「沈黙は金」か?
こんにちは。
こころの健康支援室 そらいろのmirineです。
アメリカで、また悲しい事件が起きました。
不当な暴力によって命を落としたジョージ・フロイドさんとそのご遺族に、心よりお悔やみ申し上げます。
人種による差別というのは、日本だけで過ごしているとあまり実感がわかないかもしれません。
もう20年以上前になりますが、小さい頃にイギリスとアメリカで合わせて2年ほどを過ごしたことがあります。
その短い間にも両親は明確なアジア人差別を体験しました。
子ども同士のかかわりでは、人種による差別を実感することはあまりなかったのはさいわいでした。
しかし、アメリカの日本人学校では、在米歴の長い子たちが新しく入ってきたクラスメートに対して、自分たちはお前たちとは違うと見下すように自分たちのグループから排除していたことがとても印象に残っています。
日本に帰国後、公立の中学校に転入しましたが、そこでも「帰国子女」という異物に対する腫れ物に触るような雰囲気がずっとひっそりとつきまとっていたことを覚えています。
今回の事件をうけて、日本でも多くの人が差別に対して反対の声を上げました。
芸能人やスポーツ選手でもこの事件に関連して意見を述べる人が多くいらっしゃいました。
そうした方たちに対して、「発言を控えるべき」と意見をする方も少なくなかったのはとても残念なことです。
差別、虐待、暴力、搾取、いじめといった、他者の人権を侵害する行為は、沈黙によって黙認され、助長されるものだからです。
差別を含むあらゆる人権侵害は、たいてい社会的により立場の弱い者や、ある特性について少数派の集団が被るものです。
人権を侵害された側が被害を訴えても、人種差別のように世代を超えて訴え続けても状況が改善されないのは、被害を受けていない多くの人たちにとっては「自分の」現実ではないからです。
多くの人にとって、「どこかで起こっている自分以外の誰か」の現実であって、自分事ではないのです。
しかし、自分事ではない人たちが関心を持たなければ、社会的により弱い立場にいる彼らがどれだけ声を上げても、上げ続けても、ほんの小さな変化を起こすことさえとても難しい。
それでも、声を上げなければ気づかれることもない。
気づかれなかった被害、見てみぬふりをされた被害は社会的に「なかったこと」にされる。
差別、虐待、暴力、搾取、いじめ、他のどんな人権侵害についても同じことです。
今、世界中でいろんな人が、白人警官デレク・ショーヴィン被告によるジョージ・フロイドさんの殺人事件について、事件をうけて起こったさまざまな抗議や意思表明について、抗議行動に乗じて起こった略奪行為について等、いろいろな場でそれぞれの意見を発しています。
もちろん、多くの人が黙ってもいます。
すべての人が、発言する自由も、発言しない自由も有しています。
人権侵害に反対するなら必ずそれを表明すべきとは私は思いません。
しかし、どんな人でも発言できる土壌がなければ、多種多様な意見に触れながら自分の意見を育てていくことはできません。
発言をするということは、関心があること、関心を持ったことのあらわれです。
「発言を控えるべき」「よく知らないまま発言するな」といった言葉で関心の芽を摘もうとする行為は、人権を侵害する側に力を与えることと同じではないでしょうか。
There can be no single answer to how minority-group differences in views and values are resolved – only the sure knowledge that only through the democratic process of tolerance, debate, and willingness to compromise can free societies reach agreements that embrace the twin pillars of majority rule and minority rights.
少数派集団の意見や価値観の相違をどのように解決するかという課題に、ひとつの決まった答などあり得ない。自由な社会は、寛容、討論、譲歩という民主的過程を通じてのみ、多数決の原理と少数派の権利という一対の柱に基づく合意に達することができる。そういう確信があるのみである。(*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。)
(https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3080/ より引用)
今回の事件は、アメリカで、白人と黒人という根深い差別のあらわれとして発露しました。
これは、日本で生まれ育った多くの人にとって「自分の現実」ではないかもしれません。
けれども、今「自分の現実」ではないからといって、先の未来までずっと「自分の現実」でないまま過ごせる保証は誰にもありません。
人権侵害は、人種差別という形だけではないからです。
多くの先人の尽力によって確立され、国を越えて自然権として共有されるようになった人権ですが、今も声高にその大切さ、かけがえのなさを謳い続けないと容易に侵害されうるものでもあります。
自分の権利を守ることは、誰かの権利を守ることにつながり、誰かの権利を守ることは、自分の権利を守ることにつながります。
自分の権利が侵害された時、泣き寝入りしない人が増えれば、他者の権利を侵害することのリスクは高くなるでしょう。
誰かの権利が侵害されている時、見てみぬふりをしない人が増えれば、他者の権利を侵害することのリスクは高くなるでしょう。
「人権」は、沈黙によってではなく、先人たちが忍耐強く積み重ねた主張によって確立することができたのです。
沈黙が有用な時も、主張することが有用な時もあるでしょう。
主張することが有用な時でも、主張の仕方によっては逆効果となることもあるでしょう。
確かなのは、どんな行動を選ぶのか、それを選択する主体はいつどんな時も誰かではなく自分ということです。
いつか、未来には、「人権」がいかに大切なものなのかをあえて喧伝する必要のなくなる日が来るといいですね。
あらあらかしこ