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この道に人影を見ぬ淑気かな

2020.06.06 09:08

次の世は雑木山にて芽吹きたし  池田澄子

蓬萊やプラスチックは腐らない  同

この道に人影を見ぬ淑気かな   同


https://www.iwanamishinsho80.com/post/yamamoto3 

【山本太郎:いま、岩波三部作を読む意味】  より

新型コロナウイルスの感染拡大にともない、「ウイルスとの共生」を論じた山本太郎さんの岩波新書『感染症と文明』に注目が集まりベストセラーとなりました。そして、6月3日には長らく電子版のみで流通していた『新型インフルエンザ 世界がふるえる日』が復刊します。そこで復刊を記念して、山本太郎さんに3冊の自著解題をご執筆いただきました。(編集部)

『新型インフルエンザ 世界がふるえる日』(2006年9月20日刊)

『感染症と文明――共生への道』(2011年6月21日刊)

『抗生物質と人間――マイクロバイオームの危機』(2017年9月20日刊)

岩波書店から最初の新書を上梓して14年ほど、構想から数えれば、16-7年が経過した。その間にわたしも、40歳代前半から50歳代後半へと歳を重ねた。その事実に素直に驚く。

いろいろなことがあった。2010年1月には、ハイチの首都ポルトープランスを地震が襲い、30万人以上が亡くなった。地震の2日後に成田を飛び立ちハイチへと向かった。2003年から04年にかけて、20人に満たないハイチ在住日本人の一人として、一人の研究者として、彼の地に暮らしたことがあった。多くの人にお世話になった。かつて暮らしていたアパートが全壊していた、その姿を見た時、その時の思い出が一瞬によみがえった。青い空には雲ひとつなかった。

2011年3月11日には、東日本で大きな地震が起きた。『感染症と文明』の打ち合わせのために、岩波書店がある神保町にいた。足元が大きく二度揺れたかと思うと、目の前を本が落ちてきた。午後2時46分のことだった。首都圏では、列車の運行がすべて停止し、その夜、東京は帰宅する人の群れで溢れた。震源は、牡鹿半島の東南東約130キロメートル、深さ約24キロメートル。太平洋プレートと北米プレートの境界域で、マグニチユード9.0の海溝型地震だった。福島、宮城、岩手、東北三県の太平洋沿岸部は、地震によって発生した津波で壊滅的な被害を受けた。

震災の翌日から被災地に入り、緊急支援活動を開始した。

そんなある日、よく晴れた午後の海岸へ出てみた。破壊された堤防の傷跡は痛々しく、鉄橋は跡形もなく崩れ落ちている。折れ曲がった鉄路は、太陽の下で赤錆びた色を晒していた。空はあくまで青く、海はあくまで蒼かった。穏やかな水面には、渡り鳥が羽を休め、風が海上を吹き渡る。波音に驚いた渡り鳥が一斉に飛び立つ。水面が波打つ。

どこまでも平穏で美しい景色が広がっていた。これが、地震や津波を引き起こした同じ惑星の営みであることに眩暈を覚えたことを覚えている。

それぞれに、それぞれの本を書いた時間を思い出す。どの本も、構想から資料の収集、書き下ろし、校正と少なくとも2年以上の月日が必要だった。

その間にも、何人かの大切な人が逝った。ガーナ、ケニアとアフリ力で働き、「アフリ力」が好きだった若い友もいれば、酒をこよなく愛した年長の友もいた。幼い頃から休みの度に遊びに行っていた祖母や、叔父、叔母も、だ。

そして、今、わたしたちが暮らす世界を新型コロナウイルスが襲う。

十数余年という時間が、短い時間でなかったことを自覚する。そしてそんな折だからこそ、その間に著した3冊の感染症に関する新書をもう一度概観してみたいと思った。

『新型インフルエンザ 世界がふるえる日』を書いたときは、外務省国際協力局に課長補佐として勤務していた。新型インフルエンザ発生の危機が外交上の大きな議題となるなか、それに対する国際協力の現状を、持てる国と持たざる国の間の確執を含めて、インフルエンザを巡る世界を描きつつも、エピローグでは、ウイルスの封じ込めに失敗した国際社会と、それに驚愕する人々を仮想現実的に描いた。最終的に世界は、集団免疫を獲得しパンデミックは終息するが、その被害は大きかった。「世界がふるえる日」との副題は、まさにパンデミックに世界が震撼した状況を表す。

少し長くなるが、引用してみる。

インフルエンザは燎原の火のように各地に広がっていった。

2月にアジアの片隅で始まった流行は、ほぼ2カ月でアジア全域に広がり、5月にはオーストラリア、6月には中東、ヨーロッパ、7月には南北アメリカ大陸へと広がっていった。8月に入るとアフリカからも患者発生の報告がもたらされた。

世界各地から被害の状況が報告された。多くの国で病院機能は破綻し、警察・消防などの公共サービスは麻痺寸前まで追い込まれた。学校は閉鎖され、集会が禁止された。人々は感染の可能性を恐れ、地下鉄や鉄道、航空機の使用を避けた。街はその機能を停止した。…中略…

世界は沈黙した。

そして2年の月日が過ぎた。

猛威を振るった新型インフルエンザの流行もピークを迎え、終息へ向かっていることは明らかだった。冬が到来しても、インフルエンザによる死亡者数の増加はみられなかった。…中略…

WHOは非公式に、新型インフルエンザの世界的流行に対する終息宣言を行う準備を始めた。

しかし世界の状況はといえば−−−。

世界中で1億2200万人が死亡したと推計された。

その1億2200万人のうち、1億2000万人が貧しい国に暮らす人々であった。なかでもサハラ以南アフリカの被害は大きかった。…中略…

また春がめぐって来た。

新型インフルエンザ発生から三度目の春だ。

渡り鳥が南から北へ、誕生の地を目指して旅を始めた。

チベットにある青海湖でも、シベリアへ向かう渡り鳥が羽を休める姿が見える。

人類が生まれる前からの変わらぬ地球の姿だった。

しかし世界は、新型インフルエンザが出現する前とは明らかに違ったものになっていた。

国連がまとめた報告書には、多くの反省が綴られていた。

いま読み返してみても、示唆的であると思う。現在、新型コロナウイルス感染症の流行中心地は、中国からヨーロッパ、アメリカへと移っていった後、南米のブラジルやペルー、あるいはアフリカへと移りつつある。そうした国々では、人々が社会的距離を維持して生活をすることが難しく、また、都市封鎖は、社会経済的弱者をさらに困窮させる可能性が高い。一度、爆発的な流行が起これば、被害の大きさは先進国の比でない可能性は今でも残る。本のなかでは、「国連がまとめた報告書には、多くの反省が綴られていた」という言葉で、物語は終わったが、その当時からこうした格差は、世界秩序を変える可能性があると考えていた。その思いを込めて、その一文を添えた。その思いは今も、変わらない。こんな時だからこそ、そうした国々にも思いを馳せて欲しいと思う。

『新型インフルエンザ』のあとがきには、このエピローグについて、「この小さな物語を通して、皆さん一人ひとりが何かを感じ、大切なことは何なのかについて考えるきっかけになればと願っている。私たちは大きな格差の存在する世界に生きている。それでも一人ひとりの命の重さに変わりはない。その厳然たる事実を忘れなあいようにとの自戒の意味も込めたつもりでもある」と書いた。

『新型インフルエンザ』ではまた、インフルエンザ流行の歴史を、スペイン風邪に焦点を当てて、アメリカやヨーロッパ、アフリ力、インド、日本と振り返った。

アメリカやヨーロッパ、日本に比較して、アフリカやインドの資料は少なかった。被害は、多かったにもかかわらず、である。遺された資料の多くは、アメリカやヨーロッパのものであった。そうした制約から、視点の多くが、アメリカやヨーロッパからのものとなっているのではないかという問題意識は常に私のなかにあった。アフリカ大陸やインド、あるいは欧米以外の世界といったほうがよいかもしれないが、そうした世界におけるアメリカやヨーロッパの歴史的記述は、ヨーロッパのアフリカ進出をアフリカの歴史の「出発点」として記述し、それ以降のさまざまなことを「発見」と記述してきた。「新」大陸にたいしても、それは変わりない。しかしそれが傲慢な歴史の見方であり、少なくともアメリカやヨーロッパ中心主義的産物以外の何物でもないことに自覚的でなくてはならないと思ったことを覚えている。別の言葉で言えば、歴史の視点はどこに置かれ何を見ているか、そのことに、注意深くあらねばならないということかもしれない。

個人的なことを記せば、この頃から山登りを始めた。無性に自然のなかに一人の自分を置いてみたいと思ったことがきっかけだった。穂高や槍、八ヶ岳、北海道の山を歩いた。上ホロカメットク山から十勝岳を歩いたのは、その年の晩夏だった。上ホロカメットク山頂から南西には富良野岳が見え、さらに十勝岳山頂からは北北東に、古からこの地に暮らしていた人々が「カムイミンタラ=神々の遊ぶ庭」と呼んだ丘陵が、見渡す限りに広がっていた。その先にあるのは、オプタテシケ山、そしてトムラウシだ。空は高く澄み、前日までの雨が噓のように晴れ渡った。見下ろせば富良野平野の緑豊かな、実りの風景があった。そしてなにより、歩けば疲れ、休めば回復し、汗が引くと、冷たい風に身震いする身体を感じる。積極的忍耐を要求する山は、わたしという存在が、大きな自然の中でいたって小さなものだということを教えてくれた。

『新型インフルエンザ』を書くという作業は、歴史や社会から感染症を考えるという新しい視点を私に与えてくれた。その延長線上に、『感染症と文明――共生への道』上梓があった。その間に外務省で、任期である3年間の勤務を終え、大学へと戻った。資料収集から始め、思考実験や論考を行う環境は整っていた。

『感染症と文明』での問題意識は、感染症を歴史の中で俯瞰しながら、感染症を引き起こす微生物と宿主であるヒトの関係を、生態学的視点、進化学的視点から展望しようというものであった。その時、灯台のように行先を照らしてくれたのが、E. H. カーの言葉だった。カーは、カーは、イギリスの外交官で、のちにケンブリッジ大学で歴史学を講じた。

歴史とは、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。

『感染症と文明』を書いていく過程で幾つかのことが明らかになっていった。

第一に、文明がなければ、私たちがいま直面する多くの感染症、特に乳幼児期に多く見られる急性感染症はヒト社会には定着しなかっただろうということ――急性感染症がヒト社会に定着するには数十万人規模の人口が必要となる――。第二に、感染症は、文明を崩壊させるほどの大きな影響を与えることがある一方で、他の文明からその文明を守る役割をはたすこともあったこと。文明は、まさに感染症の「ゆりかご」であった。感染症の流行には社会的要因や文明のあり方が、これまで考えられてきた以上に重要な役割を果たしていたのである。

その上で、人類は、感染症との闘いに勝利するかと自問した。そして最後に、病原体の適応とは何かと問いかけ、感染症(あるいは感染症を引き起こす病原体)との共生が求められているのではないかと書いた。鍵となったのは、ヒトは、最終的に感染症に勝利することはできないという認識だった。それは執筆の過程で強固なものになっていった。だとすればわたしたちにできることは何か。感染症との最終的なたたかいではなく「共生」だろうと。最終的に感染症に勝利することはできない以上、それは倫理的帰結が導く唯一の答だと考えたからである。だからこそ、そこでいう共生は、完全な共生ではなく、むしろ、私たちにとって「心地よいとはいえない妥協の産物」としての共生かもしれない。だとしてもそれが目指す道であると。その気持ちは今でも変わらない。変わらないだけでなく、むしろ強くさえなってきている。それは、ウイルスや細菌を含む多くの微生物が、実は、私たち人類の生存、あるいは地球という惑星の維持に必要不可欠な存在だということが、近年、次々と明らかになってきたからである。その思いが『抗生物質と人間――マイクロバイオームの危機』を書く動機ともなった。

『抗生物質と人間』は、そうした問題意識の上に書かれたものとなった。『抗生物質と人間』では、共生の考え方は、一層進化したものとなった。というより、微生物との共生は、すでにわたしたちのなかに用意されていた。それに気づいていなかったのは、私たち自身でしかなかったのだと。その上で、ある種の微生物の不在は大きな不利益(健康被害)をヒトにもたらす可能性があることを書いていった。少し逆説的かもしれないが、そうした微生物のなかには病原体さえも含まれる。

私たちは現在でさえ、個々の生物の相互関係の連環を完全に理解してはいない。私たちが「有害」と考える生物(微生物を含む)であっても、相互関係の連環のなかで、ヒトの利益として機能している例は無数にあるに違いない。そうした現象を生物の「両義性(アンフィバイオーシス)」と呼ぶ。私たちがそうした事実を知らないだけなのである。

極端な言い方をすれば、私たちヒトは、微生物との複雑な混合物以外のなにものでもないのかもしれない。そうした「私」が。同じように複雑なマクロ(自然)の生態系に守られて生きている(生かされている)。それが、人の存在なのであろう。とすれば、私たちに残されている道は一つしかない。共生である。ヒト以外が消えた世界で、ヒトは決し生きていけないことは確かなのだから。

 こうした思いに、いまも変わりはない。

最後に、いま考えていることに少し触れて終わりにしたい。

〈コロナが終わったとしても、忘れたくないことは何だろう〉

そんなことを時折考える。

2019年12月に中国武漢から始まった流行は、瞬く間に世界へ広がった。もはや、コロナ以前の生活を想像することに困難を覚える。わたしたちの生活は、わずか数カ月足らずのうちに激変した。人々はマスクを着け、不要不急の外出を控え、周囲の人との社会的距離をとる。

昭和13年と14年生まれで、ともに82歳になる両親とは、緊急事態宣言が全国に出される前の、3月下旬に久方ぶりに広島の実家に帰省して以来、電話で話をしていても実体としての二人には会っていない。その年老いた手に触れていない。単身赴任のため、東京にいる家族ともだ。そうした自粛は2カ月を超える。頭では理解できていても、社会的距離は、長年わたしたち人間が紡いできた、他者との関係や身体的共鳴、共感といったものを一つずつ奪っていく、そんな恐怖を覚える。

京都大学総長で人類学者の山極壽一氏によれば、わたしたち人間は、言葉を持つ以前から、集団で音楽を演奏し、それを聴き、食事をともにすることによって、生きるために必要な身体的共鳴や共感を共有してきたという。それを今、制限しなくてはならない。感染すれば、家族も隔離され、高齢の両親の症状が気になるとすれば、それも仕方ない。だけど、そうした生活のなかで、やはり忘れてはいけないものがある気がする。それは、この流行が収束した後に、再び制約が解消された時、わたしたち一人ひとりが、他者に共鳴し、共感する存在でありたいということである。少なくともわたしはそうありたいと思うし、その喜びを抱きしめたい。

犬養道子氏は著書『人間の大地』の最後に『ローマ人たちへの手紙』から引用する。

けだし、万物は陣痛の苦の中でもだえつつ人の子ら(人間)の和解を待ち望む……

***

山本太郎(やまもと たろう)

1964年生まれ。1990年長崎大学医学部卒業。京都大学医学研究科助教授、外務省国際協力局勤務などを経て、長崎大学熱帯医学研究所教授、医師。専攻は国際保健学、熱帯感染症学、感染症対策。『感染症と文明』は4.5万部を突破したベストセラーに。