Young Goodman BrownとSalem Witch Trialsの劇中劇『狂人ドクター(The Institute)』(H.N)
真夜中から朝方にかけてWOWOWやSTAR CHANELで放送しているB級映画が大好きで、その中にアメリカ文学の片鱗が挟み込まれている作品を見つけるとちょっとニヤニヤ。そんな映画ばかりを個人的に集めている「American Literature in B-pictures—アメ文関連B級映画コレクション」からご紹介。
最近発見したのは、俳優ジェームズ・フランコがパメラ・ロマノウスキーと共同監督した『狂人ドクター(The Institute)』 。当初テレビドラマシリーズ用に企画されていた作品のパイロット版(2時間)が、映画化されたもの。だから細かなエピソードが抜け落ちていて伏線回収できていないところが多々ある。そこは、B級映画Loverなので、想像力というか「配慮のチカラ」で自力でつないでいくのである。
物語の着想になっているのは、1888年に建設されて2009年に閉鎖となったローズウッドセンターという精神疾患のある女性のための療養所。1937年に、この施設で女性患者を富裕層に人身売買していた事実が明らかにされた事件をベースにしている。
●フェミニズムの視点で見る、19世紀の女性と精神疾患の関係
舞台は19世紀半ばのアメリカ。裕福な家庭の娘イザベルは、事故で両親を失ったあと、不眠や妄想に苦しめられる。主治医の勧めで、精神が不安定な上流階級の女性専用療養所ローズウッド研究所へ入所することにする。彼女の悩みは、表向きは両親の喪失によるものとされていたが、実際には当時の女性にしては珍しく自立心や好奇心、自由への希求がありすぎて、Be a good lady, Be a good sisterという社会の要請に適合しないということだった。心配する兄の反対を押し切って、療養所で自分を矯正しようと考えるイザベル。
しかしローズウッドのカリスマ医師であるドクター・ケイルンは、自立や自由を求める彼女の心を察知して、彼女を自分の研究に利用しようと考える。「私の治療で“変化(transformation)”を目指そう!勇敢な君ならきっと治療に耐えて自由を得られるはずだ」と、彼女を説得し、新たなマッドサイエンティック治療(恥、虚栄、痛み、自意識を取り去るためのドラッグ投与とサディスティックな治療)を行う。「古い道徳観を捨てるのだ、新たな自我(New Identity)を得よ」とうそぶくドクター・ケイルンは、この治療によって、イザベルの自我を支配することに成功する。
この辺は19世紀とフェミニズム関連のテーマがもっと深掘りされるはずだったんだろうと(B級映画への配慮のチカラ)思うが、そこまでの結果に至らず残念。
●ホーソーン 「ラパチーニの娘」 Rappaccini's Daughter
主人公イザベルが初めてローズウッドを案内されたときに庭で出会った若い女性患者は、ドクター・ケイルンの治療を受けていて、夢遊病者のようにホーソーンの「ラパチーニの娘」の台詞を呟いて彷徨っている。
I am going, father, where the evil which thou hast striven to mingle with my being will pass away like a dream-like the fragrance of these poisonous flowers, which will no longer taint my breath among the flowers of Eden.
イザベルは、ホーソーンのファンらしく、すぐさま気づいて「それはホーソーンのTwice-Told Talesの一節ね!」と嬉しそうに話しかける。でも「ラパチーニの娘」は、「Twice-Told Tales」(1837)には収録されていなかったはず。「Mosses from an Old Manse」(1846)に収録されていたのではないだろうか。ま、そこはいいか。イザベルたちのようにドクター・ケイルンが目星をつけた患者は、「ラパチーニの娘」同様、毒薬を含むドラッグを投与され続けて精神を改造されていく。
⇒Rappaccini's Daughter at Project Gutenberg
●イザベルの愛読書はポー
ホーソーンファンでもあるイザベルは、療養所の自室でポーの本を読んでいる。ポーの本だと気づいた下男が「そんな恐ろしいものを読んでいるんですか?」と言うと、彼女は「(ポーの作品は)極限状態での人間性に問題を投げかけている。深く掘り下げて、人の本質を描いていると思う」と答える。ホーソーン&ポーのファン。明るく聡明なイザベルは、実は怪奇小説ヲタクなのではないか疑惑。
ちなみに画面に映っているポーの本のページは、小説作品ではなくて、ポー自身についての記述かインタビューのページのようだが、どの本なのかは不明。たったワンカットではわかりませぬ。
●ロボトミー手術
「ラパチーニの娘」の台詞を呟いて彷徨っていた女性患者は、ドクター・ケイルンの治療が重圧となって洗脳がうまくいかなかったため、これまたマッドサイエンティストな外科医の手によって、今度はロボトミー手術を施される。
つまりドクター・ケイルンによる内面治療で自我の支配がうまく成功しなかった場合には、外面治療(外科手術)によって力技で自我を初期化した人間をつくりだす、というのがローズウッドの影の生産方式。これら「自我初期化女性患者」たちは、ローズウッドを影で支配するアコナイト会(異教礼讃団体)の会員たち(裕福な上流階級の人々)に提供されるシステムとなっている。
ドクター・ケイルンは、自分の治療こそが、自我を初期化したまっさらな女性という芸術作品をつくる最上のものだと考えているフシがある。
●ホーソーン「若きグッドマン・ブラウン」Young Goodman Brown
イザベルの自我を支配・初期化する洗脳治療は順調に進み、ドクター・ケイルンは彼女にホーソーンの「若きグッドマン・ブラウン」のブラウン青年の役を演じることを命じる。同じく女性患者が妻のフェイス役となり、2人は芝居の稽古を行っているうちに、作品の主人公そのものに同化していく。2人は一緒のベッドで眠り、青年ブラウンと新妻フェイスそのものに変化している。
ドクター・ケイルンは「彼女は完全に生まれ変わった。身体に合わせて服を脱ぎ捨てるように、古い自我を捨てたのだ」と、その出来映えに満足する。彼は、アコナイト会が集まる森の集会で、ブラウン青年になりきったイザベルに「若きグッドマン・ブラウン」を演じさせる。
このアコナイト会というのは、裕福な上流階級の老若男女で、殺人、セックス、奴隷など、やりたい放題の快楽追求グループ。小説「若きグッドマン・ブラウン」の森の集会と重ね合わせた劇中劇となっている。ここでイザベルが演じるのは、妻フェイスではなくて、森の集会体験後にすべてのことについて疑心暗鬼となる青年ブラウンであるのも興味深い。聖と魔が逆転することを初めて知った彼女のイニシエーションという意味合いもあるのかも。
⇒Young Goodman Brown at Project Gutenberg
●魔女裁判 メアリー・ブラッドベリ
実はイザベルは、「若きグッドマン・ブラウン」の芝居中、自分を助けに来た兄を殺害してしまう。夢うつつの狭間にいる彼女は、現実と芝居の状態との区別がつかない。自分と青年ブラウンの間を行き来しているが、兄を殺したかもしれない現実はおぼろげだ。
ドクター・ケイルンは、次はセーラムの魔女裁判にかけられるメアリー・ブラッドベリを演じるよう、彼女に命令する。舞台は、魔女裁判の場面だ。ここは、ホーソーンの父方の先祖ジョン・ホーソーンがセイラム魔女裁判の主任裁判官の一人であった史実との重ね合わせとなっている。
芝居でのイザベル(=メアリー・ブラッドベリ)は、「魔女であることを認めて懺悔し、スザンナ・シェルドンを堕落させたことを告白せよ」と、迫られる。このあたりの「魔女と目された女性たち」の名前は、セーラムの魔女裁判に実際に挙げられているもの。メアリー・ブラッドベリは、SF作家レイ・ブラッドベリの祖先としてもよく知られている。この芝居にはホーソーンの元ネタ本はない(と思う)。
あと、ドクター・ケイルンご満悦の自作拷問マシーンが登場するのもご愛敬。
⇒Salem Witch Trials Documentary Archive and Transcription Project, University of Virginia
●ホーソーン「白髪の戦士」The Gray Champion
自分自身に戻ったイザベルは、魔女裁判の舞台上で、ドクター・ケイルンやアコナイト会員に対して反撃に出る。イザベルに追い詰められたドクター・ケイルンは、「君は白髪の戦士(The Gray Champion)なのだ!」と口走る。なんじゃ、それ!
元ネタのホーソーン「白髪の戦士」は、奢る圧制者に対して苦しむ群衆の味方として忽然と現れた、神々しくさえある1人の老戦士の話だ。老戦士は、民衆に勝利をもたらし、また忽然と消え去り、伝説の老戦士として語り継がれる。ホーソーン作品の論考では、「老戦士はアメリカの民主主義精神を象徴している」という解釈(※1)もあるが、この映画での「イザベル=白髪の戦士」とはいったい?
※1:乗口愼一郎「Nathaniel Hawthorne文学の群集について」p.147
そこはB級映画Loverの配慮のチカラをもってしても理解は難しいが、圧政を強いるアコナイト会の人々に対して、自我を初期化してtransformationに成功したイザベルは、ある意味で人間以上に強く、社会の常識から超越した存在The Gray Championへ達した。これからの彼女は、(ドクター・ケイルンの支配下のもとで)思いのままに生きる伝説の存在になるのだ!という意味でのThe Gray Championなのかもしれない。
自分の芸術的な研究を完成させるには、アコナイト会の庇護と支援が必要だったが、彼らに作品(としての患者)を捧げることについてはいまいち気乗りしていない様子だったドクター・ケイルン。彼は、自分の創造物である彼女=The Gray Championと共に新たなステージの創造をめざしていたのか?
この言葉の意味はどこにあったのか真相は不明だが、なんといってもドラマシリーズのパイロット版という作品なので、ここまでが限界だ。もしドラマシリーズ化されていたら、もっとふんだんにホーソーンの引用が行われていたのかもしれない。
とまあ、真面目に最初から見た人は「なんじゃこれ!」と思うこと間違いなしのB級映画だが(海外の映画サイトやブログのコケ降ろし方は半端なく酷い)、アメリカ文学の視点でホーソーン作品と映画をパズルのように組み合わせていくと、割と楽しいアメ文ヲタ向け作品だ(でもテストには出ない)。
ラストは、最近のHBOドラマシリーズ「ウエストワールド」アンドロイドの反乱に共通した部分も見え隠れしていて、この作品もちゃんとした脚本でちゃんとドラマ化されていれば、と残念なこと極まりなし(日本版パッケージのコピーが「キミを楽にしてあげよう」なので推して知るべし)。
残念、だけどオススメ。そんなアメ文関連作品なのであった。(慶友会メンバー:H.N.)
『狂人ドクター(The Institute)』
監督:ジェームズ・フランコ、パメラ・ロマノウスキー
主演:ジェームズ・フランコ、アリー・ガッレラーニ、ティム・ブレイク・ネルソン
制作:2017年 (米国)
19世紀のボルティモアで、両親の突然の死に心を痛めていた一人の少女・イザベル(アリー・ガッレラーニ)。彼女は、ローズウッド研究所と呼ばれる精神障害を治療する研究所で療養することに。そこで出会ったカリスマ医師のドクター・ケイルン(ジェームズ・フランコ)によって、彼女は徐々に症状が回復したと思われたが、それは恐ろしい洗脳実験の始まりであった・・・。 (Amazonのあらすじより転載)