『志方城』その成立と崩壊のミステリー
『あなおもしろ、鹿田と名付けまし』
志方の地名については、神功皇后が三韓征伐に行かれた時にこの地に上陸され、今の宮山に登られ、たくさんの野鹿が遊び戯れているのをご覧になり、『あなおもしろ、鹿田と名付けまし』と賞嘆されたのに因んで鹿田と称するようになった。後に『志方』に改められたものという。
これは、播磨風土記に賀古の郡(今の加古郡)の地名について、「昔、応仁天皇がきく丘の頂上に立って『このくには、丘と原野といと広くして、この丘(今の日岡)を見るに鹿児の如し』と仰ったので賀古の郡と言われるようになった」というのを始めとし、当時は、播磨一円にのみならず全国的に鹿が多数生息していたので、鹿に因んだ地名が多いのである。
この記事のあと、郡誌には、『志来りし方』と、ややこじつけのきらいがある。『越し方』の約音では、との私見も付記している。(「志方町誌」による。)※三韓征伐…神功皇后が新羅出兵(7世紀?)を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。
志方城成立と歴史(八十八年間)
歴代の城主である櫛橋家は、藤原氏で伊朝を元祖として代々赤松氏の家臣であった。本丸跡に建つといわれる現在の志方「観音寺」諸記録によると志方城の成立は、明応元年(1492)歴代城主は、則伊➡伊家➡伊定➡政伊となっており、伊定の時代に落城(天正八年・1580)した。
(※「書写山十地坊過去帳」では、則伊は志方城成立以前の文明18年(1486年)に死去しており、正確なところは不明。)
志方城の規模
加古川市史によると、「志方荘志方東村、現在の志方町志方町にあった平城である。本丸があったと伝えられるのは、観音寺境内で、北に隣接する志方小学校一帯が、地形的にも緩丘となっている。『播磨鑑』には、その規模を東西六十間(108m)南北五十三間(100m)としており、『今ニ要害土手ノ跡ナリ』と書かれている。
城跡は復元推定によれば、総構えのかなり大規模な城郭と云える。本丸の東・南・西には内堀が掘られていたとみられ、北には土塁を築き、それに接してきた北は、現在の志方小学校のあるところが二の丸にあたるとみられる。」
伊定の娘であった光姫
光は櫛橋伊定の次女として、天文二十一年(1552)に生誕した。官兵衛との結婚は、永禄十年(1567)。
観音寺諸記録によれば、桜のつぼみがほころぶ、15歳の早春に祝言を上げた、とされている。寛永4年(1627年)、筑前国福岡において死去(卒年75)。戒名は『照福院殿然誉浩栄大尼公』墓は、報土寺(京都)、崇福寺(福岡)、圓應寺(福岡)にある。※参考…寺に残る系図には、伊定の妹と記載されているが、これについて村上前ご住職によれば、『資料を総合すれば、伊定の娘とするのが正しいようです。』と神戸新聞には記載されている。
秀吉の志方城攻め
志方城落城の顚末については、諸説があり、確たる事実は明らかではないが、『志方町誌』には、以下の通り記載されている…。
「秀吉が、七千五百騎という大軍を率いて志方城に迫ったのは、天正六年(1578)7月のことだった。総大将は、信長の次子たる北畠信雄であった。対する志方勢はわずかに千余騎。何度か城門を開いて切って出たが、死者は増すばかり、その上城兵の過半数は赤痢にかかり、武器を取る力もなかった。最早これまで…と城主・伊定は兜を脱いで、従臣に持たせ、城を出て降伏した。自らの命と引き換えに、城兵の助命を願ったのである。これには、黒田官兵衛の助力があったもので、
城主自身も許されて、秀吉軍に加わり、官兵衛の臣下となった。」
『絵本太平記』を含め、殆どの軍記ものは、この説を取っているが、最近では、最後まで戦って自刃した、という説もあり、はっきりしない。一方、『志方盛衰実記』という古い文献では、次にように記録されているが、これには、「評に云」と注釈が加えられている。
「櫛橋の重臣である、香田、平田、竹中、桜井が軍議を行い、「神吉城が落ち、大軍に囲まれた今、三木からの応援も期待できず、今日限りの戦いを挑もう。寄せ手を出来るだけ引き寄せて、全員が討って出て敵の大将と刺し違えれば、名は後世に残る。」と衆議一致した。しかし、伊則はこれに賛同せず、夜のうちに城を出て落ち延びた。城主が逃げれば仕方なく、重臣たちも城を後にしたという。」ただ、この文献は『播州太平記』以外には名前すら残っておらず、この説が正しいか否かは定かでない。
他方、『播磨鑑』では、次のように記録されている。
「志方城には、一千余騎が立て籠もった。織田勢は七月中旬ころから城を取り囲み、攻めかかった。閧の声をあげ、入れ替わり立ち替わり押し寄せる。城門を出て全員討って出たが、多勢に無勢、数多くの勇者を失い、八月十日に兜をん脱いで降伏したとある。抵抗は二十日間におよんだ」としている。
落城時の城主は誰であったのか
これについても諸説あり、『赤松体系記』『播磨鑑』などは、櫛橋伊則、『細川家譜』は、治家。『観音寺諸記録』は伊定…等
実際の所は明確になっていない。
時賽・観音寺山号額
本堂には、袈裟綴りの山号額が掲げられている。『志方郷第41号』によると、「天正六年旧志方城落城之時重要物品を井戸に投入す。その後百余年を経て城跡に当山(観音寺)建立の際、井戸浚をして此の板を発見。記念として山号額を作成す。楠の楯を以てし文字板は故城主が身辺につけし貴重な遺品を用いて寶積二文字を打ち抜き…(後略)」
と記載され、貴重な寺寶であることは間違いない。
引用 文献・参考等 文献・参考等 1. 志方町誌 4. 『別所 一族の 興亡 』 2. 加古川市史 5.観音寺 5.観音寺 諸記録(一部 記録(一部 ) 3. 播磨鑑 6.神戸新聞 6.神戸新聞 (2013 2013 -5-9付け) 付