Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

たくさんの大好きを。

深海 7 (文

2020.06.01 09:32



かおり

かおり



意識が意思と反して、浮かび上がれない

重い。熱い。混濁する感情に比例するように、身体の芯からざわつきに撫ぜられ、丸い丸い玉が、額や背中を伝うのをもう一人の自分がどこか遠くで見下ろしているようで。



もういい。もういいんだよ

あなたは頑張ったんだから

ねえ、アニキ?



あたしを優しく諭すもう一人のあたしは、懐かしい少女の頃の姿で、傍に佇み柔らかい笑みを浮かべる会いたくてたまらなかった、その存在に抱きつき、ねえ?と屈託なく甘えて答えを促す。

あなたはアニキと一緒にいられるんだ。

羨ましいな。と心の中で吐露すると、もう一人の私は嬉しそうな笑顔を浮かべて、そして気付けばもう小さなあたしは消えていて、そこにはアニキ一人が立っていた。



会いたくて会いたくて

何度も何度も名を呼んだんだよ?

気付いてた?と声にはならない言葉を吐き出すと、大好きなその笑顔に問いかける。


あたしの名を呼んだのはアニキなの?

と問いかけると、

そうだよ。と笑いながら、でもな、と続けていく。

オレでもあるけど、アイツでもあるし、それにおまえの願いを掬い上げた、その人もだな。



香。

おまえが在りたい場所は

どこなんだ?

と、くしゃりと髪を撫ぜるアニキの顔が、差し込む逆光に阻まれてよくわからない。

聞きたいことはまだ溢れるようにあるのに、閃光と共に弾かれ、身体がわずかに弓なりに揺れた。



「香さん!」

耳元で必死に呼ぶこの声はアニキでも獠でもなくて。

緩やかに緩やかにまた意識を落としていく。

「ごめんなさい・・」


こんな形で

投げ出してごめんね。

こんな幕引きはきっと許されない

きっと誰よりも自分が一番許せない


幸せになってね。



「りょ・・お」

落ちた意識と共に、隠せない感情の粒がとめどなく溢れて、掬っても掬っても止むことはない。

「香さん、あなたは・・・」

「今はゆっくり休ませてやるんじゃな。」

背後から穏やかな声が届き、頬に触れていた掌を躊躇いがちに、荒木がそっと外す。

「眠っているようです。ただ、意識の混濁からかうわ言のように何度も・・・」

「掠っただけとはいえ、銃弾を受けた事には変わりはないからのう。処置は施したが、数日は熱が続くかもしれぬ。無理もない。抱えていたものの大きさを少しづつ吐き出しているのかもしれんのう。無意識のうちに、だろうが・・」

「教授、私はーー」

静かに教授の右手が荒木の肩に落とされる。

「ついていてやりなさい。これは依頼ではない。老いぼれ老人のお願いごとじゃよ。」

荒木がキュッと自身の両手を合わせ、強く握りながらかぶりを振る。

「私は私の意思でここに居たいと思います。救いたいと・・思います。・・違う、そうじゃない・・私が救われているんです。こんな感情知らなかった。」

無言で見つめる眼差しに、淡々と言葉を落としていく。

「わかっています。うわ言で何度も呼ぶ名が香さんの本心だと。わかっているんです。わかっていることに何故こんなにも冷静でいられなくなるのか、私は私自身がわからない。」  

「・・それはいずれきっとわかるじゃろうて。今のおまえさんの気持ちがなんなのかとな。それにしても・・この娘は本当に失ってはならない光じゃのう。のう、荒木、何があっても守って欲しい。おまえさんにとって酷な願いになるやも知れぬ。それでも・・やってくれるか?」

「最善を尽くします。」

ピクリと片眉を上げると、白髪の髭がたのしげに揺れた。

「フォッ、フォッ、フォッ!相変わらず堅苦しいのう。チューの一つでもすれば、香くんの気持ちも変わるかもしれぬぞ?」 

「は?」

「わしはな、どちらの味方でもないぞ。誰と誰がどうなるかなんて誰にもわからんじゃろう。本心とやらも、半年後、一年後の本心は誰にも分からぬよ。」

「・・・・・」

「変わるなら変わった先におまえさん達の幸せがあるのなら・・わしはただ見守るだけじゃよ。たった一回きりの人生じゃ。後悔のないようにのう。」

「後悔・・」

荒木の顔に戸惑いが浮かぶ。

「香くんの決意はわしらが思う以上に強く、自ら戻ることはもうないじゃろう。そうでなければこんな形であやつから離れたりはしないはずじゃ。今頃は死ぬほど後悔してるだろうあやつの顔が浮かぶようじゃ。」

それでもな。とぽつりと教授は呟く。

「結局はあやつのタイミングの悪さが続けば、もうこのままじゃろうとも思う。香くんとの縁を手繰り寄せるには、今の歩みの遅さでは無理だろうて。香くんの決意の速さには追いつけまい。」

額に手を当て、慈しむように目を細めて、そして寂しげな笑みを口元に浮かべる。

「どうやったって、覚悟が足りんのう、獠。」

薄明かりの下に、ぼやけた輪郭で浮かび上がる香の横顔は吐息が軽く乱れ、額に浮かぶ薄い膜は発熱からだろう。無言で荒木は、側にあった軽く湿らせた薄めのタオルで、触れる程度に額を撫ぜていく。


「高くなってきたようだな。」

「ええ。無理もないです。数日の内には下がるとは思いますが。」

荒木と香が、荒木の依頼主である教授の家に来て、二日目の夜になる。気丈に振る舞っていた香だが、出迎えた馴染みのある顔に「教授・・」と安心し切った顔を浮かべると、荒木の腕の中で意識を放した。

「香くんのような華奢な体には掠めただけとはいえ、衝撃による肉体へのダメージはかなりのものだったじゃろう。少し細胞にダメージを受けているやも知れぬ。とにかく今は安静にしておくことじゃ。頼んだぞ。」

「はい。」

音を立てぬように気遣いながら、背を向けた側のドアが静かに閉められる。

夜の闇は嫌いではなかった。

むしろ闇に紛れて、任務をこなす事が多かった為、自然落ち着く空間でもあった。

だが今は。

闇が彼女の本心を洗いざらいさらけ出しているようでどうにも落ち着かない。

落ち着かないというのは違うなと、荒木が独りごちる。

あの男の名を呼ぶのがひどく苦しいのだ。

忘れてしまえばいいと願う自身が居ることに驚き戸惑い、そしていいようのない安らぎに満たされていく。


「香さん、私は決めました。この感情に逆らわない事を。」

静まり返った部屋で静かに紡がれる、自身の言葉は荒木の耳へと決意の再確認のように緩やかに流れていく。


あなたの悲しみも苦しみも諦めも未練も、私が全部背負いたいと思います。


この決意は彼女は知らなくていい

ただ在ればそれだけでいい


名の無かった頃の自身にはなかった感情だ。

それを抱きながら共に在りたいと願う気持ちを隠す意志がない事を伝えるように、眠る香の両手をそっと握り、誓いのように額を落とした。




「ねえ、獠、香さんは?」

ユキを襲った男達の書類上の処理も終わり、明日には帰国の帰路に立つという報告をしながら、要の質問を冷ややかな視線と共に冴子が送り付ける。

「さあな。」

たった一言で済まそうとする、読めない表情を貼り付けた目の前の男に、冴子の眉がキュウと上がる。

「約二名が戦闘から離脱。連れ去られた痕跡はなく、上層部からは特に問題視する必要はないとのお達しよ。どうやら、荒木という男の背後にはかなりの人物がいるみたいね。まあ、なんとなく想像はつくけど。」

「問題ないならいいんじゃねーの?後は女王を無事見送れば、依頼完了。だろ?あの手の残党は根っこを叩けば、まとまりなんて元々無いだろうからあっという間に解体されるだろう。だからこそ厄介なんだけどな。ああやって、短絡的に事を起こしてきやがる。」

「そうね。・・それにしても容赦なくやってくれたわよね。あそこまで痛めつける理由を、無理矢理捻じ込むの、大変だったんだから!」

「そうかあ?モノが言える程度にはしといたけどな。」

「どこが?加減の意味忘れてない?生きてる程度の間違いよ。」

呆れたように冴子がため息をつくと、変わんねーだろ?と冷えた空気が一瞬走る。

何かを諦めたようなその瞳は黒く澱んでいるようで、何故か哀れに思う。

「居ないだけでこんな風になるなんて、じゃあどうしてって話なんだけど。」

ハッと乾いた笑いが白々しくて、らしくないことこの上ない。

「だから、どこ?」

イライラする気持ちを抑えながら、冴子が瞳を逸らせたままの男を睨みつける。

「・・知らないな。」

「探したの?」

「いんや。・・だいたい見当はついているがな。」

自身が気付く事を、この男が気づかない訳が無いとは思っていたが、ならば、何故。と語気を強める。

「じゃあ、どうして迎えにいかないのよ。」

「あいつは自分の意思で居なくなった。あいつの意思がそうなら、俺にどうしろって?」

「・・なに自分だけが傷ついた顔してるのよ。馬鹿みたいよ、獠。」

そうでしょう?と無言で冴子が淀んだ闇に対峙する。

「容赦ねーよな、ほんと。」

「する訳ないでしょ?何も動こうとしないあなたから香さんが離れたのなら、そこに至るまでの香さんの気持ち、考えたことある?」

「・・・・・」

「そうやって、いじけて剥れてたらいいんじゃない?少しの不自由さも寛容できなかった結果じゃない。槇村もいい加減呆れてるわね、きっと。・・ううん、違うわね。槇村も私も、ね。」

静かな怒りは哀れみをも含む。その眼差しに耐えきれず、思わず獠は視線を逸らした。

「それと。」

「あ?」

「彼女、きっと諦めてないわよ。どうするの?」

彼女の指す意味に、獠の口角が歪む。

わかっている。

曖昧さがもたらした結果だとは。

冴子の指摘は今のおれには耳が痛い話だなと、いつもの逃げが顔を出す。

「どうもこうも、いつものように依頼を遂行するだけだ。」

「・・そう。まあせいぜい頑張って。じゃあ、私行くわね。まだ今日と明日があるからお願いね。」

「簡単に言ってくれるよな。」

「なに?悪いけどあなたの愚痴を聞いている暇はないの。」

「へいへい。もういいから行けよ。」

苦虫を潰したような顔で獠が促す。

「言われなくても。」

離れていく背中にちらりと振り返り、一言言葉を落としていく。

「誰も彼もなんて、無理よ、獠。」


あなたが本当に救いたいのは誰? 


言葉に乗せられなかった想いを消化するように、冴子が軽く頭を振りながら、立ち去っていく。

「そんなこと、わかってるさ・・」

呟く声はどこか心許なく、宙に浮く。


誰といるのか。

それを考えるだけで周りが見えなくなるほどの、焦りを生み、頭の天辺まで焼き付くようになっていく。


今はまだだ。

せめてこの依頼を果たすまでは。

それが言い訳だと気づきながら、感情のままに任せる事を恐れている。

依頼が終われば。

そうすれば迎えに行けるはずだ。

それは見えない楔のように獠の中に満ちていき、冷静さを取り戻していく。


「さて、行きますかっ、と。」

それでも消えていかない漠然とした不安の塊を気づかぬフリをして、行くべき場所へと足を踏み出した。





明日の最終日の打ち合わせを終え、帰宅の途に着いたのはもうすでに、深夜を回っていた。

極力、ユキとは接触を避けていたが、それは片方側の意思であり、ユキ側はといえば潤む瞳と共に、視界に何度も潜り込んできた。

それでもやんわりと距離を置いていた獠にたまりかねたように、ユキが口を開く。

「冴羽さん・・私、私は・・香さんは大丈夫でしょうか?」

「あいつの事なら大丈夫だ。信頼できる場所に居るはずだ。あの男も一緒なはずだし、な。」

言いながら、ちりと胸が焼ける。それでもその表情には一切浮かべず、装う。

「そうですか・・冴羽さん、少しだけでいいんです。二人で話せませんか?」

「・・悪いが、今は時間が無くてな。そうだな、明日帰国の前なら。あまり時間は無いと思うけどな。」

「それは!!それじゃあ・・遅いんです。まだ、まだ、今日なら。」

おおよその想像がつくだけに、今それを飲むわけにはいかないが、余りに必死なユキの姿に、無下にもできず言葉に詰まる。

「ユキ・・とにかく今日は早く休んだ方がいい。明日は早いんだろ?」

「冴羽さん・・お願い。お願いだから・・」

震える手から、伝わる気持ちが零れ落ちそうで、一人の女としての姿に心を打たれる。

「すまない・・おれは君を救ってやることはできない。おれにできることは君を見送り背を押すことだ。」

傍に先ほどから黙ったまま二人のやり取りを見守っている、シンイチに視線を移す。

「それは・・あの時のように?・・」

「そうだ。」

「だってあれは・・」

「おれはあの時となにも変わらない。」

「だって・・」

「今もあの時も背を押す気持ちは同じだ。」

淡々と獠が告げていく。

ユキの瞳から堪えきれない涙の粒が、一粒、一粒、と落ちて獠の靴先を濡らす。

「私と共に・・行きたいと・・そう思ってたって!」

「おれが共に生きたいのは、ただ一人だけだ。・・もうずっと前からな。」

ユキが大きく瞳を見開いて、弾かれたように獠を見つめる。獠の瞳の奥に混濁の色はない。ユキを見つめる眼差しは、贖罪のように悲しく揺れている。


包まれたいと願った全部は質の違う優しさからだと、なぜ気付かなかったのだろう。

優しさは確かにそこにあった。

それを愛情だとなぜ思ったのだろう。


肩に食い込む指先の熱が想いの深さに感じられたから

苦しく切なく細められた瞳は離れなければならない葛藤からだと思えたから


「あれは・・・?」

縋るように、ユキが獠の胸に手を伸ばし、温もりを確かめるように触れる。

温かい。

あの時と同じ。

いつだってこの温かさは変わらない。

「軽くしてやりたいと思った。少しでもってな。すまなかった。」

「どうして・・あなたが謝るの?どうして・・」

「前を向いていた君が、忘れたはずの記憶で悩んでいるのはおれの曖昧さからだからだ。すまない。」

「謝らないで!」

ドンと右手を振り切り、ユキが獠の胸を叩きながら、声を上げる。

シンイチは顔色一つ変えずに見守っていたが、ユキの剣幕に僅かに眉を寄せ、緊張の色を纏う。

「ユキ・・・」

「私は!私の意思で思い出したの!私が忘れたくなかったから。あなたに会いたかったから。それまで否定しないで!」


わかっていた。

記憶が戻って、あの人に会った時から

あの人を見る瞳に気づいた時から

本当はわかっていた。

それでも。



「私のXYZは・・冴羽さん・・」

卑怯だと思う。ずるい女だってわかってる。

だけど、どうしてもこの温もりが欲しいから。泣いて縋って手に入るなら幾らでもそうするから。



そんな想いを全てわかったように、加減された強さで胸の中からそっと離されていく。

「すまない。それは叶えてはやれない。おれは行けない。」

「!!・・どう・・しても?」

「美女の依頼は断らない主義なんだがな。今回ばかりは・・だ。すまない。」

「さっきから謝ってばかり・・私は・・あなたを困らせていますね。」

涙で濡れた顔でユキが儚げに笑う。

一瞬、獠の方へと手を伸ばしかけるが、躊躇うように指先が弧を描き、自らの胸元へと収まる。

「あなたは今回も以前も依頼を果たしただけ。それだけ・・ですよね?」

「・・ああ、そうだ。」

「・・酷い人。優しい嘘さえ最後にくれないなんて。」

ユキが咎めるように、獠を見つめる。

その瞳は静かだが強い光を帯びて、獠の心を貫いていく。

「そうだな。おれみたいな酷い奴より、君の側には心から信頼できる奴がいるだろ?君を想い、君だけを見ている奴が・・な。」

シンイチと獠の視線が絡む。

目を逸らすことなく守るようにユキの少し離れた背後にスッとシンイチが立ち、獠を真っ直ぐに瞳で捉える。

「冴羽さん・・」

物言いたげに口を開くユキを横目に、獠が、また、明日な。とそっと肩に手を置き、すぐに離れると背を向け歩みを早め、ドアノブに手を掛けた。

「待って!まだ・・」

と懇願の声が届くが、一瞬立ち止まり、直ぐに背中越しに右手を上げると、明日な。と去っていく。

振り返ることはない。

僅かな期待さえも持つな。と言われているような、頑ななその背に、ユキの視界が揺れ、倒れ落ちていく体をシンイチが腕の中に受け止め、柔らかく抱く。

「シンイチ・・」

「大丈夫ですか?今からは明日のことだけ考えましょう。ゆっくり休むのがあなたに必要なことです。」

「ねえ・・シンイチ」


好きだったの

とても好きだった

例えあの黒い瞳が私を映していなくても

それでも、それでも

言葉は胸の中で嗚咽と共に流れていく。

届かぬ想いを吐き出しながら、背を撫でるシンイチの掌に委ねるように、その身を預けた。




ユキとのやり取りに知らず知らず、心は摩耗していたのだろう。本来ならば、香以外の気配には反応するはずのモノが、扉を開けるまで察知できなかったことに、舌打ちが出る。

いつも後手後手に回る歯痒さに、警告音と共に苛立ちで乱暴に靴を脱ぎ散らかし、廊下を音を鳴らしながら進むと、リビングのドアを開け、低く抑揚の無い声を放つ。

「こんな所まで何の用だ?」

その姿を視界に入れるだけで、冷静さを失う。知らぬ間に香と二人の空間に潜り込まれていることに、眉間の皺はくっきりと色濃くなっていく。

「留守の間にすみません。香さんに頼まれたものを預かりに来ただけですから。そんな怖い顔をしないで下さい。私はただ香さんの願いを叶えるために来ていただけですから。」

「願い?・・香は?」

「安全な場所にいます。あなたもご存知でしょう?願いはここにある必要なものを持ち帰ること。そして、もう必要ないものを返す事です。あなたと鉢合わせした事はアクシデント・・ですがね。」

「・・鍵は?」

「香さん本人から、です。」

そう言うと、荒木は右手に握られていた見慣れた鍵を獠へと差し出した。



これ以上なにを言えと言うのか

香自らが選んだ選択の、今更ながら本気の気持ちに打ちのめされて、紡ぐ言葉がわからない。

僅かにあった思い上がりの慢心は、否だと突きつけられている。



「・・香の、か?」

荒木がそれには答えずに、香が頼んだであろう品が入る紙袋を床から持ち上げ、獠の真横を通り過ぎる。

「待て!香は?」

口を開かぬ荒木に挑みかかるように漆黒の瞳がその背を追い、問う。

「・・発熱しています。もう随分落ち着きましたが。後数日で熱も引くでしょう。お兄さんの形見だという指輪の箱と、少しの着替えを頼まれていたので。失礼を承知で香さんの持ち物を確認させて頂きました。ああ、あのローマンは置いてきて欲しいとの事です。必要ないからと。」

「必要ない・・か。」

側にいて欲しいと渡した証のローマンを置いていくという事の意味を悟り、胸が抉られるように痛む。

力無く立ち尽くす獠を一瞥すると、振り向く事なく荒木が感情を揺らした。

「彼女は選んだ。それでも・・この数日間、呼ぶ名はいつもあなたでした。あなたにその意味が分かりますか?それでも香さんが何故それを選ぶのかを。」

この男に見せてやりたいと荒木は思った。あんなに悲しい涙を流す彼女の姿を。衝動的なこの想いは、今までなら必要ないはずだと切り捨てていたし、感じたことさえなかった。

だから、立ち去れば良かった。

けれど気づけば、責める言葉が荒木の口を伝っていた。責めると同時にそれでも。と思う。

彼女が望むのはただ一人だ。

目の前の男の行動一つで彼女が救われるのなら、背を押すことも厭わない、と。

最優先は槇村香の心を救う事だと。



「・・・・・」

返答のない獠を振り向き黙って見つめると、荒木が軽く息を吐く。

「これ以上何を言っても無駄なようですね。後のものは処分して欲しい、世話をかけてすまないと伝えて欲しいと。」

ごめんなさい。と何度も漏れていた言葉は、伝える気は無かった。きっと彼女もそれを望まない。そうして抱えて生きていこうとするその姿を、側で支えていたいと心から思う。

「そうやって・・おまえが攫っていくのか?香の願いも想いも、その全てを!」


荒木のリミッターが振り切る。

殺意に似た冷えた空気を纏い、ギリと獠の首元を締め上げていく。

「今更だ、冴羽。おれが攫う?は!おまえは本当に何もわかっていない。彼女がその心を攫われるような女かどうかも分からないなんてな。一体何を見てきた?それがあるのが当たり前過ぎて、どれだけ甘えて見ない振りをしてきた?壊れそうなんだよ、冴羽。分かるか?それでもなお、おまえに幸せになって欲しいと願う、彼女の気持ちが!」 

「荒木・・・おまえは・・」

「おれは最後におまえに引導を渡した。それでも動かなかったのは、おまえだ、冴羽。おまえは結局何一つ変わろうとしない。それが答えだろう?」

掴んだジャケットの襟元から手を離し、床に転がる香の願いをすくい上げて、荒木は無言で獠に視線を合わせる。

「話す事はもう無い。私は私なりのやり方で彼女を守る。退いたとはいえ、彼女一人を守るぐらいの力量は持ち合わせているつもりだ。もう関わるな。ここからは私とあの人の領分だ。」




打ちのめされた心はいつまで経っても浮上できずにいる。

荒木が去ってどれぐらい時間が過ぎたのか。考える事さえ放棄して、失くした全てが絶望に変わる。

それでも明日の仕事が頭をよぎり、フラフラと立ち上がると、傍のソファーに倒れ込むように身を預け顔を埋める。


まだ間に合うのか?

そう思いながらも、戻る意思のない事実に悪いクセの臆病風が吹き荒れる。

「槇村・・・」

縋る相手はおまえしかいない。

聞きたいことが山程あるんだ。



「おまえに、ほんと・・殺されるよな、おれは・・」

壊れそうだという香にどんな顔をして会えばいい?槇村。

追い詰めたのはおれなのに、今更どうやって。



『おまえ次第だよ、獠。』




聞こえた気がした。

それはとても穏やかで懐かしい旋律となって、荒れた心に光を灯す。

そうだ。おれは諦めたくはない。

気付いた心に、更に強く赤い炎が灯る。

漆黒の瞳に生きる意味が煌々と輝いていく。



生きる意味の先に映るのは、いつもおまえなんだ、香。



『馬鹿だな、今頃。』


「そうだな、おまえの説教は甘んじて受けるさ。」


立ち上がり、ゴソゴソと胸ポケットからタバコのパッケージを探り当て、ゆるりと一本取り出して、慣れた手つきでライターで火を点ける。

鼻腔から肺まで行き渡るように、紫煙を吸い込むと、ゆっくりと吐き出す。

窓に映る光の渦をぼんやりと眺めていた獠の口元が緩み、瞳に柔らかな光が灯る。



『獠?』

「香の奴がさ、こんなとこで吸ってると煩くて仕方ねえなあと思って・・な。」

『できた妹だろ?』

「よくいうぜ、槇ちゃん。あーんな箱入りに育てやがって。おかげで大変なんだぞ、こっちは。」

『だったらやめとけ。』

「・・やめねーよ。」

『獠、香は・・』

「ん?なんだ?聞こえねーよ。」



槇村。

明日全てが終わったら、迎えに行くから

だからそれまで香を頼む



静寂が午前という名の真夜中を包み込む。

「槇村?」

気付けばもうそこにはなにも感じられない。

夢であったのかと、一瞬先程までのやり取りに思考を巡らすが、

「それでもいいさ。」

と、現実か夢かの曖昧さを軽く流す。

明日からの事に、はやる気持ちを抑えるように、携帯灰皿の中で短くなったタバコを残り香と共にギュッと押し付けた。




2020.6.1





すごくすごく久しぶりの深海のおはなしになります🙏たくさん励ましのお言葉や優しいお言葉頂いていた中、あちらこちらに行きっぱなしで随分時間が空いてしまいました🙇‍♂️

今回でラストのつもりでしたが、なんだかやっぱり長くなりそうなので(長くてごめんなさい😭 一旦区切ります🙏数日中には書いてる続きを繋いで上げたいと思います🙏読んで頂いてありがとうございました(*´∇`*)