次の世は雑木山にて芽吹きたし
次の世は雑木山にて芽吹きたし 池田澄子
蓬萊やプラスチックは腐らない 同
この道に人影を見ぬ淑気かな 同
雑木林は共生林
https://www.nies.go.jp/kanko/news/27/27-2/27-2-04.html 【自然共生という思想】
大場 真
この「自然と人間との共生」(自然共生)というフレーズは,1980年代から使われるようになり,1991年の「国際花と緑の博覧会」では基本理念として,また1994年の「第一次環境基本計画」では長期目標,2007年の「21世紀環境立国戦略」では社会的取り組みの一つとして定められています。また2008年北海道洞爺湖サミットのロゴマークも「自然環境と人類の共生」をモチーフとしたものが選ばれました。草木や山河にも神や仏が宿るという考え方に比較的なじみのある日本人にとって,また「天人合一」などに代表される東洋思想を共有しているアジアの人達にとって,共感しやすい理想と言えます。しかしその指す具体的内容となると,少し考える必要がありそうです。
生物の世界では,アブラムシ(アリマキ)は護衛するアリに甘露を出し,シロアリやウシは自分では消化できない食物を分解する微生物をその消化管に住まわせたりする現象が見られます。異なった生物種間において利益を与えあう関係を「相利共生」と生物学では呼びます。しかし,生物における利益といったものの推定のしにくさやその関係性の変化のしやすさのため,より広くとらえて,個体や種の存続に関して異なる生物がお互いに関わり合う現象のことを「共生」と呼ぶ場合もあります1)。さらにより広い視点からみると,生物と生物,生物と環境の関係は網の目のように広がっていることはよく知られています。食う-食われるなどを含む,この「生態系」(エコシステム)と呼ばれる生きるための依存関係は,それ自体がある種の自律性を持ち,「内部や外部が多少変化しても大きく変動しない一方で,限度を超えた変化が加わると断絶してしまう」という性質も持ちます。
生態系を大規模に改変できる能力を持ってしまった人間は,自身とその社会だけではなく,生態系にも配慮して行動を起こす必要があると考えられます。農地や都市などへの土地利用の転換,水や空気・化石燃料などの天然の資源の消費,汚染物質の放出,また森林や魚群などの生物の資源の利用などが,生態系の復元力を越えた大きさであったり,あるいはそれを維持するための人為的管理が不適切であったりすれば,生態系の劣化や破壊を引き起こすだけでなく,人間自身の存続基盤すら危うくする可能性があります。人間活動の生態系への影響を科学的に定量化する試みとして,生態系からどの程度,物質やサービスを享受しているかという推定(「生態系サービス」2),本誌21巻3号で解説)や,負荷をどれだけかけているかということの推定(例えば,「エコロジカル・フットプリント」3))などがあります。図1は森林を一つの生態系と見なして生態系サービスを列挙したものです。森林は様々な恩恵を人間に与えてくれていますが,まだ人間が気づいていないサービスもあると考えられています。また自然共生と同様によく聞くようになった「持続可能な社会(あるいは開発)」という言葉は,この生態系サービスの持続的な利用と管理という考え方を基調としています。
図1 森林からの生態系サービスの一部
図1 森林からの生態系サービスの一部
この持続可能な生態系という考え方が,自然と共生するために必要なアプローチであることは確かです。しかし,自然共生という思想には,「人間の側から生態系を捉える」だけでなく,その背後に「生態系自体を中心として捉える」という思想をも含んでいると考えられます。
「山の身になって考える」思想を説いたアメリカの思想家レオポルドは,子連れの狼を射殺した経験を語っています4)。ハンターにとって狼は邪魔であり,狼が全滅すれば山は鹿が増え「ハンター天国になる」と思ったからです。しかし狼も山という生態系の一員であり,それを人間の都合で取り除くことが何を招くかを熟慮し,生態系の自律性や健全性を尊ぶこと(生態系中心の倫理)を提唱するに至りました。この思想は理性からだけでなく,銃撃した狼の眼から「緑色の炎」が消えるのを見た瞬間,身をもって悟ったことだとも述懐しています。
価値の基準を人間を中心としたものから,生命・生態系・自然へと移す考え方の転回は,「コペルニクス的」とも言える転回ですが,いくつか疑問も示されています5)。たとえば,「どのような状態が生態系にとって健全であるか人間は認識できるのか」ということや,「生態系の健全性が人間の健全性より優先されているのではないか」などです。
多くの生態系は不完全にしかモニタリングできず,また未解明のプロセスを含んでいます。現在の断片的な科学的知識や診断だけから,生態系を健全に保つための保護や保全対策,あるいは人間の行動基準を導くことは困難です。さらに,生態系が健全であるということはどういう状態なのか,ということも議論を呼ぶ話題です。
さて,コペルニクスが地動説を唱えたのは,天動説を唱えたプトレマイオスが持たない革新的な観測結果を持っていたからではないことが指摘されています6)。科学的真理は,観測事実の単純な積み重ねから得られるものではなく,何らかの価値があると思われる概念を前提として見いだされると,クーンを始めとした多くの現代科学哲学者は主張します。地動説という転回は,新しい価値への視線の結果としてコペルニクスによって提唱され,ルネサンス以降のより進んだ天体観測によって支持され,後の近代科学者達により科学的に検証されたものでした。地動説は「地球が回る」という事実を示したに留まらず,それまで一貫性があると信じられてきたアリストテレス的万物の理論を捨て去り,中世を支配したキリスト教的世界観をも揺さぶるという結果を生み出しました。コペルニクスの転回は,新説旧説の交代というような科学史の一エピソードに留まらない,人類の思想が転換した一例です。同じように,生態系中心の価値観はさらなる生態系についての科学技術を発展させ,その中でより深い生態系の健全性が理解される可能性を持っていると考えられます。
また生態系中心という主張には「個体より全体が優先されるような,全体主義的な傾向があるのではないか」という疑問も投げかけられています。組織の目的のために個人の幸福が犠牲にされてきたこれまでの歴史をふまえると,エコというスローガンの元で個人の抑圧が始まるのではないかと危惧を抱くことは根拠のないものではないでしょう。しかし,生態系を中心とした価値は,個人を動物や自然物と等しくし人間の自由を剥奪するようなものではないはずです。近代的な価値(民主主義や人権思想)の上で,人間の健全な生活が,生態系の健全性の中に織り込まれていることを見いだすことは可能なはずです。また人間の精神は生態系とは別の次元にある創発的特性ですが,その涵養には,精神が生物・物理学的に基盤とする自然の健全性も欠かせないでしょう。したがって個人の幸福が追求される際には,生態系の健全性の追求も入らねばならず,これを欠いた価値観は自らがよって立つ土台を食いつぶすような価値観ではないのでしょうか。
自然との共生のために「生態系中心」がなぜ強調されなければならないのか,と疑問に感じる方もいらっしゃるかもしれません。生態系の利用は無料である,あるいは保全の対価を払う商品であるという人間中心的な考え方からは,私達に「当然」あるいは「もっと安く」「もっと沢山」という感情しかもたらさないのではないのでしょうか。しかし,生命や生態系を中心とした価値観であれば,生態系からの恩恵は商品ではなく自然からの贈り物と捉えることができるでしょう。中沢新一は,贈り物のもつ力について触れ,「商品と異なり,贈り物は贈った相手に物だけではなく心の中に何かを与える」と指摘しています7)。商品は貨幣との等価交換対象に過ぎませんが,贈り物は果てしない心の連鎖を惹き起こします。そして自然からの「贈り物」を認めて受け取る時,人間の中に新しい何かが芽吹くのではないでしょうか。
現在私達は自然とだけでなく,異なった文化,社会,経済的立場の人達と共に生きて行くという課題も抱えています。しかし共生という言葉をキーワードとした新しい時代の実現は,意外とそう遠くないのかもしれません。
(おおば まこと,アジア自然共生研究グループアジア水環境研究室)
https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/interview/detail/opinion_01.html
【コロナウイルスとの闘い 「戦争」ではなく「共生」を長崎大学 山本太郎教授】
戦争にもたとえられてきた、ウイルスとの闘い。猛威を振るう新型コロナウイルスは、世界中の政治や経済を混乱に陥れています。私たちは、この脅威とどう向き合えばよいのでしょうか。現場での経験を通して、“戦争”ではなく「ウイルスとは共生が必要」と語る専門家がいます。医師として、感染症が流行する世界各地の最前線で活動してきた長崎大学教授の山本太郎さんです。
(ニュースウオッチ9 和久田麻由子 西山泰史)
これほどまでの「世界的大流行」をどう見るか
和久田
すごく率直に伺いたいんですが、私自身はこんな事態になるって思ってもみなかったんですね。今回、新型コロナウイルスが、世界でここまで大流行しているこの状況をどうご覧になっていますか。
山本教授
ある種の感染症のパンデミックが起こる可能性というのは、ずっと言われていて、危機感はありました。2009年には、メキシコから始まった新型のインフルエンザもありました。けれども、実際に起きてみると、その危機感を超えたさまざまな問題が出てきているというのが今の状況です。普通は起きないことに関して、ずっと強い緊張感を持ち続けられるわけでもないんですよね。もしかすると、私を含めた専門家が、一般の人が危機感を持てるように発信するべきだったのかもしれないという反省もあります。
和久田
日本でも日に日に感染者が増えていますが、日本での感染拡大のフェーズは、いまどの辺りにあると見ていますか?
山本教授
すでに根絶(ができる)というフェーズは超えていると思います。いまは、流行の速度を遅らせることが最も重要なフェーズに入っています。流行の速度を遅らせるということは、すごく大切な意味があって、1つは、社会インフラの破綻を防ぐということです。2つめは、流行のピークを遅らせることによって、ワクチンの開発や治療薬の開発を進められるということです。いま我々ができることは、自分が感染しないこと。そして、人に感染させないこと。人っておそらく、人とのコミュニケーションが最も楽しいことなんですけど、最も楽しくて、人らしい部分を犠牲にしてでも、流行の速度を遅くしようと決めて、実践しているわけです。1つの万能薬のような解決策はなくて、小さなことの積み重ねでしか、もうパンデミックとは向き合えないと思います。
人類と「感染症」との歴史は
山本さんは、医師として25年にわたって、アフリカやアジア、中南米など、50を超える国々でエイズの対策や研究に取り組んできました。その一方で、感染症と人類の関わりについても研究してきた第一人者です。その山本さんに聞いてみたかったのが…。
和久田
歴史上、人類って数々の感染症に直面してきて、そのたびに薬やワクチンを開発してきましたよね。ウイルスには人類はもう打ち勝ったと思ってしまっていたんですけれども、そうではなかったということですか。
山本教授
1970年代の後半ぐらいに、人類が感染症を征服したという考え方が実はあったのだけれども、現状を見るとそうではなかった。そもそも、人間が自然の一部である以上、こうしたウイルス感染というのは必ず起こってくるものです。人間に感染するコロナウイルスは4つあるんですけれども、そのコロナウイルスは風邪の症状を起こすだけで重篤な症状を起こすことはほとんどありません。かつて、そうしたコロナウイルスはパンデミックを起こし、人社会が免疫を獲得することによって、いまのような状況になってきていると思うんですね。ただし、そうは言いつつも、過去の20年間を見てみると、SARS、MERS、そして今回の新型コロナウイルスのように3回も出てきているんですね。これは、少し度を超えた頻度です。
和久田
そもそも、ウイルスというのは自然界からもたらされるものですよね。
山本教授
そうです。生態系への人間の無秩序な進出であるとか、地球温暖化による熱帯雨林の縮小、それによる野生動物の生息域の縮小によって、人と野生動物の距離が縮まってきた。それによって、野生動物が本来持っていたウイルスが、人に感染するようになってきた。それが、ウイルスが人間の社会に出て来た原因だろうと思います。生態系と人間のつきあい方というか、開発という名の下に生態系に人が足を踏み入れ、野生動物が本来住むべき生態系を温暖化なんかによって狭めている。そうしたことが合わさって、人と野生動物の距離がすごく近くなって、ウイルスを野生動物から人に持ち込む大きな原因になっているということなんだと思います。そしてもう1つ、そうしたウイルスが出てきたところに、グローバル化があって、人口の増加、都市の出現で、人の移動が加わって、世界同時パンデミックに至ったと考えています。
和久田
開発に伴って、新型コロナウイルス以外にも、新たなウイルスというのは見つかっているものなのでしょうか。
山本教授
過去100年で見ると、エボラウイルスもそうですね。エイズも野生動物から人に入ってきて、パンデミックを引き起こしたウイルスとして知られています。
感染症が変えてきた社会
私たちの人間の営みが、未知のウイルスを人間界にもたらしてきたと指摘する山本さん。パンデミックのあと、社会が一変した過去の例についても語ってくれました。
山本教授
中世のペストの流行は、中世ヨーロッパ社会を大きく変えていきました。ペストはヨーロッパの人口を3分の1ぐらいに減少させたんですね。そして、流行を抑えることができなかった教会の権威が失墜して、一方で、国民国家というのが出てくるきっかけになった。ヨーロッパの中世は終えんを迎えて、近代が始まるということが起こったのだと思います。今回の新型コロナも、コロナ終息後の世界をおそらく変えるというか、いまと違う世界が恐らく現れてくるのではないかと個人的には思っています。
和久田
開発を進めてきた人類は、方針転換を迫られているということにもなるのでしょうか。
山本教授
どう変わっていくかは別として、個人的には、発展を至上とした価値観というのは、変わる時期に来ていたのかなという気がしています。必ずしも発展ということではなくて、環境の中において、我々が変わりながら常にそこに適応するというか、その中で生きていく、生き方を模索する。経済的な拡大とは違う価値観であるべきなんだろうという気がしています。持続可能な開発がおそらく必要なんだろうと思うんですね。人間が地球の中で、こんなに多様な環境の中に進出できたのも、我々が感染症に対する免疫を失わずに獲得してきた結果である。そういう意味では、今回のコロナウイルスについても人的被害を最小にしつつ、集団としての免疫を獲得していくっていうのが、目指すべき方向だと思っています。
ウイルスとの「共生」
山本さんは、著書などでたびたび「ウイルスとの共生が必要」としてきました。その真意を聞きました。
和久田
世界や日本で、日々苦しんでいる人がいる状況を見ると、なかなか「よし、共生しよう」という気持ちにはなれないんですけれども、山本さんの真意を、私たちはどう理解したらいいでしょうか。
山本教授
私たちが自然の中の一員である限り、感染症は必ず存在する。まず、第1の論点は、感染症は撲滅できない。撲滅できないところで感染症とつきあうにはどうすればよいか、それは全面的な戦争をすることではなくて、ウイルスの感染に対して、人的被害を最小化しつつ、ウイルスと共生していくことなんだろうと考えています。ウイルスが打ち勝つ相手かどうか、たぶんそこが一番重要な点かも知れないと思います。我々はウイルスの被害を最小化したいんですけども、ウイルスを我々の社会の中に取り込んで社会全体が免疫を持つことによって、社会自体が強固になっていく。そんな視点が必要なのかなと思います。目指すべきはウイルスに打ち勝つことではなくて、被害を最小化しつつ、ウイルスと早く共生関係に入っていくということではないかなと思います。
和久田
撲滅ではだめなんですね。
山本教授
回避しなくてはならないことというのは人的被害をもたらすこと、あるいは、社会機能の破綻をもたらすことであって、感染症そのものが存在することではない。社会機能を破綻させなければ、我々はうまくつきあっていける可能性があるわけです。そのために、いまある知識あるいは技術を使っていくことが大切だろうと思っています。
希望をどこに見い出すか
和久田
最後に、いま感染症の流行で混とんとしていますけども、私たちの社会に明るい未来とか希望をこれから見い出すとしたら、どういうところに見い出しますか。
山本教授
すごく難しい質問で、答えがないのかもしれないんですけれども、たぶん、1人1人が希望を持っているっていうことが、将来に対する希望になる。1人1人が明るい未来を思い描くことによってしかたぶんできなくて、未来が暗いものであると考えている中では、明るい未来は絶対来ないと思うんですよね。未来への希望ってすごく大切で、昔、アフリカでエイズ対策をやってたんですけれども、なかなかうまくいかない。それは(患者が)10年後の自分が想像できないから。10年後には、エイズじゃなくても飢餓とか暴力とか、戦争とかで亡くなっているとすれば、「10年後にあなたが生きていくために、今エイズの予防しましょう」という言葉が、むなしくしか響かなかったんですね。社会がどうあるか、どう変わっていくか、どういう希望のもとにあるべきかっていうのは、1人1人の心の中にあるような気が個人的にはします。そういう意味では、今、大変な状況なんだけれども、その次の社会をどういうふうな社会にしていけばいいかっていうことを考えることによって、それが未来への希望につながると思います。