神吉合戦ノ記 〜神吉勢二千対織田勢三万〜
彼我の差は悲劇的ではあったが、神吉勢は勇猛果敢に戦い、天命としてその結末を受け入れた
天正五年(1577)秀吉は、加古川・加須屋の館(加古川城)にて毛利討伐の為、播磨諸城主を集め軍議を開いたが、決裂し、三木城はじめ、神吉城を含め、播磨の諸城は毛利方に就くこととなった。
ここでは、播磨の武将たちがかって経験したことがない織田側の凄まじい物量作戦により、作戦と三万という大軍勢により、いかにして神吉落城至らしめたのか、を学んでみたいと考える。
三木城包囲網を破った神吉軍
総大将である秀吉は、天正六年三月二十九日より、三木城を包囲した。しかしながら要衝の地であった為、攻めあぐねていた。
別所方(三木城)は、神吉城、野口城などと連絡を取り合って、挟み撃ちにしようと企てた。同年四月四日深夜、神吉城主である
神吉頼定は、三百余りの将兵を率いて、諸城主と合流、五日の世夜を待って、約千名が一気に秀吉勢を攻め立てて、大勝利をおさめた。秀吉は、この敗戦により、周辺の城から落としていくという戦法に転換したのである。そして、まず野口城が落城、六月二十七日には、『神吉合戦』が始まったのである。(「三木戦記」)
神吉合戦と神吉城落城
次日(六月二十七日)には神吉の城取り詰め、北より東の山に三位中将信忠卿、神戸三七信孝、林佐渡守、長岡、佐久間、前後左右段々に取り続き、陣を懸けさせられ、神吉の城あらあらと(荒々しく)取り寄り、外構即時に攻破、はだか城に成す、本城の堀へ飛び入り飛び入り、塀を突き崩し、数刻攻められ、神戸三七足軽と先争い、御手を砕き、手負い・死人数輩あり。
(「石山本願寺日記」には、『秀吉勢、神吉城にて三千討死手負不知数由候』と見える。)その日は一旦引き上げ、翌日には加古川の河原で伐採した竹を束ねこれを矢玉除け(「長蛇崩し」と称す、秀吉の策)とし、以て仕寄り、本城際まで詰せ塡草(うめくさ・堀を埋める際に使用する草)を寄せ、築山をつき、攻められ候…。(「信長公記」)
(軍記では、秀吉は織田信忠に従って神吉合戦に参戦した、とあるが、実際には當時、秀吉は但馬の国に相働き、当合戦には参戦していなかった、と言われている。神吉での総大将は、信長の嫡男・織田信忠で、三万の大軍を率いて神吉合戦に臨んだ。迎え撃つ神吉勢は、わずか十五分の一、二千余騎であった。)
さて、神吉の攻め口、南の方手薄に御座候に依って織田上野守御陣をよせられ、また、御敵(神吉城)相働かざる(動かない)の間、先一番に城桜(物見櫓)を高々と二つ組み上げ、大鉄砲を以て討ち入り、堀を埋めさせ、築山を築け上げ、攻められ、滝川左近、南より東へ付きて攻め口なり。金ぼり(トンネル坑夫)を入れ、坑道を掘り、城桜を上げ、大鉄砲を以て、塀、矢倉打ち崩し、矢倉に火をつけ焼き落とし、此のほか諸手、手前手前に、城桜をつき、日夜攻められる。神吉からは種々和睦を申し入れて来るが、織田側の許容、これなし。(中略)
寅七月十五日夜に入り、神吉の城へ、滝川左近、惟住五郎左衛門、両手より、東の丸へ乗り入れ、十六日には、中の丸へ攻め込み、神吉民部大輔討ち取り、天守閣に火をかけ戦う事火花を散らし、その間に天守は焼け落ち、過半数が焼死候なり。西の丸は、荒木摂津の守攻め口なり。
此処には、神吉藤太夫(頼定の叔父)が立て籠もる。佐久間右衛門尉・荒木摂津の守両人、藤太夫のお詫び事を受け入れ赦免される。並びに藤太夫、志方の城へ罷り退くこととなった。ここに至り、神吉合戦は、その終焉を迎えた。(信長公記)
神吉頼定は、赤松一族の名門で、弱冠二十九歳ではあったが、名武将であったと伝えられている。
「播州太平記」には、落城の様子を次にように記している。頼定、家臣に向かって曰く、『これまでよく防いでくれた。たびたび敵に泡を吹かせたが、大軍ではどうしようもない。もはやこれまで、今日を討死と決めたが、最後まで戦って忠信の首を取りたい。
命は一代にして軽く、名は末代にして重い。』
また、「播州太平記」には、織田側が、藤太夫が命乞いをしたことを利用し、『城内に寄せ手を入れてくれるなら、落城の後に、神吉領一万石に野口城も与える。』とそそのかし、これを真に受けた藤太夫は、夜討で神吉城内が混乱している隙に、頼定を殺害し、その首を織田の陣所へ差し出した、とあるが、「加古川市史」は、『大軍勢の前ではどうしようもなく、落城、藤太夫は降伏したが軍記(太平記)にある話は創作で史実ではなかった』としている。
さらに「「武功夜話」には、頼定は城兵の命を助ける為降伏したが、信忠は聞き入れず、処刑した、と伝えている。
天守閣があった神吉城(その成立と規模)
神吉城は、平城であったが、本格的な縄張りを持った城であった。別名の「奈幸子城」(なこし城)はこの付近の古名・奈幸子から付けられたと伝承されている。また、もう一つの別名「真名井城」は神吉の庄にあった名水・真名井の清水からである。
それだけに当時は数少ない惣構えの大きな城であったようで、東西五十七間(103m)、南北43間(77m)もあり、『信長公記』には、中の丸、東の丸、西の丸の三つの曲輪があり、中の丸には天守閣まであったとされる。『別所記』には、中の丸、東の丸、西の丸、二の丸、大手の高櫓、木戸口、二の丸の橋板、東の木戸、外構などと、四方には空堀もあったとしている。
天保三年(1832)に井戸を掘ったところ、銀色の矢羽津の紋が付いた鎧の片袖などが見つかった。この紋から、三木城より援軍として駆けつけた、「梶原十右衛門景治」の物ではないかと見られ、五輪塔を建てて供養したと言う。
なお、神吉城築城は、明石郡神出城の赤松五井判官が、それまでの戦功により、「神吉ノ庄」一万石余りの領主となり、地名である「神吉ノ庄」より、氏を神吉と改め、文明元年(1469)城を築き入城したと伝えられている。以後、落城まで、城主は六代目(頼定)で109年間に亘る激動の歴史を閉じた
引用文献・参考文献1.「加古川市史」2.「兵庫の城」3.常楽寺所蔵書4.「別所一族の興亡」
平成29年10月7日