日本宣教29-細川ガラシャの悲劇
2020.06.09 11:12
1600年7月16日、細川忠興は家康に従い、上杉討伐に出発した。忠興は、豊臣秀次に借金があり、秀吉から秀次派との嫌疑をかけられた。そのときその借金返済を引き受けたのが家康である。さらに家康からは6万石が加増されている。
豊臣政権下でのガラシャのプレッシャーはたいへんなものだった。何より天下人は父の仇、ところが秀吉自身そんな自覚がなく、美女の誉れ高いガラシャを呼びだしたことがあるようだ。このとき、彼女は懐剣を落とすパフォーマンスを見せて、秀吉の魔手を逃れたというエピソードがある。
自分が生きているのは子供のためだ、と語ったことがある。子供の安寧を神に祈る毎日だっただろう。しかし「石田方」は家康と同行した諸将に圧力をかけるべく、大阪に残った妻子を人質にとろうとした。ガラシャには忠興より名誉に傷つく場合は、妻を殺し全員死ぬように、との通常の命令があった。
家臣からは丹波に逃れるよう進言があったがガラシャは拒否、最初は交渉していた「石田方」が屋敷を囲むと、家老に自分を切らせて、屋敷に火をかけた。彼女の遺骸は、イエズス会が焼け跡から集め、葬儀。その翌年忠興は、何と丹波にオルガンチノを招き、ミサを行った。この壮烈な最期が忠興を動かしたのだろう。キリスト教はやむを得ない場合は自殺も認めている。
下は堂本印象作大阪聖マリア大聖堂