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過去の出来事

南留別志286

2020.05.31 09:05

荻生徂徠著『南留別志』286

一 藤原諸葛、藤原子房、藤原伊尹、相如など、皆、古人の名を慕へり。博雅三位も伯牙を慕へるなるべし。


[語釈]

●藤原諸葛 ふじわらのもろくず。826-895 平安時代前期の公卿。南家藤原三守(みもり)の孫。藤原有統の長男。元慶3年(879)参議。寛平3年中納言,従三位。光孝天皇擁立をはかる評議の席で,剣に手をかけて異論をおさえた。琴の名手。 

●藤原子房 不詳。 

●藤原伊尹 ふじわらのこれただ。。「これまさ」とも読む。924-972 平安時代中期の廷臣。右大臣師輔の長男。別称,一条摂政。諡は謙徳公。天慶4 (941) 年昇殿を許され,天暦9 (955) 年従四位下,頭中将,天徳4 (960) 年従四位上,参議,康保2 (965) 年正四位下,同4年従三位,権大納言に進む。冷泉天皇の安和1 (968) 年正三位,同2年には大納言で近衛大将を兼ね,天禄1 (970) 年右大臣に進み,次いで藤原実頼の没後,摂政,氏長者となり,同2年正二位,太政大臣に任じられた。和歌にすぐれ『後撰和歌集』の編纂に参画した。 

●相如 藤原相如(ふじわらのすけゆき)。?-995 平安時代中期の官吏,歌人。藤原助信の子。正五位下,出雲守。藤原道兼の家司(けいし)をつとめた。道兼が関白にのぼってまもなく相如邸で没したため,長徳元年5月29日悲嘆のうちに死去。「詞花和歌集」以下の勅撰集に7首。家集に「相如集」。 

●博雅三位 はくがさんみ。源博雅(みなもとのひろまさ)。918-980。平安時代中期の雅楽家。「はくが」とも呼ばれる。醍醐天皇の孫。克明親王の子。従三位皇后宮権大夫となったところから,その唐名をもって長秋卿,博雅三位とも呼ばれた。康保3 (966) 年に雅楽の笛譜『博雅笛譜』を著わした。笛,篳篥 (ひちりき) の名手で,それらにまつわる数々の伝説がある。歌物の流派の一つである藤家の祖ともされる。唐楽『長慶子 (ちょうげいし) 』の作曲者ともいわれるが,明らかではない。


[解説]ここに挙げられた5人の名は、いずれも中国の有名な人物から採られている。諸葛は三国志でおなじみの諸葛亮(字(あざな)の孔明が有名)、子房は秦漢代の軍略家張良の字、相如は有名な人として2人おり、1人は藺相如(りんしょうじょ、戦国時代末期の趙の恵文王の家臣。「完璧」や「刎頸の交わり」の故事で知られる)、もう1人は司馬相如(しば しょうじょ、紀元前179年 - 紀元前117年、前漢の頃の文章家。字は長卿(ちょうけい)。蜀郡成都県の人。賦の名人)で、どちらを採ったかは不詳。博雅という人物は思い当たらないが、三国時代の魏の張揖(ちょうゆう)によって編纂された辞典に『広雅』(こうが)という書物がある。『爾雅(じが)』の増補版。この辞典は隋の時代に煬帝(ようだい)の名の「広」を避諱(ひい。皇帝の名をはばかって同じ意味の別の字に換えること)して『博雅』と改題された(後に『広雅』に戻された)。恐らくこれを指すものと思われる。中国に憧れること人一倍であった徂徠は、物部氏の流れであることから「物徂徠」と中国風の名前にしたほどだから、ここに挙げられた人たちのことも大いに惹かれるものがあったのだろう。