昭和レトロが醸し出す過ぎし日へのノスタルジー『宝湯』
コーヒー10銭、たばこ7銭、はがき1銭5厘…。
ウォール街での株価暴落が契機となって世界大恐慌へと発展し、大量失業時代を迎えた昭和4年…。“大学は出たけれど…”そんな言葉の流行った暗い世相のさ中に、“宝湯”はこの町で産声を上げた。
近くに住む志原氏が建築主(創業者)で、当時の屋号は“敷島湯”。
以降いつの頃からか、岡田さん、という方が引き継ぐことになり屋号も“高砂湯”に…。現在の経営者である服部氏が“宝湯”(開業当時は「寶湯」)と改名し、
開業したのは昭和32年のことである。
最盛期(昭和44、45年頃)には全市で16軒を数えるまでになり、近隣には、「大一湯」「友栄湯」「日の出湯(平成10年1月廃業)」なども賑わいを見せていたが、現在(※執筆当時2013年)では宝湯一軒を残すのみとなった。
開業以来55年、先代の遺志を継ぎ、ご子息と先代の奥様が“加古川市内唯一の銭湯”「宝湯」の“のれん”を守り続けている。
師走の半ば過ぎ、自身でも驚きであったが、ほぼ半世紀ぶりに宝湯ののれんをくぐり、入湯する機会を得た。
小学生のころから、夕方になると近くに住む同級生と足しげく通った宝湯。
ご夫婦交替で番台に座って居られたが、奥様は上品かつ殊更に美人であったことを子供心にも鮮明に記憶している。
当時、銭湯は地域唯一の社交場でもあり、また情報交換の場でもあった。夕方から混みはじめ、時間と共に洗い場もないほどに大勢の人々で賑わっていたことを思い出す…。
前述の(先代の)奥様は現在もすこぶるご健勝で、ご子息とともに笑顔で私をレトロな雰囲気に溢れる場内を案内して戴くこととなった。(写真は許可を得て撮影した。)
以前より気になっていたのは、まず以下の写真…。のれんの上に、“雀”の文字が反対に貼られている…。この意味を伺ったところ「雀が、前にひっくり返るくらいに身体を屈めて、お客が入ることをお願いし、千客万来を祈願する貼紙。父親の時代より貼っています。」とのことであった。
引き戸を開けて中に入ると右手には昔ながらの番台。
私が通い詰めた頃と殆ど変っていないことに、息をのむ。まさに昭和レトロそのままであり、時が止まったままの光景に改めて目を見張った。
張り紙や広告の掲示板も当時のまま、あえて替えていない。歴史を感じさせるノスタルジックな雰囲気を醸し出していた…。
昭和4年以来、今も使われている木製の下足箱。怠らない手入れに80年以上使い込まれ、黒光りに輝いており、最上部には、昔のままの商店広告が掲示。なんとも風情のある趣である…。
昔ながらの籘製の脱衣籠…。確かに私も幼いころ、これを使っていた。
湯気で曇る正面浴場入口の硝子戸に、学校のいじめっ子を思いだし、指で描いた“○○のアホ!”そんな懐かしい思い出もよみがえってくる…。
右上を見上げれば、戦前からあるという、大きな掛け時計。黒く輝く光沢が永きに亘り時を刻み続けてきた歴史を物語っている。
脱衣籠の右手には大きな鏡が5枚一列に並んでおり、さらによく見ると上部の広告文字が右から左へ流れている…。長年にわたって人々の喜怒哀楽の姿を映し出してきた、これもまた年輪を感じさせる品の一つである。
洗い場
水槽は、湯上り後にほてった体を冷やす為に水をかけるのが目的のもの。しかし…“特に外国のお客は、間違って水槽にはいってしまう…そんなお客もいますよ~!”とのこと。
浴場は長年使い込まれた市松模様のタイルで張り巡らされており、汲みあげた清浄な地下水は、昔ながらに薪と重油で焚き上げられ豊富なお湯として浴槽からあふれ出している。
「客層は一人住まいのお年寄りが多く、その方達の笑顔に接するのがうれしいので毎日頑張って続けています。」との店主談。昭和の気骨はレトロな香りと佇まいの中に、いまだ脈々と受け継がれ、活き続けている…。
これは2013年1月に公開したガイド書です。
宝湯は2017年におしまれつつ閉店されました。