「感染症と人間の物語」20 江戸のはやり病(1)天然痘(疱瘡)①祇園祭 東大寺大仏
4月21日、京都八坂神社HPの「令和2年度 祇園祭についてのおしらせ」。
「本年の祇園祭につきましては、新型コロナウィルスの感染拡大による国内外の深刻な状況を鑑み、安心安全を第一に、関係者協議の結果、下記の神事行事を中止と致します。」
日本三大祭のひとつでもある京都八坂神社の祭礼祇園祭。毎年7月1日(吉符入)から31日(疫神社夏越祭)まで、1ヶ月にわたって行われるが、最大の見所とされるのが7月17日の前祭(さきまつり)と同24日の後祭の山鉾巡行。「動く美術館」とも称されるたくさんの美術工芸品で装飾された山鉾が京都の中心部を巡行し、その模様を楽しみに多くの観光客が訪れる。しかし、この山鉾巡行も中止。
HPの最後にこう記されていた。
※祇園祭の本義を鑑みまして、四条御旅所には榊をもって神輿に準じる神籬(ひもろぎ)を鋪設して、三社のご神霊をお祀りし厄災除去の祈りを捧げてまいります。
※31日疫神社夏越祭の茅の輪は7月1日より疫神社に設置いたしますので、自由にご参拝下さい。但し本年は持ち帰り用の茅の用意はありませんのでご了承願います。
疫病除去とかかわりがありそうだとわかるが、祇園祭とはどんな祭りなのか? 今からおよそ1100年前の清和天皇の貞観11(869)年に、京洛に疫病が流行し、庶民の間に病人、死人が多数出た。そこで、神泉苑に66本の鉾(全国の国の数)を立てて祇園の神を祭り、洛中の男児が祇園社の神輿を神泉苑に送って疫病退散を祈願したのがはじまりとされている。祭りの主役は神幸祭・還幸祭。山鉾が悪霊を排除したきれいな街に、神様をお迎えする。御神霊をうつした神輿は17日夕刻八坂神社を出発し、主に鴨川以東河原町などを通り四条寺町の御旅所に入る。そして花傘巡行の行われる24日まで滞在し、24日夕方より今度は寺町通以西の区域をまわり、夜遅くに八坂神社に戻る。コロナで大変な今こそ盛大に実施してほしいのだが何とも残念。
日本においても古代より、人々に火事や地震より恐れられていたのは疫病(感染症)だった。江戸時代には、天然痘(疱瘡)、麻疹(はしか)、水疱瘡(水痘)は人生の「お役三病」とされ、一生に一度しかかからないこの三つを無事に終えることが、健康面での最大の願いだった。特に天然痘、麻疹は死亡率が高く、一度流行すると多くの人命を失った。
まず天然痘(疱瘡)について。1980年、WHO(世界保健機構)により「地球上からの天然痘根絶宣言」が出され、現代では“過去の病気”となった天然痘だが、それ以前は世界中で人々の命を奪う恐ろしい感染症だった。わが国での最初の天然痘流行は、『続日本紀』(『日本書紀』に次ぐ勅撰の歴史書)によると、天平7(735)年。天平9(737)年にかけて発生し、日本史研究者ウィリアム・ウェイン・ファリスが、『正倉院文書』に残されている当時の正税帳を利用して算出した推計では、当時の日本の総人口の25~35パーセントにあたる、100~150万人が感染により死亡したとされている(吉川真司『天皇の歴史2 聖武天皇と仏都平城京』講談社、2018)。感染源となったのは「野蛮人の船」から疫病をうつされた1人の漁師とされているが、発生地から見て遣新羅使もしくは遣唐使が感染源である可能性が高いとする見方もある。九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出す。天平9(737)年6月には官吏の間で疫病が蔓延し、朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟(天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子藤原不比等の子)も全員が感染によって病死してしまう。
流行は天平10(738)年1月までにほぼ終息するが、国家に降りかかる災いを仏教の力で守ろうと考えた聖武天皇は、天平15年(743年)に東大寺大仏の造像を発願。天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。のべ260万人が工事に関わったとされ、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円との試算もある。また、教科書でおなじみの、農業生産性を高めるために農民に土地の私有を認める「墾田永年私財法」が天平15年(743)に発布されるが、これは疫病によるダメージからの回復を目指す社会復興策としての一面が強かった。
祇園祭 山鉾巡行
『都名所図会』「祇園会」
二代目広重「諸国名所百景 京都祇園祭礼」
東大寺盧舎那仏像
徳力富吉郎「祇園祭宵山」