播磨の名刹 野口町念佛山『教信寺』
千二百年にわたり教信上人の威徳を語り伝え今なお衆人とともに歩み続ける・・
予め死期を悟った上人は、近隣に告げて曰く『土葬・火葬は我が願いにあらず。
願わくば荒野に棄てて鳥獣の飢えを凌がせて縁を異類に結ぶことを望む。』中野に露葬された遺体には鳥獣群がり狐狸達も争って食すも、首面だけは厳然として損傷せず慈顔笑うがごとく香気香しく漂う。その時、天空より其の形三角にして瑪瑙の如き石が降り、髑髏自ら起き、その石上に安ず。(播磨鑑より)
賀古の沙弥教信は、我が国の弥陀信仰の先駆者であった。
この地で粗末なあばら家(現在のオークラ輸送機(株)辺り)に妻子とともに住み旅人の荷物を運んで、わずかな糧を得乍ら、生涯を通じて清貧を好み、民衆の救済に努め、念仏を絶えさなかった。親鸞は、そんな教信を念仏者の模範と称して『我はこれ賀古の教信沙弥の定(仏法の基本)なり』と称賛した…。(加古川市史第1巻)
上人の庵には経像は一切安置しなかった。また教信にとっての絵像は、日ごとに沈みゆく真っ赤な夕日であった。人間に対してだけでなく、死してなお、異類との縁をも結ぶことを望んだ。その崇高にして鮮烈な生きざまは、現代を生きる我々にのみならず、末永く後人の生き方に、大きな指針を与え続けるものではないだろうか…。合掌
文献に見る教信上人の生涯
『加古郡誌』には、『播磨鑑』そのものを引用して記載されており、編者は、難解な文字については現代の言葉に変換、要約して以下に記することとした。文意の微妙な部分は別として、大意としては、大方において間違いはないと考えている。
播磨鑑にいう。
当寺は、教信上人が棲み、入寂(逝去)した地にして、清和天皇(在位858~876)創建なり。上人の俗姓は藤原氏。最上位の官職である鎌足公五世の孫に当たる。上人は天應元年(781年・奈良時代)に和州奈良に降誕す。11歳にして深く世相を憂い興福寺・永西師の室に入る。
優秀かつ数多の書籍を好み、精力的に研鑽に努めた。成人を待たず、四十年間も諸国を巡り、承和三年(836年・平安時代)当地の路傍に庵を結び、隠遁(いんとん)の地とした。その庵には像物は一切安置せず、ただ西壁に穴をあけて西方浄土に想いを巡らす日々を送った。常に髪を長くし、粗雑な食事をもって、わずかながらも、身の楽を求むることはなかった。また、郷人(住民)の救済を好み、農業を助け、あるいはわらじを作っては貧者に与え、老人が歩行に窮する時には自らが背中に背負い、送り迎えもした。その距離、西は阿弥陀村東は明石の和坂まで、およそ六、七里に及んだ。疾風や雷雨の日でもこれを休むことはなかった。
一人にては多人数に及ばずを嘆いて、念仏を唱えることにより、たちまち六人となり、四方にわたって民を救済した。このことにより、郷人、「荷送り上人」とも呼ばれ、また「阿弥陀丸」とも称された。夏の日照りに民が憂いれば、庵の前に池を掘り、田畑の灌漑用水となし、これにより干ばつの憂いなく、秋には豊作となった。
現在の「驛(うまや)が池」がその池である。
しかるに、この池の魚を住民が食するようになったため、上人は、その殺生を憂い、種々説法したが、住民これに従わず、止む無く上人、これを食し、「驛が池」の前にて吐き出したところ、たちまち生魚となって遊泳したため、民深く懺悔し、永く殺生をやめることになった。吐き出された生魚には、一目となったものもあり、住民は、これを『上人魚』と名付けて決してとらえることはなかった。
貞観八年(866年・平安時代)、上人、予め死期を悟り、近隣に告げて曰く『土葬・火葬は願いにあらず。
願わくば荒野に棄てて鳥獣の飢えをしのがせて
縁を異類に結ぶことを望む。』
上人、西方に向かい念仏を唱え心静かに息をひきとれり。貞観八年八月十五日夜子の刻行年八十六歳。民衆は中野に露葬した。遺体には鳥獣群がり狐狸達も争って食すも、首面だけは厳然として損傷せず慈顔笑うがごとく香気香しく漂う。その時、天空より其の形三角にして瑪瑙(めのう)の如き石が降り、髑髏自ら起き、その石上に安ず。(『播磨鑑』より)
「今昔物語」にみる教信上人の晩年
《仏教児童文学者・平川了大氏著『沙弥教信の念仏』によると、晩年の教信に関し「今昔物語」には次のような記述があるという。》
摂津国嶋下郡に勝尾寺という寺があり。その寺に勝如上人という僧住みけり。別に庵を作りて、弟子をも殆ど見ることなく十余年間、無言の行を行いけり。しかる間、夜半に何人か入り来て柴の戸を叩く。叩く人の曰く、『我はこれ、播磨の国賀古の驛の北の辺に住み着くる沙弥教信なり。年来、弥陀の念仏を唱えて極楽に往生せんと願いつる間、今日、既に極楽往生す。上人、また来る翌年の今日、極楽の迎えを得給うべし。しかれば、此の事を告げ申さんがため来れるなり。』勝如、これを聞き、驚きかつ怪しみて、早々に弟子である『勝鑑』に賀古の驛へ赴き、事の真偽を確かめるよう命を出した。
勝鑑、上人の命に従い彼の国に行き、尋ね見るに、小さき庵あり。その庵の前に一の死人あり。鳥獣集まりて、その身を競い食らう。庵の中に嫗(おうな)、一人の童あり。ともに泣き悲しむこと限りなし。嫗答えて曰く、『彼の人は我が年来の夫なり。名をば教信という。また、この童は教信の子なり。年老いて年来の夫と今別れて、泣き悲しむなり…』勝如上人、勝鑑よりこの話を聞き、涙を流して哀しみ、教信の所へ赴き、泣き泣き念仏を唱え、その後勝如はいよいよ心して念仏を怠ることなし。しかるに彼の教信が告げし年の月日に至り、ついに終わり尊くして失せにけり…。
(注)県埋蔵文化財資料館の資料では、「賀古驛・鹿児驛(かこのうまや)」の表記を「驛屋(うまや)」と「屋」を
付けて表記している。(三浦孝一・当会顧問談)
なお、『峰相記』には、貞観八年八月十五日夜、摂州勝尾の勝如上人に来年の今夜の迎えを告げて…とある。)
教信寺と一遍常人
加古川市史第2巻
時宗の開祖、一遍上人は、弘安九年(1286・鎌倉時代)兵庫から播磨に入って、印南野教信寺に参詣した。初めは通りすぎる予定であったが、寺僧がとどめ給い、当寺に一泊する。国宝『一遍聖絵』には教信寺の絵が描かれている。正応二年(1289・鎌倉時代)阿波国で発病した一遍は、死期を悟り、印南野の教信寺で臨終を迎えたいと願ったが、兵庫からの迎えの舟が待っていたため、『いずくも利益のためなれば、進退縁に任すべし』とそのまま兵庫に行き、その地で息を引き取った。一遍は、教信寺で最後を迎えたいと願うほどに、教信を敬慕していた。一遍の、それほどの教信への思い入れにより、一遍の弟子・湛阿(たんあ)が勧進聖となって、自国、他国の念仏者を集め、元享三年(1323・鎌倉時代)八月十五日結願にて、七日間の不断念仏を興業したところ、数百人が常行三昧に念仏した。これが上下群衆する「野口大念仏」の初めであると「峰相記」に書いてある。
※一遍上人…「時宗」の開祖で、「南無阿弥陀仏」を一遍唱えるだけで、悟りが得られるとの教義である。摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)でその生を全うした。往年五十歳。
教信上人入寂後の寺歴
播磨鑑にいう
(末尾には『「峰相記」に此の上人傳記載す』との記載がある。)
清和天皇(850~881平安時代)深く上人の徳を歓び、官吏に命を出して伽藍を立て、庵址について正殿を構え行基(668~749飛鳥時代)彫刻の弥陀の像を安じ號を「観念寺」と名付け、毎年金三千貫を賜う。これにより当寺の名、世間に広く知れ渡ることになる。
崇徳天皇(大治元年1126平安時代)命をだし、『念仏山教信寺』と改める。
後深草天皇(1243~1304鎌倉時代)建長七年(1255)命を出し八町歩を
賄い、伽藍を建立し給う。
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本堂阿弥陀殿(七間四方中央)・開山堂・来迎堂(五間四方南面)・
三重塔(東南)・地蔵堂(西南)・護摩堂(東北)・鐘楼(東)・
十王堂(南)・辨天社(驛池洲)・山王祠(東南)・寶蔵(開山堂北)
・阿加井(西南)・浴室(西南)・僧坊四十八院(諸堂の後ろにあり)
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上記の如く造立して寺座三百石を賜う。ここに浄土諸寺とともに毎年
八月九日より十五日に至るまで日ごと三時に法要を勤修す。
『野口念仏』がこれなり。
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兵乱しばしば起こり、寺院は次第に衰微し、その會は行われることなくなり、かつ、別所氏がこの地を侵食し、城を當寺の境内に置く。天正六年(1578安土桃山時代)秀吉公放火し、これを攻める。余炎當寺に及び
諸堂・寺院一時に灰燼と帰す。この時、二人の寺僧(不動坊海長・経蔵坊春盛)が本尊阿弥陀像(行基作)地蔵菩薩(小野篁(たかむら)の手刻・平安時代作)開祖の首面彫刻(鎌倉末~南北朝の作)と書二軸(土佐の光信作画による上人生涯の行状を記す絵画)を遠地に持ち出し、これらのみ類焼を免れた。
天正八年(1580)再び寺山に帰り、草堂一宇を建立し、類焼を免れた諸像等を泰安す。
天正十八年(1590・安土桃山時代)の春、本堂建立さる。
~以下、加古川市史第1巻並びに教信寺パンフによる~
寛永十九年(1642江戸時代)現在の伽藍まで復興するが、天保十一年(1840)本堂を焼失。
明治十三年(1880)書写山円教寺にあった念仏堂(応永五年・1398室町時代建立)をもらい受け、移築労作して本堂を再建。
平成七年の阪神大震災にて損傷した本堂、薬師堂、開山堂の修復が完了し、阪神大震災にて損傷した本堂、薬師堂、開山堂の修復が完了し、平成十五年、平成の落慶大法要を営んだ。また、平成二十七年四月五日、上人没後1150年『御遠忌大法会』を盛大に執り行った。
不動院ご住職にご縁をいただいて
春まだ浅く、余寒いまだ肌にしみる2月末のある昼下がり…教信寺の境内は、閑散とはしていたが、開花を待つ桜のつぼみが早春の風に揺れながら、砂利敷を進む私を出迎えてくれた…。
この寺は、境内に当番院四院を擁する、鶴林寺ととも播磨を代表する名刹である。今年は『不動院』様とのことで、不躾ではあったが、北村ご住職にご面会を依頼したところ、当初からの私の心配は杞憂に終わり、温かく出迎えていただくことになった。二時間にも亘るご説明、また各堂内のご案内まで頂戴し、心温まる貴重なお時間を頂戴したことに衷心より感謝した次第であります。
ご住職によると、賀古の驛は、馬四十頭を擁する、我が国では二番目の驛であった、との由。その場所は、今のオークラ輸送機(株)のある辺りで、教信上人が結んだ庵も、このあたりにあったとのお話である。
「荷送り上人」や勝尾寺との縁については、本書の記述にも、そのお話の一部を織り込んだが、上人がいかに徳の深い高僧であったかが、ご住職のお話に接して、改めてその認識が深められた次第である。
ご住職によると、賀古の驛は、馬四十頭を擁する、我が国では二番目の驛であった、との由。その場所は、今のオークラ輸送機(株)のある辺りで、教信上人が結んだ庵も、このあたりにあったとのお話である。
「荷送り上人」や勝尾寺との縁については、本書の記述にも、そのお話の一部を織り込んだが、上人がいかに徳の深い高僧であったかが、ご住職のお話に接して、改めてその認識が深められた次第である。
お話は更に続く。「ねんぶったん」は毎年、9月13日と14日に行われる。初日の午前中は慰霊祭。市内全域より宗派を超えて僧が集まってくる。午後からは法要を行い、夜は盆踊り…。また、二軸の絵解きも行われる。ちなみに絵解きは、上述の教信寺蔵二軸の絵伝記により行われる。昔のねんぶったんは、もっと大規模であった。10日から2週間にわたって盛大に執り行われたとの事である。
民衆は岩岡町からも。夜食持ちで、夜中まで念仏をとなえていたとのことである。当時から、多数の露店が出店し、店主によっては、
商いの傍らに博打を打つ者もあり、このような博労の耳をも傾けさせる僧が、名僧である、という笑い話がいまも残っている…。
なお、文献によっては、現存しないと言うが、阿弥陀如来は当寺の秘仏として、また二軸の絵伝記も、当寺に現存している。ただ阿弥陀様は、火炎が当たり接ぎ木となっており、文化財指定にはなっていない…