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おかえり!不屈の男、アン・ヨンハク!/心のクラブ、アルビレックス新潟で引退セレモニー

2017.05.03 15:00

色あせない愛情、語り継がれる魂

 

 東京と新潟を結ぶ上越新幹線の車窓から「大きな白鳥」が見えた。3月17日に現役引退を発表した安英学さん(38)は今年度から朝鮮学校に通い始めた息子に話しかけた。「あれがアッパがプレーした場所だよ」。J1・アルビレックス新潟のホームスタジアム「ビッグスワン」。4月30日、2002年のプロデビューから3年間在籍したクラブで引退セレモニーを開くことになり、家族とともに思い出の地へと向かった。

 安さんによると、息子は指差す方にはあまり関心を示さなかったのだとか。しかし父が新潟時代から着けてきた背番号「17番」はしっかりと覚えているという。古巣の新潟でも17番の魂はいまなおサポーターたちの心に生き続けていた。


濃密な「たった」3年間


 久々に里帰りした息子にかけるように、温もりのこもった言葉だった。「おかえり」。トークショーが行われるスタジアム外の一角、安さんの姿が見えると新潟サポーターたちは感慨深げに大きな拍手で出迎えた。

 クラブカラーであるオレンジ色の観衆のあちらこちらに17番の応援グッズが見える。60代の保坂夫妻は安さんの退団以降、長い間タンスに眠っていたサイン入りユニフォームを着込み、心を躍らせていた。「試合よりも引退セレモニーの方が楽しみ」。握手会の整理券を確保するために長野県との県境に位置する住まいを7時半に出発。配布の1時間前に到着したが30人以上の先客が列を成していたという。 

 なぜ、これほどまでに愛されているのか。より多くの試合に出場し、得点を決めた選手たちはいたはずだ。サポーターたちに聞けば「とにかく印象が強かった」と口を揃える。 

 安さんのデビュー当時、ビッグスワンには4万人を超える観客が詰めかけていた。東京朝高を卒業した後、1年間の浪人生活を経て立正大に進んだ若者にとって、それほどの大観衆の前でプレーした経験はなかった。  

 ピッチで受ける声援は言葉ではうまく言い表せないが「体中に響くものがあった。その喜びを何度も味わいたい。技術も才能もない自分はがんばるしかなかった」。

 試合では明らかなファールを受けてもすぐに立ち上がり、審判の笛が吹かれるまでプレーを継続。所狭しとピッチ中を駆け回り、強靭なフィジカルと闘志あふれるプレーでボールに食らいついた。「誰なんだ、あの選手は」。J1への昇格争いを繰り広げるチームに熱い声援を送っていたサポーターの視線は、徐々に無名の17番に集まっていく。練習見学に行けばプロ選手であることを鼻にかけるでもなく、常に謙虚な姿勢で丁寧にファンサービス。当時では珍しいほどの誠実な好青年だったという。 

 だからこそ拉致問題が浮上した2002年、ネット上に安さんに対する誹謗中傷が飛び交い、クラブにも脅迫電話がかかってきた時期、サポーターたちはスタジアムで「イギョラ! アン・ヨンハク! 」の特大チャントを送った。  

「一番つらい思いをしていたのはヨンハクのはずなのに、新潟の朝鮮学校に足を運んで子どもたちを勇気づけていた。心無い人々やメディアが問題を煽ろうとしている状況下で、仲間を放っておけるはずがなかった。サッカー選手であり一人の人間である彼を応援しようとした」。  

 チームの主力として03年度のJ2優勝・J1昇格に貢献した安さんは、並外れた勝負強さで強烈な印象を残すゴールを決めてきた。02年度の終盤、川崎フロンターレを相手に勝利への執念で25mの距離から突き刺した逆転ミドルシュート。そのほかにも2004年のワールドチャレンジマッチでスペインの強豪、バレンシアCFに2得点を決めてMVPを獲得した活躍は語り草となっている。MVPの賞金を新潟・福島豪雨災害の被災者に送った事実も人々の心を奮わせた。

 あるサポーターから耳にしたのは、決して資金が潤沢ではないアルビレックス新潟には「無ければ作り上げる」精神が根付いているということ。J1に初挑戦した2004年の開幕戦はサポーターが自らバスをチャーターして約1万人が対戦相手のFC東京の本拠地に馳せ参じた。愛するクラブのためにスポンサーである亀田製菓やローソンの商品を購買する運動を繰り広げたこともあったという。  

「困難を打開していこうとするクラブや俺たちの志、どんな時もあきらめずにがむしゃらに突き進むヨンハクの魂が重なった」。 

 引退発表の後日、安さんはツイッターを見て涙を流さずにはいられなかったという。その日に試合を終えた新潟サポーターが「イギョラ、アン・ヨンハク! 」のチャントを熱唱している動画を投稿していたのだ。また新潟の公式ツイッターにはこう綴られていた。 

「ヨンハと過ごした3年間は『たった』という表現はふさわしくありません。一日一日が本当に濃密なものでした。そしてヨンハが夢の実現のために新潟を離れてからも、新潟はずっとヨンハのことを見続けてきました」。


やっと告げられた思い


 今年3月の引退発表から2週間後、クラブからセレモニー開催の打診が届く。新潟を離れて10年以上が経つ。「クラブのレジェンドでも在籍年数が長いわけでもない。大切なリーグ戦の試合前に時間を取ってもらうのが申し訳なくて、丁重に断らせてもらった」。ところが「クラブのために」という熱烈な申し入れを受けて、自分の気持ちに正直になった。


 老若男女が集ったトークショーや握手会では相変わらずの人気ぶりが窺い知れた。この日のために手作りしたメッセージ付きの横断幕を持参し、安さんのサイン入りユニフォームを着た坂爪美希さん(21)はしきりに涙を流していた。保育園生の頃、選手名鑑に載っていた新潟の選手の中で真っ先に目にとまったのが安さんだったという。  

「観客席からずっと17番の背中を追いかけてきた。幼いながらにグッときたものがあった。退団してからもずっと所属チームでの動向を見守っていた。またこうして帰ってきてくれて本当によかった」。 

 当日は新潟時代のプレーを見たことがないはずの子どもたちも、親に連れられてイベントに参加していた。 

「今度はぜひ指導者として戻ってきてください」「どんな形でもチームに力を貸してください」。安さんに頼み込む大人の傍らで、子どもたちが何を考えていたのか知る由もない。「すごい選手だったんだよ」。事前にそんなことを教えられていたのだろうか。しかし引退セレモニーを目の当たりにして何かを感じ取ったに違いない。安さん自身は「息子にも多くの方々に応援してもらったということを伝えたかった」と話す。

 当日の新潟の対戦相手は11、12年度に所属していた柏レイソル。2年間の公式戦出場は11試合にとどまったが、11年度にチーム初のJ1優勝、12年度に天皇杯優勝を成し遂げたクラブの黄金期を支えた。 

「勝てるチームがなんたるかを知り、一番成長できた時期かもしれない。試合に出られずに悔しかったけど全力でチームをサポートした」。若手の模範となり献身性を尽くした陰の功労者に対して、柏は以前スタッフ入りを打診している。 

 ビッグスワンを包んだ雰囲気は「安英学」という人間が歩んできた軌跡を集約しているかのようだった。 引退セレモニーで妻と息子から花束を、新潟時代のチームメイトである高橋直樹さんから17番のユニフォームを受け取った安さん。場内を一周する際には両チームのチャントが鳴り響いた。 

 柏のユニフォームに着替えると柏サポーターの熱い声援に対して深々とお辞儀。涙を拭いながら歩を進め、思い出が残るオレンジ色のユニフォームに袖を通す。  

 スタンドには大きな横断幕が掲げられていた。「不屈の男、安英学おかえりなさい。新潟らしさはヨンハクの背中に学びました。15年間お疲れ様でした」。  

 安さんの脳裏に新潟の仲間とともに勝利の喜びを噛み締めながらトラックを回った日々がフラッシュバックする。そして当時に優るとも劣らない大声援がピッチに降り注いだ。  

「オー、アン・ヨンハク! イギョラ、イギョラ、アン・ヨンハク!」。新潟を離れてからつらかった時期、いつも思い出していたチャントだった。  

「何者でもなかった自分をどんな時も応援してくれた心のクラブ。感謝の気持ちはいつまでも忘れない」。引退発表をもって諦めていた「新潟で引退したい」という最後の夢が叶い、万感の思いがこみ上げていた。  

 かねてから伝えたいことがあった。4月30日、相思相愛の相手にやっと告白することができた。セレモニーの第一声は決めていた。 

 「ただいま! 」。オレンジ色に染まったスタンドが美しく揺れた。


-朝鮮新報より-