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OS1ゼリー

GAY3『リバ』によせて

2019.01.03 15:00

(2019年1月、二丁目の魁カミングアウトさんの楽曲『リバ』についての文章の再掲です。)

記 2019年1月4日

二丁目の魁カミングアウトさん 3rd mini album「Good As Yesterday ❸」3曲めによせて!


M3. リバ


初披露は2018/8/31 THE END OF HOT GAY SUMMERにて。(曲に関してのお話自体は2018/7/7におこなわれた大阪でのオールナイトトークイベントで出てきていたかな?)

 



はじめて聴いたときには迷いなく「希望の歌だ」と思いました。

歌詞もろくに聴きとることができなかったけど、ぺいさんの歌う「希望」の二文字がいちばん耳に残ったから。でも、聴いていくうちにこれはおそろしいものなのではないか、と感じ、ミキさんがアップしてくれた歌詞を見たときおそろしさが明確なかたちになってしまったような感覚でした。それはいまでも。

 

「リバーシブルのリバ」とミキさんが説明してくださったように、人間の二面性をうたう曲で、テーマ自体はめずらしいものではないと思います(たとえばBUG IS LIFEもそうなので)。なのになぜこんなにおそろしく思えるのかな?と考えると、わたしは人間が歌う人間の歌だから、クリエイターが歌うクリエイターの歌だから、そしてアイドルが歌うアイドルの歌だから、と感じます。

 

“本当は泥まみれの手で書き上げたあの絵が

どこかの誰かにとっては希望の光になるように

そんなつもりじゃなかった事がこの世にはあり

わたしだってそんなつもりで生まれてきたわけじゃない”


「そんなつもりで生まれてきたわけじゃない」と好きなアイドルに歌われること以上にこわいことがあるか、とすら思います。

わたしみたいな人間はとくに、アイドルを灯台のあかりのように思っているから。アイドルがステージに立つ光景を神さまにしてそれに救われていて、でもそのことをわたしはずっと罪悪感を感じながら生きていて、そのあさましい感情全部をひらかれて晒されるように感じられる箇所です。


体じゅうをなでまわされ、神さまがまつりあげられるように、磔のようにぺいさんがもちあげられるこのシーンは、「消費」の象徴のように思えます。アイドルのことを勝手に神さまに再構築して、その人の人生をあさりつくす、崇拝ぐせのあるわたしたちと、食べつくされるアイドルの象徴のような光景。その両者をアイドルたち自身が演じているのがわたしはむしょうに苦しくて、でもあの光景に祈らずにはいられません。


それともうひとつは、頭のなかに人身御供、という文字がうかびます(なんとなく、の感覚なのですが、わたしはここ生贄というよりは人身御供という表現のほうがしっくりくる)。


わたし二丁目の魁カミングアウトさんを「ゲイアイドル」として意識したことがあまりない、というか言われたら思い出すくらいで、ただただ好きなアイドルで好きなかわいい人たちだなあ、という認識なのですが、この箇所のふりを見ると、男性の体のうつわをもつ人ならではのふりつけの妙だなあ、と感じます。となでまわす(なでまわされる)艶めかしさは女性的な性を、ぺいさんをもちあげる三人には男性としての力づよさを感じて(というよりも、もちあげて運ぶ、というのが女の子たちの筋力だとすこしむずかしいのかなと思います)、ゲイアイドルとして生きる四人にしかつくれない光景だと思っています。



“これは特技じゃありません ただ好きなことしてるだけです

得意と自信も持てないし あくまで趣味にしといてください

だって得意げに好きな事やった瞬間 世の中が

評論家みたいな顔して評価してくるでしょ?


命すり減らし 作ったものさえ 簡単な一言で

片付けられたり するもんなんです 見たくない聞こえない”


この二丁目の魁カミングアウトの「現場」は、いわゆる地下アイドルの現場にカテゴリされると思うのですが、そのなかではめずらしいというか、すこし特殊というか、なにかをクリエイトする側、「好き」をかたちにする人が多いように思います(完全に主観の印象ですが)。


だからでしょうか、リバに、特にこの箇所がおそろしいと感じる人、うごけなくなってしまったと話す人が多かったように感じます。コレオグラファーとして、作詞家として、プロデューサーとして生きるミキさんがいるグループだからこそ、なによりアイドルとしてステージをつくりあげる四人が歌うからこそ、身にしみるほど痛く痛く響いたのかなとわたしは思います。


わたしもつくることや伝えることをあきらめたのにあきらめきれなかった人生だったから、あー、となってしまった。でもこの人たちがこれを歌ってくれること、わたしにとって救いのようなことです。


救いでありながら、生がわきの自我をえぐりだされるような、殺されて生き返るような、わたしにとってのリバは死と再生のリバースのリバでもあります。

 


“わたし 思ってる事全部 言葉にできないけど

そんなわたし達のため表情や涙がある

わたし これからも上手くは伝えられないけれど

きっと少しずつでも大切な事を伝えていく”
“人に伝えづらい事も 受け取りやすい言葉

広い広いこの世界のどこかにあるんだろう”


ここまでさんざんこわいこわいとは言いつつも、わたしがいちばんこわいなと思うのは最後のこの箇所です。


自分でもこのこわさをうまく説明できないのですが、思ってること全部伝えきれないわたしたちのために「表情や涙がある」のに、「伝えづらいことも受けとりやすい言葉がどこかにはある」のなら、じゃあその表情や涙は、という気持ちと、おなじ人がつくった、おなじ人が歌う歌詞なのに、がらりと人が入れ替わってしまったように印象に感じられるのがおそろしい、と思うのかな。わたしもほんとうにうまく説明できないこわさなんです。


歌詞が提示されていない状態で聴いていたとき、“人に伝えづらいことも 受け取りやすい言葉 広い広いこの世界のどこかにはあるんだろう”が最後まで聴き取ることができませんでした。“きっと少しずつでも大切な事を伝えていく”で締められるわたしのリバは圧倒的な希望の歌で、でも最後の箇所がわかった瞬間、印象が一気にひっくりかえされました。


わかってからも何度も読み返してはウンウン考えて、やっぱり救いの〆かなと思ったけど、考えていたようなストレートにパッと光さしこむような救いではなかったという印象です。いまでもパフォーマンスを見るたび印象が変わるほんとうにふしぎな曲。表情や涙がみえないところに行ってしまっても言葉で伝えてくれる救いとも思います。


“涙がある”の箇所で前を指さすミキさんを何度か目にしたことがあるのですが、その箇所で観客を指さすミキさんの意志に、いつもどきりとしてしまいます。


“人なんてそんなもんです 表裏 あるのが普通

どちらもそう わたしなんです 表裏 わたしなんです”


曲中くりかえされるこのフレーズの「人なんてそんなもんです」も、そんなもんなんだから気にしなくていいよ、というはげましにも、どうせそんなもんだよ、という諦観にもとれる歌詞で、この曲全編に言えることですが、どちらともとれるような歌詞を渡される・判断をまかせられるおそろしさ、絶望と希望が背中合わせになっているおそろしさがこの曲にはあると思います。


白鳥さんが高音、ミキさんが低音のいちオクターブちがいで歌われる“人に伝えづらい事も 受け取りやすい言葉 広い広いこの世界のどこかにあるんだろう”は、わたしは白鳥さんが希望に、ミキさんが諦観に聴こえるときが多いのですが、がらりと逆転する瞬間もあります。それはパフォーマンスのちがいでもあると思いますが、自分のおかれた環境や心持ちでも変化する部分でもあると思っていて、まるでルビンのつぼのように感じられる箇所です。

 



絶対的なパフォーマンスの支柱として在るミキさんが感情をさらけだして歌う瞬間。きまるさんのぎらぎらした目の光、ステージをきりさいてしまうみたいな跳躍。白鳥さんのさけぶようにも聴こえるような、見えるような“平和な関係ではなくて”の歌唱や、拳をあげるときにたずさえるほほえみの気迫。この歌を歌うこのグループの、あらがう生命の力のようなものわたしはおどろかされてしまうことが多いのですが、やはりこれは一曲をとおしてぺいさんの曲だと、そう思わざるをえないくらい、この歌でステージに立つぺいさんは魔物のようなパフォーマンスだなと思います。怒りとか憎しみ妬みとか苦しみ、そういうものを全部ぶつけるような表現するようなあの光景こそ、あれこそがステージだと、ステージに生かされてステージに殺されたいわたしたちが求める光景だと、そう思います。

言葉にしても野暮でしかないのですが、わたしはステージを愛するオタクとして、ステージで生きるぺいさんをどうしてもどうしても見てほしいなあと、わたしはこれを見るために生まれてきたんだと、そう思わせてくれるようなパフォーマンスなので、いろんな人に目撃されてほしいな。


「怒り」だと思っていたこの曲が、ぺいさんの手のひら、ふるえる声ひとつで「悲しみ」にかわったFREE GAY LIVEの日のパフォーマンスをずっとわすれることができません。こういう瞬間に出会うために、わたしはステージを見続けるんだよなあ。

 


“わたし これからも上手くは伝えられないけれど

きっと少しずつでも大切な事を伝えていく”


 夏のおわりにこの曲ははじめて披露されました。身もだえるように歌う四人の姿を見ながら、わたしは夏のあいだじゅうちいさなワゴン車を借りて毎日東京中をぐるぐるまわり、自分たちを紹介する冊子を配り歩いていた四人の姿を思いました。




いまこの時代に、ひとりひとりの顔をみて、手渡しをして、よろしくお願いします、って頭をさげていた四人の気持ちを目の当たりにしてきたし、それを信じているから、この曲は痛みをともなうくらいの説得力や、引力をもちつづけるのだと思います。

 

おわり