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横浜の建築家 area045

横浜三渓園 春草廬

2009.05.09 00:47

「茶室って、結局は貧乏ごっこ、でしょ?」

この言葉を最初に耳にしたのは、畏友のランドスケープアーキテクト中谷耿一郎氏

と茶庭について語っていた時だ。彼がそう言うのを聞いて、おもわず膝を打った。

それまでずっと漠としていたモヤモヤが、ある一言でサーッと晴れることがある。

 土壁が剥がれ落ちて下地の竹小舞がムキ出しになっている風な「下地窓」

 狭い田舎家で壁がこすれて傷んだところに紙を貼っている風な「腰貼」

 床柱や落掛に好んで使われる、有りあわせで間に合わせた風な「古材やアテ材」

なるほど、「数寄」好んで「貧乏ごっこ」をしたい(できる)ってことなんだな。

「ワビ」「サビ」おまけに「キレイサビ」などと煮込んだものを味わうより前に、

泥を落として洗ったまんまを知ってた方がいい、とそれからは考えることにした。

大学で受けた日本建築史の授業(渡辺保忠先生)も思い出した。

茶葉は薬草として大陸から入ってきたこと。茶室は権謀術数うごめく戦国の世で、

密約や寝返りの謀議のために屋敷奥に密かに設けた小さな離れを起源とすること。

そこでは相手の腹を探り合い意味深長な含みある会話が交わされたであろうこと。

そして今日の茶会での慇懃で思わせぶりな清談はおそらくその名残であろうこと。

司馬遼太郎の「国盗り物語」に興味深いエピソードが描かれている。

信長のイジメに耐えかねた明智光秀が、救いを求めて細川幽斎のもとへ走る場面。

ただ一人、馬を飛ばして夜更けに細川屋敷にたどり着くと、まず茶室へ通される。

突然の客にも礼をはずさぬ出迎えかもしれぬが、疲れたうえの空きっ腹に濃茶では

胃がひっくり返る・・・と思いながらも、ここは堪えて受けるしかあるまい・・・

出された碗をグッと飲み干しながら、光秀はそれが茶ではなく山芋を摺ったもの、

つまりトロロであることに気づく・・・ミツヒデ感激!

これで光秀はすっかり幽斎に心を許してしまい、すべてを打ち明けてしまう。

こののち光秀は自らを悲運の道に導いてしまうのだが、一方で幽斎は常に表舞台の一枚裏に身を置くことで戦国の世を生き長らえる。もちろん光秀をも捨てていく。

(幽斎の子孫でついに表舞台に立ってしまった人は、うたかたのように消えたが)

確かこんな話だった。司馬遼太郎だから実話かどうか真偽のほどはわからないが、

「茶室とは何か?」を語るとき、解釈のヒントをひとつ与えてくれる逸話である。

なにせ、茶室のど真ん中に置かれたものがお茶ではなくて「トロロ」なんだから。

それからのちおよそ400年の平和の間、茶室(あるいは数寄屋)はレトリックを

重ねながら、しかもそれを捏ねくり回してきたのだ。だから今日、人はこう言う。

「お茶は本当に奥が深いですな」

横浜三渓園の茶室「春草廬」(織田有楽斎)はそのたたずまいがいい。

「九窓亭」の別名のように、茶室としてはいくぶんあでやかな方かもしれないが、

園内でのロケイションも控えめで、斜面を背にして実にひっそりと置かれている。

有名茶室といえば、どれもこれも腫れ物にさわるように扱われているのに比べて、

まさに草廬(=草庵)。遠くに聞こえる戦の雄叫びに怯えているようにも見える。

しばし見入っていると、私のそばにやって来た中学生達がひとこと言ってのけた。

「ただのボロ屋じゃん」

そのとおりだ。

冒頭のランドスケープアーキテクト中谷氏は八ケ岳山麓に自宅とアトリエがあり、

建築家とコラボレイトしたランドスケープデザインも数多く実現しておられます。

私も幾つか造園をお願いしておりますので、私のホームページにも写真をたくさん

紹介してあります。興味ある方はどうぞ中谷アトリエにアクセスしてみて下さい。

美しい写真をたくさん見られます。

http://www.oizumi.ne.jp/~nakatani/

(増田 奏)