どこで生きて誰と生きているのか
はじまりへの旅
という名前の映画を観た。現代社会から離れ、森の中で自給自足の生活をする家族が、母の自殺を機に「社会」へ出ていく。
結局「社会」とはなにで、どこで、誰で、僕たちはほんとうに「社会」で暮らしていく必要があるのか、ないのか、そういうことを考えさせられた。
思えば、僕は森の中に住んだことはないけれど、初めて一人で日本から外に出たときに、同じような感覚をもった。どれが社会で、僕は誰で、誰と暮らしていくことを強いられていて、森へ帰るべきなのか、そうではないのか。そういうことを考えた。
今は外国に住んでいて、それも日本から遥か遠い国に住んでいて、そんなようなことを考えなくも、ない。
どこにでも暮らせるように、と思って生きてきて、でも自分にはそんな力はないと疑い、ここで生きている。僕はそんな感じだと思う。心地が良い、安心する、そういうことを蔑ろに出来ない自分に気づいたのは、多分ほんの数年前で、というか外国に住み始めてからで、これから自分が歳を重ねていったとき、もしくは死ぬまで一緒にいたいと思えるような人と居るときに、僕が「場所」になにを思うのかは、一向にわからない。
機械を通して、人間の顔を見るようになってから、久しい。場所という概念を壊せるんじゃないかと人は言うけれど、僕にはまだ一向にそうは思えない。会いたいという感情を薄く伸ばしているだけで、ほんとうに会いたい人に会えない虚しさは、多分、誰だって誤魔化しながらもっている。テクノロジーの進化が、「どこに居たって構わない」と思う理由になることは、僕には一生ないと思う。
私はレイシストだと、アメリカ人は言った。黒人が警察に殺されてしまったことをきっかけに起きている抗議運動について、英語の先生と話をしている時だ。私はアメリカで、白人に生まれた瞬間に、レイシストなのだと。もちろん彼女は、そうではない。でも、そういう自覚を持たざるを得ないことは、日本で、アジア人として生まれた僕にはなかったことだった。白人として生きることとは、一体どういうことなのだろう。場所が違えば、例えば森で暮らしていれば、そんなこと考えることもないのだろうか。例えば僕が、日本で女性に生まれていたら、どういうことを思っているのだろう。
知ろうとすること、想像すること、考えること。
せめて、そういうことをやめてはいけないと、彼女は言った。僕も、そう思う。
はじまりへの旅。
森の中から「社会」へ行き、場所を変えることで混乱した映画の中の家族のように、どれだけテクノロジーが発展しても、「場所を変える」ことには痛みを伴うと思う。僕もそうだった。だけれど、それはいつだってはじまりへの旅となって、そのあとの人生を、彩ってくれると僕は信じている。だから人間は、誰かと居るんだなと、そう思う。痛みを和らげてくれるのは、いつだって、人間以外にはあり得ないから。
僕らは多分、もと居た場所に帰るのではなく、もと居た人のもとへと、帰るんだと思う。