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五郎のロマンチック歴史街道

御着城の戦い(姫路市)

2020.06.06 08:29

中ニモ原小五郎ハ名誉ノ射手ニテ羽柴の瓢箪馬印ニ

當ル矢ヲ秀吉取ラセ見給フニ原小五郎と姓名ヲ書付たる矢多数アリ寄手ノ人々其弓勢ヲ誉メニケリ…。(播磨鑑)


御国野(みくにの)町御着

春まだ浅き二月ではあったが、木漏れ日が暖かい昼下がり、妻と私は御着城址に立っていた。北側にそびえるのは斉藤山。真南には、秀吉が陣を張ったと言われる火山(樋山)を眺むことが出来る。

御国野…。古代大和の郷愁を彷彿させるその地区名は、姫路市東南部の天川流域に位置し、御着・国分寺・深志野の三つの地域で構成される。御国野町のいわれは、その各々の大字から一文字ずつを取り、合成したものである。当地域は、古代の姫路地域というより、中播磨を支配する小寺氏の居城・御着城を中心に大変栄えた地域であったと伝えられている。

(姫路市教育委員会文化財課H25-3-1発行・文化財見学シリーズによる)



御着城主小寺氏


御着城主・小寺氏は、守護赤松氏の家老の家柄で、南北朝時代からの活躍が知られる。御着と小寺氏の結びつきは、明応九年(1500)に遡る。御着城は当初、小寺氏の居城ではなく、守護赤松氏による税徴収の役所が置かれ、小寺氏は、その一奉行人であった。

その後、守護赤松氏から小寺氏が相対的に自立化するに合わせて、その居城となったのである。ここも他の城と同じく羽柴秀吉の播磨攻めにより滅んでいったが、違うところは、小寺氏の重臣だった姫路城主・小寺(黒田)官兵衛孝高が秀吉の参謀として働き、九州博多の太守まで上り詰めていく舞台になったことである。


御着城の成立とその規模


御着城の築城時期については、最近の研究によって、坂本城(姫路市・書写)が衰退したあと、赤松氏の播磨支配の拠点である守護所として、長享(1487~)から明応年間(~1501)にかけて造られたのではないかといわれる。「九条家文書」では、明応五年(1492)に御着に納所が置かれ、初代城主・小寺政隆の子で、二代目城主である小寺規則職が奉行をしていた記録があり、この頃に城らしきものがつくられ、政隆(1525~1582)の時代に城郭として完成したとみるのが妥当かも知れない。政隆が築いた城は、天川に囲まれた小さな丘陵・茶臼山を利用した平城で、西国街道添いという要衝の地に造られており、天川城とも茶臼山城とも呼ばれた。

「御着茶臼山城地絵図」によると、中央に高さ三~四間の本丸と二の丸があり、中核部分は東西五十二間(約95m)南北五十四間(約100m)だった。西と南は天川を外堀に、その内側に内堀を設けており、東と北は四重の堀をめぐらすという堅い防備を誇っていたようである。北東の斉藤山には見張り台、西に馬場、南に的場があった。城の外郭には家中屋敷、町家が記載されているところから、総構えの城郭だったことが分かる。天正六年(1578)から始まった羽柴秀吉の播磨攻めで、家老の小寺(黒田)官兵衛孝高は秀吉方についたが、三代目城主・小寺政職は毛利氏に属し、秀吉に反旗を翻した為、二日間の戦いによって、開城を余儀なくされることになるのである。


御着城の戦い(播磨鑑より引用)


『(中略)寄手は勇み進めども、この城は北より西南に天川という川あり。四方に堀、二重、三重にして要害堅く見えければ、容易く攻略すべき様なし。御着方の精鋭、城中より見澄まして鉄砲を射かけ打ちければ寄手の大勢手負う。城方の諸侍、『川を渡して戦うべし。今こそ勝利を得る所なり』と申しければ、城兵、尤もその通りであるとして、一同に川を打ち渡り、火花を散らして相戦う。寄手の軍は、戦いは今日のみならずと、秀吉、馬に鞭あて敗走し、後方の火山(樋山)・辰巳の谷へ引き退く。


中にも、原小五郎は名誉の射手にて、羽柴の瓢箪馬印に當る矢を、秀吉取らせ見給うに、原小五郎と姓名を書付たる矢数多数なり。寄手の人々、その弓勢を誉めにけり。然れども、秀吉の大勢この城を落とさずにおくものか、と前日の恥を晴らすため、新手を入替え入替え大筒、石火矢を打ち掛け攻め立てるほどに、寄手は多数、城兵は無勢にて今は防ぎ難しと見えければ、城の大将小寺政職は城を開きて飾西郡英賀城退きしによりて、大将を始め諸氏皆々退散し、天正六年七月、終に落城したりけり。』

(注)落城時期は、ここでは神吉城・志方城とともに落ちたとされているが、『姫路城史』では、多くの文献に七年十二月だろうとしている。また、小寺政職が戦わずして英賀城に退いたともいわれているが、地元の殆どの資料が合戦の様子を記述しており、政職ほどの武将が敵に後ろを見せるような真似はしたとは考えられないことから、戦ったが力及ばず退いたとするのが妥当であろう。

(ひょうごの城・新版)



向かって左が重隆公(官兵衛の祖父)右が職隆公夫人明石氏(官兵衛の母)の五輪塔である。福岡藩主の命で、享和二年(1802)十一月に廟所が完成した。更に昭和四十三年五月に黒田家において完全修復された。

~御着城跡公園内・姫路市指定史跡~