「エリザベス1世の統治術」11 スコットランド女王メアリー⑤処刑
エリザベスは、近親でもあるメアリーが少なくとも王族の人間らしい生活を送れるようにとある程度の自由は認めた。そのため皮肉なことに、メアリーと通じ合い、彼女を擁立してエリザベスの王位を簒奪しようとする陰謀は後を絶たなかった。その多くは、イングランド北部貴族などのカトリック勢力と中央の反体制派が結びつき計画したものであり、背後にはいつもカトリックの大国スペインの影がちらついていた。
陰謀や反乱を企てた関係者には厳罰をもって臨んだエリザベスも、メアリー本人の拘禁・処刑は幾度となく思いとどまってきた。しかし度重なるメアリー擁立の陰謀には、さすがに態度を硬化せざるを得ない。イングランド議会もメアリーの処刑を強く求め続けた。
メアリー処刑の直接の原因となったのは、1586年の「バビントン陰謀事件」。これは、パリ在住のメアリーの代理人トマス・モーガンらを中心に進行していた陰謀であったが、この際やり取りされた手紙はフランシス・ウォルシンガム(エリザベスの側近の国務大臣。スパイ組織を取り仕切っていた)が放ったスパイにより、事前に内容を記録されたうえで双方に届けられていた。陰謀に加担した一味は泳がされていたのである。そのため陰謀が発覚したときには、ウォルシンガムはメアリーが事件に関与している決定的証拠を握っていた。もともとメアリー処刑に対して強硬派だったウォルシンガムが、メアリーを罠にはめて処刑に追い込んだといってもよかった。
しかしエリザベスには、他国の女王を反逆の罪名で裁くことが正当ではないことがわかっている。相手は聖油をそそがれ王冠を頂いた一人の女王。彼女を裁くということはいわば君主の至上権や不可侵性を一方的に無視することであり、君主であっても臣下によって裁かれ刑に服することがあるという前例を、歴史に残すことになるなってしまう。
一方、メアリーは、自分を待っているものは死でしかないことを確信。9月にフランスにいる従弟のギーズ公に宛てて手紙を書く。
「わたくしはといえば、自らの信仰のために死ぬことを決意しました。神のお助けによって、わたくしは永遠に主張するカトリックの信仰の中で死ぬでしょう。・・・わたくしの勇気はわたくしを見放しません。さらばよき従弟よ」
10月1日、エリザベスは自分の手紙を持たせポートレットをメアリーのいるフォザリンゲイ城へ派遣。その手紙には、メアリーの陰謀参加について正直に告白して後悔の念を伝え、公の裁判ではなくエリザベスの個人的裁量にそれを委ねてほしいと書かれていた。エリザベスは、メアリーに最後の命乞いのチャンスを提供したのだ。しかし、メアリーの決意は揺るがない。
「わたしは罪人にすぎません。創造主たる神をしばしば傷つけたことを確信しており、わたくしをお許しくださるようにと、主にただ願うばかりです。ただし女王として君主としては、わたくしはこの世の誰に対しても、いかなる過ちも侮辱も犯してはいません。ゆえにわたくしは誰にも許しを乞いはしないし、地上の誰からも逆にそれを受取ろうとも思いません」
結局エリザベスが死刑執行状へサインしたのは、メアリーがイングランドに来てから19年後の1587年2月1日のことであった。令状が読み上げられると、メアリーは平静を保ったまま「このお知らせを神に感謝します」と言って十字を切ったという。刑はさらにその1週間後に執行された。処刑されるにあたって、3時間かけて準備したメアリーは、黒いビロードのローブの下に殉教者の色である赤のアンダースカートを着けていた。断頭台に上がったメアリーは、その首を進んで処刑人の斧の下に差し出した。
「主よ、あなたの手に、わたくしの魂をゆだねます!」
その顔は、少しも女王の威厳を失っていなかったと伝えられる。メアリーの処刑により、エリザベスの廃位を狙った大規模な陰謀は起きなくなる。しかし、この事態を受けて、スペイン王フェリペ2世が動く。イングランドへ無敵艦隊の派遣、アルマダの海戦(1588年)である。
処刑直前のメアリー
メアリー・スチュアートの死刑執行にサインするエリザベス1世
処刑台に向かうメアリー・スチュアート
メアリー・スチュアートの処刑
メアリー・スチュアートの処刑