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陰陽五行

2020.06.01 03:40

http://www.n-hanakura.net/ashikagagakko.html  【足利学校】 より

足利学校は、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。

室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。

下野国足利庄五箇郷村にあったが、明治初期にはほとんど建物があるだけになっており、明治5年(1872年)

に廃校になった。以来孔子廟などわずかな建物を残すのみであったが、1990年に方丈や庭園が復元され、

公開された。今日では足利市の生涯学習のよすがとして、足利市教育委員会によって管理されている。

~歴史~

足利学校の創建年代については諸説あり、長らく論争となっている。

室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し,鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(しょうしゅと読み、校長のこと)に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。

その成果あって北は奥羽,南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主も全国各地の出身者に引き継がれていった。

教育の中心は儒学であったが、易学においても非常に高名であり、また兵法、医学も教えた。

戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校

の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。

享禄年間(1530年頃)には火災で一時的に衰微したが、第7代庠主、九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。

この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられた。

ザビエルによれば、国内に11ある大学及びアカデミーの中で、最大のものが、足利学校アカデミーである。

学校自体は、寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像がある。

本堂の他に別途、孔子廟が設けられている、という。

1590年の豊臣秀吉による小田原の役の結果、後北条氏と足利長尾氏が滅び、足利学校は庇護者を失うことになった。学校の財源であった所領が奪われ、古典籍を愛した豊臣秀次によって蔵書の一部が京都に持ち出されそうになったが、当時の第9代庠主・三要元佶は関東の新領主である徳川家康に近侍して信任を受け、家康の保護を得て足利学校を守り通した。

江戸時代に入ると、足利学校100石の所領を寄進され、毎年の初めにその年の吉凶を占った年筮を江戸幕府に

提出することになった。また、たびたび異動があった足利の領主たちによっても保護を受け、足利近郊の人々

が学ぶ郷学として、江戸時代前期から中期に二度目の繁栄を迎えた。

しかし江戸時代には京都から関東に伝えられた朱子学の官学化によって易学中心の足利学校の学問は時代遅れ

になり、また平和の時代が続いたことで易学、兵学などの実践的な学問が好まれなくなったために、足利学校は衰微していった。学問の中心としての性格ははやくに薄れ、江戸時代の学者たちは貴重な古典籍を所蔵する図書館として足利学校に注目していたのみであった。

明治維新後、足利藩は足利学校を藩校とすることで復興を図ったが、明治4年(1871年)、廃藩置県の実施により足利藩校である足利学校の管理は足利県(のち栃木県に統合)に移り、明治5年(1872年)に至って廃校とされた。


軍師たちの学び舎 足利学校: つわものどもが夢の跡

fanblogs.jp/shirononagori/archive/195/0

-キャッシュ

軍師というと、兵法を駆使するイメージですよね?しかし当時の足利学校で一番力をいれていたのが「易学」でした。陰陽道の影響を受けた易学、これを背景に・・・ちょっと言い過ぎかも知れませんが、戦に際して「占い」に近い役割をも担っていた ...


http://blog.media-5.jp/business/2008/05/post_7.html  

【孫子の兵法 始計1 陰陽五行が大切】  より

孫子の兵法は1、計編 2、作戦編 3、軍形編 4、兵勢編 5、謀攻編 6、軍争編 7、虚実編 8、九変編 9、行軍編 10、地形編 11、九地編 12、火攻編 13、用間編があります。

当社のHPにも孫子の兵法が載っていますのでご高覧ください。

http://www.media-5.co.jp/hp/maruchi/sichisokusen/index.html

「死地則戦」→「孫子の兵法」(これ以外はまだ未完成です。)

よく「兵法読みの兵法しらず」、というのがあります。そのもっとも大きな過ちを犯すのが、孫子の兵法が陰陽五行にもとづいて作られていることを知らないことです。

昔、第2次世界大戦で、牟田口中将は武器も食糧も決定的に欠けている日本軍が、険しい山間部を通ってインド北部のインパール攻略を目指したインパール作戦を、反対する周囲を押し切って実行するとき、「諸君、この山間部は見渡す限り緑で青々としているではないか。「知将は敵を食む」と孫子にもあるではないか。」といって無理に作戦を強行しました。

このケースの場合、3、軍形編にある「勝ち戦は戦う前に決まり、負け戦は戦ってから決まる。」というケースです。やってみなければわからない戦いはすでに負けなのです。

勝つためにあらゆる綿密な計画を立て、実行していくのが戦略です。

そして世の中の流れ、勢い、気というものを最も大事にして作戦を立てたのが孫子の兵法なのです。


「やってみなければわからない」という戦は負け戦です。

孫子の冒頭部分は以下の通りです。

孫子は言う。戦争は国の重要なものである。人の生命、国の存亡がかかっている。十分に熟慮しなければならない。したがって次の5つの命題で戦力を検討し、実情にあてはめて判断しなければならない。

その5つの命題とは、1に道、2に天、3に地、4に将、5に法である。

道とは、民をして上と意を同うし、これと死すべくこれと生くべくして、危わざらしむるなり。 

天とは、陰陽・寒暑・時制なり。 

地とは、遠近・険易・広狭・死生なり。 

将とは、智・信・仁・勇・厳なり。 

法とは、曲制・官道・主用なり。 

話は脱線しますが、よく人からメディアファイブの「ファイブ」はどういう意味ですか、と聞かれますが、

設立当時は、この道天地将法の5つからつけました。ビジネスの基本がこの5つだからです、と答えていました。

今では、陰陽五行、五感、五官などあらゆる世界が5で成り立っているので「ファイブ」なのだと言っています。

万緑や五行に旋るつるびんか  高資ー 場所: 釜川