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日本基督教団 板橋大山教会

5月31日(日)聖霊降誕節第1主日(ペンテコステ)

2020.05.31 00:00

ヨハネによる福音書 14章15~27節

 今日は、聖霊降臨節の主日です。

 教会は、聖霊降臨の出来事から始まったと言われています。その後、キリストを信じる人たちは、キリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになりました。(使徒言行録11章26節参照)

 多くの場合、クリスチャンという名称は、キリスト教を信じる人たちのことを指して言われますね。でも、クリスチャンは、本来的には、漠然とキリスト教を信じている人たちというよりも、具体的に、聖書の教える神様を信じ、イエス・キリストを信じ、聖霊を信じる人たちのことを意味しているといってよいと思います。

 今日は、聖霊降臨の出来事を覚える主の日ですから、具体的に、イエス様について、聖霊についての学びを深めたいと思います。

 イエス様は、弟子たちを愛しておられたので、これからご自身の身に何ごとが起きようとも弟子たちに心配がないようにと、真理の霊についてお話になりました。ご自身とは別に父なる神様から与えられる真理の霊が弟子たちを守り導くと解き明かされたのです。

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(20節)とありますように、インマヌエル(神は我々と共におられる)の一体感が神様からの真理の霊によって与えられると解き明かされました。

 イエス様は、真理の霊について解き明かされたとき、けっして知識や知恵としてお教えにはなりませんでした。イエス様は、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」とお話になられ、真理の霊を「愛する」ということにおいてとらえなさいと導かれました。「一緒に住む」とは何という恵みでしょう。まさにイエス様ご自身や弟子たちに何が起ころうともインマヌエル(神は我々と共におられる)なのだと弟子たちに教えておられるのです。 

 加えて、イエス様は、「わたしの平和を与える」とお話になられましたが、イエス様が与えるとお約束になった「平和」は、この世が与えるようなものではない、インマヌエルの平和、ヘブライ語でシャロームと言われる平和であり、神様から注がれる真理の霊、聖霊の働きによって与えられていく平和なのだと解き明かしておられるのです。


 わたしの好きな思想家にシモーヌ・ヴェイユというユダヤ系フランス人の女性思想家がいます。彼女は第二次世界大戦のさなか、ユダヤ人であることゆえに亡命を余儀なくされました。安全な場所に逃れようとしたことへの罪責感からナチス統治下の故郷フランスに戻ろうと苦悩の日々を過ごしつつ若くして亡くなった女性です。彼女は、神様の創造の業は、被造物に存在の場を与えるために神様がご自身の場を譲ってくださったことによって成就したのだと思索しました。それゆえに、小さなわたしという存在さえもが神様のあらわれの妨げになったり邪魔になったりしてはいけないとひたすら自分を無にして求道しながら神様を愛しキリストを慕いキリストに倣うという道を歩もうとしました。

 近代思想の世界では、近代の自我の問題が大きな課題であり、戦争も差別も搾取もすべて国家や民族や個人の自我の問題すなわちエゴイズムの問題に行き着くということを考えれば、彼女の思索には学ぶべきものが多いように思います。

 今日、信仰者にとって、イエス様を信じるとは一体どういうことなのだろうかと考えさせられますし、考えなければならないのだと思います。


 イエス様を愛し、慕い、従い、イエス様に倣うことによって、わたしたちは、何を信仰の内容にしているのかと問われます。自らの信仰を顧みたとき、神様の愛と赦しによって罪深いエゴイズムの自我から解放されているだろうか、本来あるべき被造物のわたしへと変えられているだろうかと、自分自身の信仰自体を問われているように思います。インマヌエル(神は我々と共におられる)とシャローム(平和)を自分の内に与えられているだろうかと、そのような信仰を大切にしているだろうかと考えさせられます。

 神様からの聖霊は風のように自由に吹いてわたしたちに注がれていると他の聖書の箇所でも教えていますが、それを妨げているのがわたしだとしたら反省せざるを得ません。

 聖霊降臨節の主日には、わたしたち一人一人が聖霊の働きに開かれた信仰へとあらたにされていきたいですね。


 アーメン。