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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

日本宣教28-関ヶ原の戦いの始まり

2020.06.08 11:12

秀吉の九州仕置で、肥後は小西行長と加藤清正に二分された。天草下島は小西の領地となり、キリシタン達は安堵を得た。本渡領主天草種元は独立を維持しようと戦いとなる。キリシタンの戦いは小西は避けたかったが、加藤は1300人の犠牲を出した。朝鮮でこの2人を競わせたのは得策とはいい難い。

大陸侵攻の右軍と左軍の友情と対立はそのまま戦後にもちこされた。加藤、黒田ら7将は、蔚山籠城戦を秀吉に讒言したとして、戦目付福原らの切腹を三成に迫った。しかし三成はこれを拒否し、加藤らが勝手に撤退したと反撃した。加藤らは小西らが撤退交渉を長引かせる罠にはまったと反論、対立は泥仕合となる。

そして1599年3月3日に、秀頼後見役の前田利家が没すると、止めがきかず、7将は三成襲撃を実行。仲裁に入った家康によって10日、三成は奉行職を辞めさせられ、家康暗殺を口実にして前田家も服属、主導権は家康に移る。

1600年7月17日、家康が上杉討伐に出陣して大坂を留守にすると、残った3奉行が、家康の弾劾状を諸大名に送りつけ、三成も佐和山を出て合流。商人あがりの小西は家康に接近しようとしたこともあるようだが、この対立にまきこまれて西軍に入るしか選択肢がなくなる。もしかすると石田に殉じることが、キリスト教徒としての最後の一分だったかもしれない。

下は「内府違いの条々」