会津美里町「明神ヶ岳」登山 2020年 初夏
会津総鎮守「伊佐須美神社」の、“最後”の山岳遷座地と言われ、「奥宮の地」として祠が祀ってある「明神ヶ岳」(1,074m)に登るため、JR只見線を利用して会津美里町に向かった。
昨年は、「伊佐須美神社」の創建の地と言われる「御神楽岳(本名御神楽岳)」、先月は「伊佐須美神社」が次に遷座されたと言われる「博士山」に登った。そして今日、三度目の遷座の地とされる「明神ヶ岳」に登り、下山後に「伊佐須美神社」に参拝して、この“遷座三峰”神話の旅を終える計画を立てた。
初代会津藩主・保科正之公が1666(寛永6)年に編纂させた「會津風土記」(参考:国立公文書館)の不足を補う形で、1809(文化6)年に会津藩によって完成させられた「新編會津風土記」には、「明神ケ岳」(明神嶽)について次のような記述がある。*下図出処:国立国会図書館デジタルコレクション「大日本地誌体系 -新編會津風土記参-」p317 (花見朔巳校訂、雄山閣版、昭和7年8月11日)
「新編會津風土記」 卷之七十一 大沼郡之一 大沼郡
明神嶽
冑組冑村の西にあり、
冑組大岩・菅沼、永井野組蛇食、瀧谷組鳥屋・九九明、高田組輕井澤の端村、市野・上平・大谷地等の諸村廻りて麓に列布し、山足四箇組に跨れり、
頂きまで大岩村より十八町餘、博士山の北に並び、府下より西南に見ゆ、
もと高田村伊佐須美神社の鎮座ありし處にて、今猶東の頂の平坦なるは其跡なりと云、旱魃には此にて雨を祈る、
此山東北は居平に臨み、藪山を隔て猪苗代の湖水遙に鏡の如く見え、眺望頗美なり、
西は瀧谷組に界ひ、北は高田組に接し、東南は冑・永井野兩組に屬す、
二岐川・蛇食川これに出づ、雜樹多し、
会津総鎮守であり、岩代国一之宮でもある「伊佐須美神社」のホームページの由緒と社格の項には以下のような記述がある。
社伝によると、凡そ二千有余年前第10代崇神天皇10年に諸国鎮撫の為に遣わされた大毘古命とその子 建沼河別命が会津にて行き逢い、天津嶽(現・新潟県境の御神楽嶽)において伊弉諾尊と伊弉冉尊の祭祀の礼典を挙げ、国家鎮護の神として奉斎した事に始まると伝えられます。
我が国最古の歴史書とされる『古事記』には「大毘古命は先の命のまにまに、高志国に罷り行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古と共に相津に往き遇ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。ここを以ちて各遣はさえし国の政を和平して覆奏しき。ここに天の下太平けく、人民富み栄えき。」とあり、“会津”地名発祥の由来と創始を共にしております。(出処:伊佐須美神社HP URL:http://isasumi.or.jp/outline.html)
*下掲地図出処:GoogleEarth *文字、矢印は筆者記入
第10代の崇神天皇(参考:宮内庁「天皇系図」)の世に天津嶽(御神楽岳)に祀られた二祭神は、その後「博士山」から「波佐間山(明神ヶ岳)」に遷され、と、第29代・欽明天皇の世に、高田南原を経て(552年)を経て、現在、伊佐須美神社が建つ高田原に鎮座された(560年)という。
後に「伊佐須美神社」には大毘古命と建沼河別命の親子が合祀され、現在、四神が祀られている。
[伊佐須美神社 御祭神]
・伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
・伊弉冉尊 (いざなみのみこと)
・大毘古命 (おおひこのみこと)
・建沼河別命 (たけぬなかわわけのみこと)
この、会津の名の由来と、会津総鎮守「伊佐須美神社」が三山を巡り高田の地に遷座したという物語は魅力的で、この神話の舞台の只中を只見線が通っている事は観光面で大きい事だと、日に日に思うようになっている。
「明神ヶ岳」の山開きは、6月の第一日曜日である今日、開催される予定だったが、「博士山」と同じく、新型コロナウィルスの影響で中止となった。また、この山の麓では、2013年に熊襲があり、その後、山開き登山が何度か中止される事があったため、できれば、一人で登る事は避けたかった。
しかし、最近は周辺での熊の目撃情報も無く、天気予報も良いという事で『他にハイカーも居るのではないか』と登山を決行した。
今回、「博士山」よりも、只見線の駅から登山口までの距離も短く、標高も1,074mということで体力への不安はなく、“締め”の「明神ヶ岳」登山に臨んだ。
*参考:
・福島県:只見線ポータルサイト
・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」
・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日)(PDF)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(2017年6月19日)(PDF)
・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)ー / ー只見線の夏ー
昨日は只見線の不通区間を自転車で訪ね巡った後に、会津若松市内で泊まった。
今朝、只見線の始発列車に乗るために駅に向かう。上空は、青空も見え、陽射しもあった。昨日より気温が上がるだろうと思った。
輪行バッグを抱え、駅舎に入り切符を購入し、只見線のホームに向かうため連絡橋の階段を上った。橋上から南西に目を向けると、「明神ヶ岳」の稜線がはっきり見えた。目指す山の頂が見えるというのは、良いものだと思った。
反対側の窓から見下ろすと、2両編成の始発列車が入線していた。北東に連なる「磐梯山」は雲に隠れて見えなかった。
ホームに下り、後部車両に乗り込む。車内は、数名の客のみで閑散としていた。日曜日の始発列車、紅葉時以外は混む事は少ないが、この時期の新緑の美しさを知る身としては寂しい。新型コロナウィルスの影響だけとは言えない、と考えなければ“観光列車「山の只見線」”への道は厳しいと思った。
6:03、会津川口行きの始発列車が会津若松を出発。私が乗る後部車両が6名、先頭車両が4名だった。
切符は会津若松から往復で購入。会津若松~会津高田間は11.3kmで、運賃は240円になる。
列車は、七日町、西若松を経て、阿賀川(大川)を渡った。「明神ヶ岳」から北に連なる西部山麓上にも雲は無く、良い天気になったと思った。
会津本郷を出発してまもなく会津美里町に入ると、左側の車窓から「明神ヶ岳」がはっきりと見えた。1,074mの低山だが、頂が鋭角で存在感のある山と、改めて思った。
6:21、会津高田に到着。降りたのは私一人だった。平日は、県立大沼高校の生徒の乗降で賑わう駅だ。
会津高田駅は、旧高田町にある。高田は、「伊佐須美神社」の門前として栄えた。
ゴルフボールを超える大きさに実る高田梅は名の知れ渡った特産品で、江戸初期の徳川幕府を支えた“黒衣の宰相”こと天海大僧正の生地とも言われている。
私が見送った列車は、右に大きく曲がり、北上していった。会津盆地の主要な街を経るために敷設された、只見線の独特の線形を実感できる光景だ。
会津高田駅は、北側一面に田園が広がる、只見線内屈指の景観を持っている。現在は残念ながら廃ホームに草木が多く視界を塞いでいるが、合間から見える風景からもその良さを実感できる。
その一つが、田園越しに見える飯豊連峰。今日は、少し霞んでいたが、それでも、ずっと見ていられる光景だと、私は思っている。
この景色を見ながら、食事を摂り、酒が呑めたら最高だろうなと思う。この廃ホームを活かし、レストランやカフェができないだろうか。
6:30、自転車を組み立てて、駅を出発。標高は216m。
駅から南西に向かう国道401号線を進む。西本地区の登山道入口までは道なり。
途中、相田のケヤキが、豪快に葉を茂らせていた。
会津美里町は、会津地域で唯一、江戸幕府直轄領(御蔵入領)と会津藩領が共存していたと言われている。この相田のケヤキは、かつて国境の目印だったと町の資料に掲載されていた。 *下図出処:会津美里町歴史文化基本構想「第3章 会津美里町の歴史文化の特徴と関連文化財群の展開」(PDF) p93
6:57、市街地を抜け、吉田地区で右手に「明神ヶ岳」が見えると、前方に頂が薄い雲に覆われている山が見えた。
「博士山」(1,482m)だ。先月、登った時も頂上付近は濃いガスに覆われていたが、雲が掛かり易い地形なのだろうかと思った。
7:06、西本地区に入り、「明神ヶ岳」の全体が見える最後の地点を通り過ぎる。左側の山が目立ち、見る地点や角度によって稜線が一変する面白さを思った。
7:11、目標物である西本簡易郵便局に到着。
局の先にある右に入る路地が「明神ヶ岳」登山道の入口になっている。
ここの標高は307mで、駅との標高差は91m。途中、コンビニ立ち寄りながら、約40分で到着した。
山開き登山が開催されると、車で訪れる登山者は、近所の東北電力㈱宮川発電所周辺等に駐車し、ここから大岩登山口まで2.2kmの舗装道を歩く事になる。
登山道入口から、100mほど続く元冑集落を抜けると、急こう配の林道が続いた。自転車に乗って進む事は辛く、大半を押して進んだ。
途中、石標があった。“右 菅沼 左 大岩”とあり、大岩登山口に続く、切通し部がほとんどないこの舗装道が、昔からある道だと理解した。
舗装面がコンクリートに変わり、しばらく進むと、前方が開けた。
7:45、大岩登山口に到着。標高は535m。駅から標高差319mを、1時間15分かけてたどり着いた。ここは、日本遺産「会津三十三観音」の第二十七番札所大岩観音堂への入口でもある。
「博士山」登山で、滝谷駅(281m)から道海泣き尾根登山口(798m)まで標高差517mを、ひたすらペダルをこぎ続けて1時間55分掛かった事と比べると、気力と体力の消耗は雲泥の差だった。
登山口脇に寝かされていた立て看板には、『明神ヶ岳に登られる方へ』という熊出没に関する注意事項が記載されていた。
この脇には、「博士山」にもあった“熊出没注意”の看板が、立てられていた。
福島県が作ったもので、相変わらず、インパクトは充分だった。
今日は、山開き登山が開催される予定だった日で、天気も良いという事で、他の登山者は少なからず居るだろうと思ったが、登山者のものと思われる車両は周辺に見当たらなかった。
代わりに、登山口が接する幹線林道飯豊・桧枝岐線に4台の軽トラックが停められていた。全て会津ナンバーで、地元の方がこの周辺で何かの作業をしているのだろうと思った。
この林道は西15kmほどの地点で、「博士山」の登山口(道海泣き尾根口、近洞寺尾根口)に接している。
7:57、準備をして、大岩登山口を一人で出発。登山者カードの提出場所は、ここには無かった。
博士山登山と同じく、今回も熊鈴を鳴らし、適宜、笛を吹きながら歩いた。
登山道の序盤は、造成林の中、小さな沢を左にもった窪みが続いた。
まもなく、大岩観音堂との分岐に到着。観音様へのお参りは下山時に行うため、直進した。
登山道には、ピンクのリボンが見られ、安心できた。
周辺の草が伸びている場所に差し掛かると、草いきれが増し、登山道に刈られた葉が目立つようになった。
ここで、林道に止められていた軽トラは、登山道の草刈を行う地元の方だろうと確信した。
登山道には、ぬかるんでいる場所が何ヵ所かあった。沢の水を通す溝が無いため浸み込んでいるのだろうと思った。
側溝などを設ければ改善されると思うので、例えば、(会津)銀山街道で行わているような道普請ができないかと思った。 *参考:福島県会津若松建設事務所「歩く県道・銀山街道」地域づくりニュースVol.1(PDF)
綺麗に刈払いされた登山道に“熊出没中”の看板。刈られたばかりの草葉から人の気配を感じると、恐怖心は湧いてこなかった。
草いきれが増した登山道を、刈草を踏みながら黙々と進んだ。
8:06、造成林を抜け、開けた場所に出ると、刈払い機の音が聞こえてきた。
登山口を出て初めて鋭角に右に曲がると、前方に作業する二人の姿が見えた。
お二人に挨拶をして、感謝の意を伝え追い抜き、再び鋭角に左に曲がると、造成林の中を進んだ。前方にはチェーンソーがあった。登山道を塞ぐ木を伐採する作業もしている事が分かった。
この先にも三人の作業をされている方がいて、積もった杉の葉などを払いのけて登山道の“階段”が見えるようになっていた。
通り過ぎる際、ここでお三方に挨拶と感謝の意を伝えた。
この5名の方とは、下山時にまた会うことになった。
地元の方と別れた先は、登山道を草が覆っていた。判別できないほどではなかったが、この様子を見て、整備作業の有難さを感じた。
8:13、造成林の中に、初めて、登山道を示す看板が現れた。標高664m。
会津美里町のキャラクター「あいづじげん」が描かれていた。色は、町のイメージカラーである緑だった。
この先、造成林を抜けた登山道には、倒木があったり、特に日向では草が腰高まで伸びている箇所があった。下山時には整備され、地元の方々の手によって、歩き易くなっていた。
8:20、木々の切れ間から、東側の山々が見えた。標高719m。
8:28、登山道から前方を見上げると、頂が認められたが、「明神ヶ岳」とともに、狭間峠の“狭間”を作り出す山だと思われた。
8:32、両側を切り立つ斜面に挟まれた狭間峠を進んでゆく。標高789m。
狭間峠は、大正時代まで高田と柳津の往来に使われた峠道ということあって、平坦で歩き易かった。
8:40、枝葉の間から「明神ヶ岳」の山頂が見えた。標高829m。
さらに峠道を進むと、右手が開けた場所になった。
ここからは、「明神ヶ岳」の山頂の全体を見る事ができた。
この周辺の峠道(登山道)は、踏み固められていて、多くの往来があったのではと、往事を偲んだ。
8:50、前方が大きく開かれ、“広場”に到着。標高は869m。
広場の南側には見事な巨木が聳えていた。後で、『ナラの木ではないか』と聞く事になった。
広場を直進すると登山道が続いていた。二つ目の案内板が杉の木に取り付けられていた。
8:55、狭間峠道と「明神ヶ岳」山頂への登山道の分岐に到着。
3つめの案内板があった事もあり、右に伸びる登山道へは迷わず進む事ができた。
直進すると柳津町四ッ谷地区に至るが、道が整備されておらず、ほとんど利用されていないという。
「明神ヶ岳」山頂に向かう登山道は、草に覆われる事もなく、はっきりと視認できた。
だが、徐々に傾斜がきつくなり、蛇行を1ヵ所経た後、急坂を直登することになった。
9:09、休み休み登りると、前方が開け木立の間に祠が見えた。
「伊佐須美神社 奥宮の地」に到着。祠には“伊佐須美神社奥之院”と書かれた札が立て掛けられていた。例年、山開き登山での神事が、ここで行われる。
かつて、祠の前には、複数の赤い鳥居が建っていたが、その面影はなく、破損し横たわっていた。熊の攻撃を受けたのだろうか。
この「奥宮の地」は木々に囲まれていて、眺望は無かった。唯一、北東の枝葉の間から背炙り山の北側の稜線と、会津若松市街地の一部が見えた。
祠の真裏に回り、「明神ヶ岳」頂上を目指す。
ピンクのリボンの先を見ると、少し下草があったが、登山道が延びているのが分かった。
登山道に入ると、直後に背丈ほどの藪が現れた。
事前に“激しい藪が行く手を阻む”という趣旨の情報に接していた為心配していたが、漕いで進むことになったものの、距離は短く、足元の轍もはっきりしていたため迷わず進む事ができた。
藪地のあとには急坂が待っていた。ゆっくりと、直登した。
この急坂には2か所のヒモ場があった。
1ヵ所目から間を空けずに2か所目があった。
9:25、ヒモ場を過ぎ、急坂を登りきると、登山道は北から西に方向を変え、一旦、傾斜は緩やかになった。
光量の多い場所で立ち止まると、枝葉の上部から会津盆地の一部が見えた。
只見線の新鶴駅から湯川村方面の景色だった。
登山を再開。この眺望の直後は、再び急坂となったが、木々の間全体に青空が見える事から、頂上が近い事と感じた。
この急坂は短く、まもなく平場が見えてきた。
9:32、「明神ヶ岳」(1,074m)山頂に到着。こんもりとした丘を思わせる中心に標杭が立ち、ブナの新緑が包み込んだ、山の頂とは思えない空間だった。
標杭は比較的新しく、アルミ製だった。二等三角点を示す標石もあった。
ブナ林に覆われた山頂付近の眺望は、事前の情報通り、無かった。
登ってきた登山道の木々は開かれていたが、麓の風景は見えなかった。
眺望は得られなかったが、空を仰ぎ見られないほど密集した覆ったブナの新緑が印象深い、「明神ヶ岳」の頂上だった。
9:46、下山開始。登山ルートを引き返した。
ヒモ場を抜け、最後の急坂を下っていると、前から熊鈴の微かな音と、人の話声が聞こえてきた。すると、三つの人影が現れた。
私は立ち止まって、3人の登山者と挨拶を交わし、すれ違った。
登山ということで私はマスクをしなかった。この3人もマスクはしていなかった。挨拶を交わす時は気を遣ったが、この自然の中、窮屈な思いをせざるを得ないコロナ禍の未知なる不気味さを痛感した。
10:01、狭間峠道に合流。
10:04、平坦な道を進み、広場に向かうと、座って休憩している人影を認めた。
近づくと、傍らに刈払い機があり、登山中にすれ違った5名の方々だということが分かった。
広場に着き、挨拶と感謝の言葉を伝えた。この5名は地元の方々で、「奥宮の地」まで登山道の整備をするのだという。また、広場に立つ巨木の種を尋ねると『葉っぱは、ナラだなぁ』ということだった。
もう少し、聞きたいことがあったが、コロナの事もあり口をつぐんだ。
そして、地元の方々に別れの言葉を掛け、下山を再開した。登山時に、日なたに生い茂り足元を覆っていた草は刈り取られ、快適に下山することができた。
10:17、東に進路が変わり前方が開けると、登山時には気付かなかった、景色を見る事ができた。
視界の中心が開け、カメラを向け、ズームにすると...
中心に会津本郷駅の只見寄りにある北会津給水塔が確認でき、只見線の路盤が会津高田駅に向かって西北に進路を変えている様子も分かった。
さらに5分ほど下ると、さらに広い展望箇所になった。
肉眼でも、「向羽黒山」である事が分かり、右(北)側には、会津本郷焼の磁器の材料である大久保陶石の切り出し場が見えた。奥の「背炙り山」(参考:会津若松観光ナビ)には、風車が並んでいた。
よくある事だが、登山道の角度で、登っている時は気付かず、下山時に初めて景色を見る事がある。
「明神ヶ岳」は頂上の眺望が無い事もあり、このような途上の景観ポイントを大切にしなければならないと感じた。
標杭一本でも良いので、他の山も含め、設置を検討してもらいたいと思う。もちろん、設置後、即、熊の攻撃で損傷されないよう、アルミ製にするなどの工夫はして欲しい。
10:37、大岩観音堂への分岐に到着。ゴールである登山口は見えていたが、右に折れて、観音堂に向かった。
分岐には苔生した石像が立ち、水場があった。
緩やかな坂を登ると、右手に観音堂が見えてきた。
お堂は平成に入り“大岩”からの落雪で崩壊したため、箱型のものになっていた。
大岩観音堂は会津三十三観音「第27番札所」になっていて、日本遺産の構成物の一つになっている。
大岩観音堂
大同2年(807)、徳一大師が明神ケ岳の柱の木を求めて、自ら6体の聖観音を彫刻した一つが大岩観音で、他は冑、松岸、屋敷、観音、大平に分祀したと伝えられる。
本尊は像高40cmの彩色された寄木造りの坐像で、多数の蓮弁がある20cmの台座に祀られている。
堂は、もとは現在地より50mほど南西にあったが、寛永13年(1636)に岩からの落雪により御堂が破壊され、寛永6年(1666)に現地に移築された。平成に入り雪崩により崩壊したため現在の御堂の姿で再建されている。
大岩観音堂の南側にそびえる“大岩”。想像以上の大きさと形状に、圧倒された。
10:43、大岩観音堂を後にして、道を下り、登山口に到着した。下山に要した時間は約1時間だった。
すれ違った登山グループのものと思われる車が停まっていた。ナンバーは郡山だった。
無事に「明神ヶ岳」登山を終え、“遷座三峰”を踏破した。「明神ヶ岳」は、三山で一番標高が低い事もあるが、登り易く初心者向けの山だと感じた。
「奥宮の地」で「伊佐須美神社」の奥之院となる祠も見られることから、神社の山岳遷座の一端を気軽に体験できる場でもある。登山道は整備され、迷う事は無さそうだが、熊の存在は忘れてはならない事から、1人や2人での登山は慎重になった方が良いだろう。
只見線を利用した登山だが、会津若松~会津高田間が短く、大岩登山口までの二次交通が無い事から、山開き登山やツアー以外は現実的でないかもしれない。 後述するが、只見線を利用した「明神ヶ岳」登山は、“遷座三峰”登山の一環に組み込まれて魅力を増すと思う。
いずれにせよ、「明神ヶ岳」に多くの方々に登っていただき、これを入口として、会津の名の由来となる神話に興味を持ち、繰り返し訪問し、只見線にも乗車して欲しいと思った。
登山口で一休みしてから、「伊佐須美神社」に向かうために自転車にまたがり、坂を一気に下った。
10:56、約5分で国道401号線に接する登山道入口に到着。上りの苦労が、一気に報われた。
左に曲がり、国道を進み「明神ヶ岳」を振り返って見つめた。
頂上付近の稜線が、登った時の感覚と一致し、奥宮の位置が分かった。
国道を進むと前方に「磐梯山」が見え、道路案内標識には「伊佐須美神社 3km」と表示されていた。
11:18、「伊佐須美神社」に到着。駐車場の隅に自転車を停め、一礼をして鳥居をくぐった。
手水舎場に寄る。新型コロナ対策で、柄杓は撤去されていて、ホースから流水が流れていた。
本殿が焼失(2008(平成20)年10月29日)したため、現在の「伊佐須美神社」を象徴する楼門。
向かって右の間に、父親の大毘古命の立像。
向かって左の間に、息子の建沼河別命の立像。
仮社殿に到着。ここも新型コロナ対策で中央の鈴緒は取り除かれ、両脇のものは柱に括りつけられていた。
正面に立ち、正礼で参拝し、昨年から続いた“遷座三峰”の登頂報告と、コロナ禍の収束、国家安泰と平和を祈った。
昨年の「御神楽岳(本名御神楽)」から、先月の「博士山」、そして今日の「明神ヶ岳」登山で“遷座三峰”踏破し、社殿に参拝し、只見線の列車に乗って巡る「伊佐須美神社」遷座地の旅が終わった。
会津の名の由来となった大毘古命と建沼河別命の親子の出会いが、「御神楽岳(本名御神楽)」を創始の地とし、山岳信仰から「博士山」「明神ヶ岳」と宮が遷り、会津盆地の南西である高田原に神社が創建されたという、「伊佐須美神社」の一連の物語は、魅力的で大きな観光資源だと思う。
只見線は“遷座三峰”を両側に配し、この物語の舞台の只中を走っている。これを活かさない手はないと私は思っている。
例えば、“遷座三峰”登山ツアー。
只見線を利用し金山町に入りし「御神楽岳(本名御神楽)」に登り、再び只見線の列車に乗って移動し、柳津温泉や西山温泉に宿泊。翌日、「博士山」と「明神ヶ岳」に登り、「伊佐須美神社」に参拝する旅。「博士山」は急坂が続くが、ゆっくりと歩いても5時間で登下山できる。近洞寺尾根登山口にバスを待機させ、林道飯豊・桧枝岐線を10分ほど進めば、「明神ヶ岳」大岩登山口に到着し、3時間かけてゆっくりと登下山する。その後、「伊佐須美神社」に参拝し、高田温泉で汗を流し、会津高田駅から只見線の列車に乗って帰路に就く。
“遷座三峰”と「伊佐須美神社」がセットで、只見線利活用事業で取り上げられ、乗客や沿線観光客の増加に活かされる事を期待したい。
「伊佐須美神社」を後にして、鎮守の森越しに、「明神ヶ岳」を眺めた。
低山が連なる会津西部山地の中で一番高く、鋭角な頂が特徴的な「明神ヶ岳」から、緑豊かな高田の地に遷された「伊佐須美神社」の物語が、納得できる構図だった。
良い日和に“遷座三峰”の旅を締めくくる事ができ、こころから満足するとともに、この僥倖に感謝した。
登山の汗を流すため、「伊佐須美神社」の、宮川を挟んだ対岸にある「高田温泉あやめの湯」に向かた。
会津美里町の合併前の2町1村にはそれぞれ温泉があり、現在も営業されている。
30分ほど、ゆっくり湯に浸かり、「高田温泉」を後にして駅に向かった。
13:06、会津高田駅に到着。
ホームから、雲が多くなった飯豊連峰を眺めるなどして、列車を待った。
14:01、会津若松行きの列車が入線。私を含め、6名が乗り込んだ。
列車はまもなく会津高田を出発。車内は、比較的混んでいた。
車窓から「明神ヶ岳」を眺め、この辺りが登山道から見えた事を思い返した。
14:21、会津若松に到着。列車は3番線に入線した。
一旦、改札を出て、遅い昼食を摂る事にした。向かった先は、ラーメン金ちゃん。
今回の旅で、必ずここの餃子を食べたいと思っていた。2枚注文し、〆にラーメンを食べ、大満足の昼食となった。
この後、会津若松から磐越西線の列車で郡山に向かい、磐越東線の列車に乗り換えた。
車内では、「伊佐須美神社」近くのコンビニで入手した会津美里町の地酒、白井酒造店の「萬代芳 生酒」を、会津本郷焼のおちょこで呑んで、旅を振り返った。
20:03、いわきで常磐線の列車に乗り換え、無事に富岡に到着。降りたのは4人で、駅前は静まり返っていた。
このブログ「次はいつ乗る? 只見線」への投稿は、今回で100回となった。
2016年8月から始めたので、それ以前に只見線の列車に乗車した記録は“振り返り乗車記”として載せたが、当時は、只見線の価値を理解していなかったため、写真の量も少なく、内容も薄くなってしまった。
その後、只見線に乗車する度に車窓から風景の良さや沿線の魅力に気付き、また、浜通りに原子力発電所事故現場を持ち、根強い風評に本来持つ能力(ちから)を発揮できていない福島県の現状を見続けるうちに、観光力を秘めた只見線の価値を認め、多くの人達に知って欲しいと思うようになり、自分なりに発信したいと稿を積み重ねてきた。
未だ取り上げていない、福島県側の只見線沿線の観光資源は多い。
今年、行く予定を立てていたが新型コロナウィルスの影響で開催が中止となった三島町の「工人まつり」と会津美里町の「本郷せと市」。双方とも国の伝統工芸品(奥会津編み組細工、会津本郷焼)に関わるイベントだ。他、主なものでは、只見町のマトン焼肉、金山町沼沢湖のヒメマス、昭和村と南会津町にまたがる駒止湿原、三島町と昭和村の間にある銀山街道の美女峠、そして、只見川に立ち込める川霧など、自然と電源開発、会津の文化に関わる魅力的なコンテンツが挙げられる。
さらに、新潟県魚沼市にも酒蔵(玉川酒造㈱)や大白川駅構内のそば処平石亭、守門岳など訪ねたい場所は少なくない。
私はこれらを、できるだけ来年度の只見線全線復旧までに取り上げ、発信したいと考えている。現在住んでいる浜通りから奥会津までは距離があり、毎週末に列車に乗る事はできないが、時間を作り、“観光鉄道「山の只見線」”の更なる魅力の発見に挑みたいと思う。
(了)
[追記]
「明神ヶ岳」は「会津百名山」の第61座で、「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)では以下の見出し文で紹介されている。*出処:「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)p182
明神ヶ岳 <みょうじんがだけ> 1,074メートル
会津若松市から南西の方向、会津高田町の奥に山頂が三角の槍先のような山容を見せる山が明神ヶ岳である。天候に恵まれれば遠望が良く、東の方角に会津平野が一望できる。磐梯山、安達太良連峰、吾妻連峰等が遠くに望むことができる。[登山難易度:中級]
・ ・ ・ ・ ・ ・
*参考:
・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて」
【只見線への寄付案内】
福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。
①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/
②福島県:企業版ふるさと納税
URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html
[寄付金の使途]
(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。
以上、宜しくお願い申し上げます。