「感染症と人間の物語」11 ルネサンスと感染症(1)「再生」
14~16世紀のヨーロッパ社会の転換期に起った革新的な文化運動である「ルネサンス」(Renaissance)は、「文芸復興」(ギリシア,ローマの古代文化を理想とし,それを復興させつつ新しい文化を生み出そうとする運動)と訳されることが多いが、元来は「再生」を意味するフランス語。それは、「古代の再生」だけでまく、一面では「黒死病からの再生」をも意味していた。
1348年から全ヨーロッパを巻き込んだペストは、1350年、ぱたりとやんだが、これで決着がついたわけではない。1360年頃にまた流行があった。さらに、1373年~74年、1383年、1400年。この1400年のぺスト大流行によって、フィレンツェは6万の人口のうち1万2千、じつに市民5人に1人が犠牲になったと言われる。加えてこの年は、野心に満ちたミラノの君主ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティの脅威が迫っていた。彼は1395年に初代ミラノ公となり、ロンバルディア地方への勢力拡大に乗り出し、1387年にはヴェローナ、1399年にはピサ・シエナそして1402年にはボローニャを相次いで征服した。1400年はフィレンツェにとってはまさに最悪の年であった。
そんなフィレンツェで1401年、サン・ジョヴァンニ洗礼堂のブロンズ門扉の作者を決めるコンクールが行われた。そこには、大国ミラノに対する愛国心の鼓舞とともに、ペスト終息に対する感謝の二つの意図があった。この古代以来最初という画期的な美術コンクールにはトスカーナ各地から7人の参加者が集まる。そして、20代前半の新人2人(ギベルティとブルネレスキ)が最終審査に残り、ほとんど実績のない最年少のギベルティが栄冠を勝ち得た。この時のテーマは『旧約聖書』「創世記」の「イサクの犠牲」。こんな話だ。
神は、アブラハムの信仰を試すために、彼が年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを生贄に捧げるよう命じる。アブラハムは神の命に従いイサクを連れて丘に登る。
「神が示された場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。すると、天から主の使いが呼びかけ『「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の息子、自分の独り子を私のために惜しまなかった。」」(『旧約聖書』「創世記」22章9節~12節)
アブラハムが息子を屠ろうとするまさにその瞬間、天使がそれを制止する劇的な場面。多くの画家によって描かれてきた。ギベルティとブルネレスキの試作品「イサクの犠牲」は現存し、バルジェッロ国立美術館(フィレンツェ)に並べて飾られている。劇的な表現を前面に出すブルネレスキと、繊細で優美なギベルティの、どちらが優れているかについてはこれまでさまざまに議論されてきたが、ギベルティが勝ったのは、おそらく、彼の鋳造技術が評価されたためであろう。また、ブルネレスキが25.5キロのブロンズを使用したのに対して、ギベルティのパネルは18.5キロとかなり少なく、しかも厚みがあり、経済的で堅牢だったことも関係していると思われる。ブロンズ門扉の制作を任されたギベルティはフィレンツェ美術界に比類のない地位を築くことになり、20年余りにわたって、彼の工房は美術家たちの訓練場となった。一方、失意のブルネレスキはローマに遊学し古代建築を研究し、ルネサンス建築を創始することになる。
二人は1418年にふたたび対決する。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドーム建設方法をめぐるコンクールである。キリスト教世界最大の聖堂を目指して、フィレンツェが威信をかけて進めた大聖堂建設は、大ドーム建造という最後の難関に行きあたった。前代未聞のドーム建設をいかにすべきか思い悩んだ大聖堂造営局は、多額の懸賞金をかけて再びコンクールを開いたのだった。今回も、17年前と同様、応募者の中からブルネレスキとギベルティが残って対決。今回はブルネレスキが勝利を収めた。彼の案は1420年に正式に採用され、それから16年の歳月をかけて難工事が続けられた。1436年に大ドームが完成したとき、これを見上げたフィレンツェの市民たちは、古代ローマをも凌駕する偉業だと感じた。
カラヴァッジョ「イサクの燔祭」ウフィツィ美術館
レンブラント「イサクの燔祭」エルミタージュ美術館
ギベルティ「イサクの犠牲」バルジェッロ国立美術館
ブルネレスキ「イサクの犠牲」バルジェッロ国立美術館
ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティ
フィレンツェ
サン・ジョヴァンニ洗礼堂 フィレンツェ