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瑠璃の部屋~メール専用カウンセリング~

<今だから>読んでおきたい宮沢賢治 ①賢治の人と生涯

2020.05.30 22:04

最近、Facebookの投稿で<7日間ブックカバーチャレンジ>というものをよく見かけます。


7日間ブックカバーチャレンジとは、読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、好きな本を1日1冊選び、本についての説明は無しで表紙画像をFacebookへ7日間アップを続け、その際毎日1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする、というのが基本的なルールのようです。


自粛生活の中で、読書をする機会が増えた方もいらっしゃると思います📚️


学士~修士を通じて日本文学を専攻していた私も例外ではありません。


10年近く前になりますが、当時編集者をしていた知人から文豪の作品解説の執筆を依頼され、芥川龍之介と宮沢賢治の人と作品についての原稿を作成した事があります✏️


芥川については、スマホ向けのアプリとしてリリースされましたが、賢治については、出版社側のアプリの制作費等諸事情があって、(原稿料は頂きましたが)リリースに至らずに終わってしまいました😭


そこで、読書文化普及の一環として、この場を借りて、未発表の原稿に加筆修正を加え、賢治の生涯と代表作について、綴っていこうと思います🖊️


取り上げる作品は小説(童話)、詩を併せて7作品を予定しています。


私がこの取り組みに思い至ったのも、メールカウンセリングの活動をしているのも、ひとえに文字、つまり<書き言葉>というものの持つ力に敬意を払っているためです。


ブックカバーチャレンジのように毎日7日間というような期限は設けません。また、文学作品には解説が施されています。というか、解説がイノチです。ブックカバーチャレンジの変型版のようなものだと思ってください(笑)


※ご参考までに、過去にリリースされた芥川の作品を解説したアプリはこちら

↓↓

死ぬまでに読んでおきたい 芥川龍之介(Google Play)

https://play.google.com/store/books/details/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B_%E6%AD%BB%E3%81%AC%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AB%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84_%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B?id=fQYrDwAAQBAJ&hl=ja


それでは、初回は賢治の人と生涯から解説していきたいと思います。


賢治の人と生涯

宮沢賢治は1896年(明治29年)8月27日、岩手県稗貫郡里川口村(現花巻市)において、質・古着商を営む宮澤政次郎とイチの長男として生まれた。


幼い頃より宗教に親しみ、植物、鉱物採集にも熱中、また詩歌も数多く作る。県立盛岡中学(現・盛岡第一高等学校)を経て、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)卒。22歳ごろ初めての童話を書き、以後、創作と農業指導に献身する。作品中に登場する架空の理想郷には、郷土岩手をモチーフとして「イーハトーブ」と名づけている。


1921年(大正10年)より4年あまりの間は花巻農学校の教師として定職に就くが、生涯の大部分は父からの経済的援助を受けていたという。1924年(大正13年)詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を出版する。これだけが生前刊行の本で、生涯に稼いだ原稿料はわずか5円だった。かねてから病弱で、1933年(昭和8年)急性肺炎のため37歳の若さでこの世を去る。


広く作品世界を覆っているのは、作者みずからの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲の精神である。質・古着商の息子であった賢治は、地元を繰り返し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに家財道具などを売って当座の生活費に当てる農民の姿にたびたび接し、この体験がのちの賢治の人格形成に大きな影響をもたらしたとされている。


また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。特に18歳の時に法華経を読んで深い感銘を受け、後に国粋主義の法華宗教団・国柱会に入信する。法華宗は当時の宮沢家の宗派であった浄土真宗とは異なっていたので、父親との対立を深めることとなった。


弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素はこれらの経緯と深い関わりがあると思われる。


また、賢治が26歳の時に良き理解者であった妹のトシが24歳で病死したことによる喪失感は、以後の作品に陰影を加えたと思われる。


加えて、自然との交感力が特異で旺盛で、作品に極めて個性的な魅力を与えている。


その一方で、天才であることの裏返しなのか、一般人には理解できない奇行もまま見られ、下記の詩に近いような行動を取っていたという証言もある。

 

  私は花椰菜(カリフラワー)の中ですっぱだかになってゐた。

  私のからだは貝殻よりも白く光ってゐた。

  私は感激してみんなのところへ走って行った。

  そしてはねあがって手をのばしてみんなと一緒に

   「ホッホッホッホッ」と叫んだ。(「花椰菜(はなやさい)」)

 

また、賢治は生涯独身で、禁欲主義者であったとされるが、自らが猛烈に多作した童話原稿の入った大トランクを指して、「童児(わらし)こさえる代わりに書いた」と語ったという。つまり、「童児こさえる」ことをしたいと思っていたが、いくつもの不可避の事情 から、それは自分にはできない。なぜなら、法華経への信仰上の理由から禁欲主義をとっていたからでもあり、また、22歳の時に肋膜炎を患って医師の診断を受けた時に、友人の河本義行に「自分の命もあと15年はあるまい」と述べたとされており、自分の命が長くないことを悟り独身を貫くつもりでいたからでもある。だからせめて、その代わりに童話を多作したのだという。


生前は無名に近い状態であったが、没後に草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり、国民的作家としての地位を確立し、現在に至っている。