日本宣教25-日本26聖人の殉教
2020.05.30 11:48
秀吉の宣教師追放令以後も実はキリシタンは増えていた。オルガンティーノによれば92年までの5年間で4万人の信者が増えたという。そしてポルトガルファッションが巷に流行した。派手な風体の「かぶきもの」の時代だった。ところが宣教師達は穏便にと、昼間は和服を着たりしたらしい。
ところが新たに入ってきたフランシスコ会宣教師は、日本政府の言う通りにするイエズス会を臆病と思った。イエズス会の独占だった布教許可をとり、1594年当時関白だった豊臣秀次にとりいり、京都に教会をつくり、平然と修道士服で闊歩した。
しかし95年秀次は失脚して自害、96年10月16日メキシコ行きのサン・フェリペ号が土佐で座礁する事件が起こる。この取調べにあたった増田長盛は、ペルーなどの実態を掴み、スペインは宣教師を先兵として国を植民地化している、と秀吉に告げたという。かねてより、自分に平服しないフランシスコ会を嫌っていた秀吉は、京都の宣教師と信徒24人を捕えさせた。
24人は左耳を落とされ、付き添いの2人を含む26人が、97年2月5日、長崎まで歩かされて処刑された。12歳のルドビコ茨木は、改宗したら助命すると言われても拒んだ。パウロ三木は十字架上で信仰告白し、処刑した者を許すと言った。このニュースは世界各地に知らされ、1862年彼らは列聖された。
下は長崎の日本26聖人殉教記念碑の前で祈る教皇フランシスコ