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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 21 (2/6/20) 西原町 (4) Tuhanaha, Kobashigawa, Kochi Hamlets 津花波/小橋川/幸地集落

2020.06.03 10:35

津花波 (つはなは、チファナファ)

小橋川 (こばしがわ、クヮシチャ)

幸地 (こうち、カウチ)

今日は今まで訪れた西原町の各集落で見落とした文化財を巡りながら、まだ訪問していなかった集落も訪れることにした。まずは既に一度訪れた我謝、与那城、桃原、小波津を通って行く。

そして、まだ訪れていなかった津花波と小橋川の集落を見学。


津花波 (つはなは、チファナファ)

集落発祥は 5月29日に訪問]訪れた呉屋毛 (グヤモー) の農村公園にある上ヌ嶽 (ウィヌダキ) 付近とされており、その後、移動を繰り返し現在地に集落が形成された。 津花波集落の歴史は古く、津花波散布地と津花波古島の2箇所の遺跡散布地が確認されている。聖地として、琉球国由来記に、上ヌ嶽 (ウィヌダキ)、前ヌ嶽 (メーヌダキ) 、津花波ヌ火神 (ツハナハヌヒヌカン)、津花波ヌ殿 (ツハナハヌトゥン)の記載がある。戦前の主な年中行事は綱引きやクスッキー、原山勝負 (はるやましょうぶ) 、エイサーなどが盛んに行われていた。原山勝負 (はるやましょうぶ) は、19世紀に始まり、各間切で耕地の手入れ、農作物、山林の植栽手入れ保護等の成績を品評した農事奨励法で、勝村には褒賞を与え、負村には制裁を加えた。同時に競馬などの余興も行われた。

上之嶽 (ウィヌダキ、グスクヌチヂ)、津花波之殿 (ツハナハヌトゥン)、御殿小 (ウドゥングア)

津花波集落の発祥の地とされている場所にある史跡については、 5月29日の訪問機の中の小屋集落で載せている。Okinawa 沖縄 #2 Day 20 (29/5/20) 西原町 (3) Yonagusuku, Goya, Onaga, Kochi Hamlets 与那城/呉屋/翁長/幸地集落


津花波公民館

呉屋集落から呉屋毛 (グヤモー) を越えた麓に現在の津花波集落があり、その中にある公民館に行く。西原町の案内所では農村公園以外の史跡は載っていないのだが、公民館に行けば、近くにほとんどのケース、何らかの史跡がある。ここも例外ではなかった。

公民館の前には井戸がある。現在はコンクリートに変わっているが、当時の井戸と水場の形がよくわかる。

そして丘がある。丘の下の方は小さな広場になっている。コンクリート造りの滑り台と鉄棒がある。これは昭和の時代、沖縄戦が終わり、収容生活から村に戻ることが許されてまもなく各村で作られていたものだ。多分昭和20年代後半から30年前半に作られたものだろう。やはりこの公民館はかつての村屋 (ムラヤー) だろう。

丘の中腹と頂上に拝所があった。名前はわからない。


小橋川 (こばしがわ、クヮシチャ)

小橋川の集落は上ヌ松尾付近に古い集落が形成され、その後拡大し、現在の範囲にな った。 小橋川の方言である「クヮシチャ」の原義は、クバ・シチャ (蒲葵の下) とされる。小橋川の古島である与那川付近には、蒲葵の樹木が繁茂していたという。 聖地として琉球国由来記に、小橋川根川、小橋川之殿の記載がある。 甘蔗圧搾機の改良に成功した大城助素の故郷である。糖業に大きく貢献したことを称え て石碑が建てられている。 年中行事として綱引きや村遊びが行われ、獅子舞も演じられている。


小橋川公民館 / 故大城助素之碑

公民館には大城式甘蔗圧搾機玉車を発明した大城助素の石碑がある。大城助素は、地元小橋川の屋号伊田の嫡子として慶応3年 (1867年) に生まれ、明治15年、西原間切番所の文子 (書記) を拝命以来、勧業委員、村会議員、学務委員等を歴任し、村政の発展に大きく貢献。明治32年頃より、農村の改革を企図し糖業および農村の振興は甘蔗圧搾機にあると着目し、私財を投じて研究に没頭し、大正3年、ついに大城式甘蔗圧搾機玉車を発明。これによって、沖縄県の基幹産業である糖業に一大光明をもたらし、県下産業界にも大きく貢献。

集落があった上ヌ松尾は公民館の裏の丘陵にあり、現在の集落はその丘陵の裾野に広がっている。


下ヌ御殿 (シチャヌウドゥン)

集落の始まりの上ヌ松尾は三段になっており、下の段には火之神 (ヒヌカン) を祀っている下ヌ御殿 (シチャヌウドゥン) がある。

御殿 (ウドゥン) の横には二つの井戸跡がある。


上之御殿 (ウィーヌウドゥン)

下ヌ御殿 (シチャヌウドゥン) から一段上に上がると広い広場がある。ここはキャンプ・ペリーと呼ばれている場所。幕末に黒船で沖縄に現れたペリー提督は、沖縄本島の各地を視察している。 首里から西原に出て東海岸を北上し、石川あたりで折り返し、西海岸を南下し、視察を行ない、沖縄本島の地形、石炭の有無、食料の状況など、東アジアの拠点として琉球を評価しようとした。 視察に同行した画家のウイリアム・ハイネのスケッチが残っている。 

ここには上之御殿 (ウィーヌウドゥン) がある。竜宮神、地頭火之神、国元ノロが祀られている。


上森之御嶽 (ウィームイヌウタキ)

上之御殿 (ウィーヌウドゥン) から急な階段を上り、頂上へ。そこには御嶽 (ウタキ) がある。この丘自体が聖地としての城だったのだろう。その麓に近い斜面に集落が築かれた、典型的な沖縄中世の集落の形だ。公園や拝所は綺麗に整備されており、観光地としては出来が良いのだが、この場所を紹介しているインターネットサイトは殆どなく、西原町の文化財紹介にも故大城助素之碑以外は出ていない。少しもったいない気がする。


慰霊碑

沖縄戦では、小橋川集落には64世帯300人が住んでいたが、その半分の153人が命を落とした。その慰霊碑が上之御殿 (ウィーヌウドゥン) の隣に建てられている。


今日、最後に訪れるのは幸地集落、前日に続き2回目の訪問だ。


幸地 (こうち、コウチ)

町内でも古い集落のひとつであり、かつては城村 (グスクの北東側)、熱田村 (古島、小字安津田、末裔は知念門中)、東風平村 (東風平原) に分かれ、西原間切の中心的な場所であったとされている。西原間切は首里王府の直轄地であったため、間切を代表するいわゆる 同村 (ドゥームラ) というものはないが、西原間切の地頭家が幸地親雲上であったこと から、幸地が西原間切の拠点地域であったと考えられている。 古い番所跡地、幸地グスク、幸地按司墓、馬場跡、歴史の道などの名所旧跡が多い。 幸地グスクの主である熱田子の伝説が残っている。 聖地として琉球国由来記に、ヒガワノ嶽、石嶺ノ嶽 (イシンミヌウタキ)、城之火神、名幸之殿、幸地城之殿、幸地巫火神の記載がある。 年中行事として、綱引きや村遊びなどが行われている。村遊びは旧暦8月15 日に行われ獅子舞や組踊などが演じられる。  

この幸地には5月29日にも来たのだが、幸地按司墓の場所が分からず、迷ってしまい時間がかかったことと、公民館の前で見つけた御願所 (ウガンジュ) 案内板に、西原町の案内書以外の多くの拝所が紹介されていたことで、5月29日で全てを巡ることは無理なので、余裕を持って今日再度訪問したのだ。余裕を持ってと思っていたのだが、この日は過去3日間で見落としていた各集落の文化財も周ってきて、この幸地が最後の訪問地となり、暑さもあるのだろう、かなり体力を消耗してしまった。幸地は高台にあるのと、史跡はここにある3つの丘陵に分かれており、何度となくアップダウンを走行し、脚は限界にまできている様だ。29日と今日、訪問した文化財を訪問順ではないが、記載しておく。


翁長集落からは二つの丘陵が見える、近いほうは29日には見つからなかった幸地按司の墓がある丘陵 (前山 メーヤマ 写真上) で、その丘陵の上部から伸びるもう一つの丘陵 (写真下) がある。ここに幸地グスク跡がある。この二つの丘陵の中腹から麓にかけて、もともとの幸地集落 (古島) があったが、現在は一面畑になっている。

幸地按司の墓を目指して手前の方の丘陵の前山 (メーヤマ) に向かう。ここに行く道路 (首里-翁長番所-中城への道) を登る途中に二つの史跡に出会した。


幸地之殿 (カウチヌトゥン) / 幸地殿井 (カウチトゥンガー)

殿毛 (トゥンモー) と呼ばれる所にある拝所で、翁長から首里へ向かう道の途中にある。もともとの幸地集落 (古島) の高台側にあり、古島時代の聖地であった。


樋川之殿 (ヒージャヌトゥン) / 樋川井 (ヒージャガー)

琉球国由来記にあるヒガワノ嶽のことではないだろうか? 琉球王統時代に、首里城では、元日の朝、吉方の井泉から汲んだ水を、辺戸の水とともにウチュクイノ阿武志良礼が王に献上した。琉球国由来記によれば、吉方の水は主に首里近郊に散在する9か所の井泉から汲んだもので、西原町では、首里城から寅の方位(東北東)にあたるこの幸地樋川が選ばれたと云われている。


石嶺之嶽 (イシンミヌウタキ) / 石嶺之嶽井 (イシンミヌウタキガー)

前山 (メーヤマ) の頂上付近に到着すると、この一帯は墓地になっている。比較的新しい墓地で、区画整理がされている。墓地を抜けて、前山 (メーヤマ) の頂上の端まで行くと、石嶺之嶽 (イシンミヌウタキ) があり、神名イシラゴと書かれた霊石 (イベ) が置かれている。さらに奥には、石嶺之嶽井 (イシンミヌウタキガー) があった。この御嶽も琉球国由来記に記載ある由緒あるものだ。

ここで道がなくなり、幸地按司墓は見つからない。墓地の中を探してみると、按司墓は見つからなかったが、二つの古い拝所があった。


名幸之殿 (ナカウヌトゥン)

琉球国由来記に記載ある名幸之殿 (ナカウヌトゥン)がある。新しい墓に挟まれた所にあった。


中之御嶽 (ナカヌウタキ)

墓地は前山 (メーヤマ) の斜面の上から下までにぎっしりと広がっており、斜面のほぼ中腹の墓地を抜けた林の中に別の御嶽がある。中之御嶽 (ナカヌウタキ) と書かれている。これ以外にも上之御嶽や下之御嶽もあったのだろうか?

結局按司墓は見つからなかった。前山には別の道があるのだが、そこにはもう一度下まで降りなければならない。この日はこれ以上の探索は諦めて、幸地グスクに登ることにした。写真の手前の丘陵が城のあるところで、奥に見える丘陵が刻時森。


幸地公民館 

坂道を上り切ると村落がある。まずは公民館に行く。何かこの村の情報があるかもしれない、果たして、あった。幸地集落にある御願所 (ウガンジュ) 案内板。ここはかつての村屋 (ムラヤー) ではなかった。戦前は幸地グスクの麓にあり、戦後は現在ちから数十メートルのところにあったそうだ。

この案内板で按司墓への道がわかった。やはり、下まで降りないと行けない。これは後日訪問としよう。


幸地の差石 (サシイシ)

公民館の近くの児童公園に力石とサトウキビの絞り機 (一番グルマ、サーターグルマ) の展示があった。力石は沖縄では差石 (サシイシ 本土でもこう呼ばれている) と呼ばれ、本土と同じ様に、若者の力自慢のためのものだ。ここには4つの差石が残っており、それぞれが重さが異なる。41kgから重いものは100kgを超えている。案内板にどの様に競ったのか、石の持ち上げ方法が説明されていた。もともとここにあったのではなく、十字路とか村の広場であるアシビナー (遊び場) に置かれていたそうだ。


名称不明の井戸跡

集落内の住宅街の中に残っていた井戸跡


子根軸之御嶽 / 黄金之御嶽 (クガネヌウタキ) 

集落の北側には御願毛 (ウガンモー) と呼ばれた場所があり、現在は高層マンションの住宅街になっている。その中に、綺麗に整備された拝所が二つあった。子根軸之御嶽 (読み方は不明) と黄金之御嶽 (クガネヌウタキ) と書かれている。この二つの拝所の由縁について書かれたものは見つからなかった。


幸地按司井 (カウチアジガー) / 城上門井 (グシクウィージョーガー)

いよいよ、幸地グスクに向かう。集落からさらに急な坂道を登っていくと、二つの井戸跡があった。城上門井 (グシクウィージョーガー)とあるので、この辺りに城門があったのだろうか?


幸地 (コウチ) グスク

西原町には4つのグスク跡が確認されているが、これでその4つ目のグスクに来たことになる。先日は、棚原グスク津記武多 (チンタ) グスクを訪れたが、この二つのグスクに居城していた按司を滅したのが、この幸地グスクを拠点にしていた幸地熱田子 (こうちあったし) だ。熱田子は腕力も強く人々から恐れられていた。熱田子に滅ぼされた津記武多按司 (ちきんたあじ) の一族に繋がる今帰仁按司 (なきじんあじ) が仇討ちを図るも、幸地熱田子の策謀で殺された。その後、今帰仁按司の息子四人が兵を挙げ、ついに幸地熱田子を滅ぼしたと言う逸話が残っている。

幸地グスクは15世紀前半に、伊波按司の二代目から分家してきた者が幸地按司と称し、標高100mの南北に長く広がる丘陵に造られた。1981年の調査では、石積みの跡はなく、土を盛ってつくられたグスクと考えられている。この峰が分水嶺で、南方は首里方面へ、北方は中城方面につながる。

ここからは中城湾方面がはっきりと見える。


[ビージル] グスク内の最高地点に祠が建てられているが、かつては櫓台であったと考えられている。ビージルとは霊石のことでビジュル (鬢頭廬 びんずる) とも言われる。沖縄では、撫でると子供を授かるという伝承がある。(本土では患った部位を撫でると治癒すると信じられている)

[幸地グスク井 (カウチグスクガー)] その櫓台の北東下は曲輪となっている。遊び庭 (アシビナー) とも言われている。この曲輪の北よりには井戸があり、ここは居住地ではなかったかと推測されている。

[峰道 (ハンタ道)]  このグスクのある峰の上に、グスク前には場跡があり、峰道 (ハンタ道) が通っている。グスク内を通過して首里に通じているのだ。一種の関所的機能を持ち、戦時には道路を封鎖する目的で造られたと考える。現在は歴史の道として紹介されている。向こう側にはこの後訪れる刻時森が見える。(写真右下)


古番所井 (フルバンガー)

峰道 (ハンタ道) 道を首里方面に下ったところに、番所があったそうで、ここが関所の役割を果たしていた。そこには井戸跡が残っていた。この西原の間切番所は、18世紀後半ごろに翁長 へ移った。


幸地按司墓

6月2日にもう一度、幸地に戻ってきて、前回見つからなかった幸地按司の墓にいく。墓への道は前山 (メーヤマ) の麓にあった。 幸地按司墓は、幸地グスクの城主熱田子の墓だといわれている。古老の伝説を集めた遺老説伝 (18世紀初期の編纂) によると、「往昔、熱田子は今帰仁按司の子らに亡ぼされた。その墓は石嶺御嶽の東にある。子孫らは翁長村にあって、その墓を守っている。」と書かれている。幸地按司墓は、かつて存在していた村のほぼ中心部を占める丘の南斜面に立地していたことになる。


幸地ノロ墓

按司墓のある前山 (メーヤマ) の前に、メーンター毛 (モー)と呼ばれる丘陵がある。

ここにノロの墓があると書かれていたので、行ってみることにする。畑の中に道だろうと思えるところを進み、林の中に小さな空間が現れる。そこがノロの墓だった。


ウミナイ御嶽

ノロの墓の近くにある御嶽。沖縄の開闢神話で有名なのはアマミキヨとシネリキヨ (本土でいうイザナミとイザナギに相当) なのだが、別のバージョンがウミナイとウミキイだ。そのウミナイを祀った歌城だろう。


刻時森 (ククジムイ)

幸地グスクから、集落の南西にある刻時森に向かう。刻時森は、日影と漏刻との関係を観測させた日時計が置かれていた。幸地グスクを通っている峰道 (ハンタ道) は刻時森の日影によって時刻を測定して首里城へ連絡するのに使われていた。

今日何度目かの坂道走行だ。かなり脚に負担が来ているのだろう、普通はなんということのない坂道も、きつい。アドベンチストメディカルセンターの駐車場に自転車を停めて暫く休憩。落ち着いたところで、給水タンクのある帽子峰と呼ばれていた丘の上に登る。そこから頂上まで道は通っているのだが、深い草に覆われている。ほとんんど人が来ていないのだろう。頂上には3メートル四方ほどの狭い平坦地になっており、これは当時の遺構では無いだろうが、そこに日時計が置かれていたのだろうと思われる印があった。

尚敬王 (1713~1756年) の時代には、首里城内の漏刻門に設置された水時計 (漏刻) で時刻を計り、その補助として日時計や砂時計も併用していたのだが、不正確であった。そこで、蔡温がこれまでの漏刻 (水時計) の法が不正確なので改正しようとして、数学者の古波津里恒 (こはつりこう) らに命じて、日影と漏刻との関係を観測するために、この刻時森 (ククジムイ) に日時計を設置した。 古波津里恒らが、1740年2月から翌41年10月までの1年8ケ月ほど観測した。尚敬32 (1744) 年以後はそのデータをもとに改正した測定法で時報を行ったと言われている。

刻時森 (ククジムイ) から幸地方面の風景

これで幸地巡りを終了し、西原町のほとんどの集落を目終えた。訪問しながらいろいろな資料に目を通したのだが、西原町では、かなり詳細の資料を作成して文化財の保存に力を入れようとしている様だ。その資料にはこの4日間では見ていないものも多く記載があった。

これから首里経由で帰路に着く。少し遠回りなのだが、この幸地から刻時森 (ククジムイ)を通って首里に道があったので、どれ程の距離だったのかに興味が湧き、この経路にした。


質問事項


今日は暑く、かなり疲れているので、夕食は簡単にぶっかけそうめんであっさりと済ました。具沢山にはしたのだが....