慰霊碑)

納骨堂



村役場壕

この西原の塔がある場所はもともと村屋 (ムラヤー) があった場所で、村屋 (ムラヤー) が先ほど訪れた公民館に移り、現在は給食センターになっている。学校も再開しているので、給食作りで活気が戻ってきている。

この村役場のところに沖縄戦で村民の避難壕が残っている。


幸地 (こうち、コウチ)

この後、尾長集落の北側の丘陵にある幸地 (こうち) 集落を訪れたが、案内板にある史跡がなかなか見つからず、全てをみることができなかった。この幸地 (こうち) 集落には、もう一度来ることにして、訪問記もその際に含めることにする。

幸地按司井 (訪問記は別途)

グスク上門ガー(訪問記は別途)

幸地グスク(訪問記は別途)


質問事項