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aya-kobayashi-manita 's 翻訳 Try It ! ~pupils with heart~

映画『バケモノの子』

2020.06.10 20:25

 ー事実、「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないと云っていい。今日では白漆と云うようなものも出来たけれども、昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもののように思える。派手な蒔絵などを施したピカピカ光る蝋塗りの手箱とか、文台とか、棚とかを見ると、いかにもケバケバしくて落ち着きがなく、俗悪にさえ思えることがあるけれども、もしそれらの器物を取り囲む空白を真っ黒な闇で塗り潰し、太陽や電燈の光線に代えるに一点の燈明か蝋燭のあかりにして見給え、忽ちそのケバケバしいものが底深く沈んで、渋い、重々しいものになるであろう。古えの工藝家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光りの中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。-

 -『陰翳礼讃』(1975)谷崎潤一郎


 とてつもなく奥深い力作に出会ってしまった気がする。細田守監督による長編アニメ映画『バケモノの子』(2015)が興味深く、観ているうちに、ぐいぐい引き込まれた。

  物語は、人間界に生きる家出少年、蓮と、バケモノ界に生きる闘士、熊徹(くまてつ)が出会い、蓮がバケモノ界へと彷徨いこみ、「強くなりたい」と、熊徹の弟子になる事から始まる。心に傷を負っている蓮と、実力者だが粗野で力任せの熊徹。2人はぶつかり合いながらも、お互いの弱点を克服しながら、熊徹のライバルである猪王山を倒し、バケモノ界の宗師を目指して、成長してゆく。


 私は、武術には全く精通していないが、一度だけ、『ジークンドー』という、あのブルース・リーが考案した武術の体験を受けた事がある。ジークンドーとは、独自の思想に則った武術であり、それは、シンボルマークにも表されているように、二元論的な『陰と陽』が永久に相乗し合ってこの世は回っているというものである。この映画は、その、ジークンドーの精神を思い出させる。


・・・『天と地、昼と夜、男性と女性、など世の中にある存在は「対立」しているように見えても実際は、一方の存在がなくては成り立たない物事をも示しています。たとえば、生き物の"天敵”とは文字通りの"敵”ですが、その存在がなければ、全ての生態系のバランスが崩れてしまいます。事物も広い視野で見た「調和」を、この図(シンボルマーク)が表しているのです。

 格闘に於ける武技にもこの「陰陽」が、そして「陰」の中にも「陽」が、「陽」の中にも「陰」が存在する事が、その武技を完成へ近づける大切な要素となり、戦術に於いてもこの「調和」が大切な要素となるのです。』

 -IUMA 日本振藩國術館 ホームページより引用


 このジークンドーの思想は、ブルース・リー独特の格闘技の思想であると同時に、人生の生き方においての思想とも言えるのである。

 映画の話しに戻ると、なるほど、この映画には様々な「調和のための対立」が描かれている。人間界とバケモノ界、人間とバケモノ、師匠と弟子、自己とライバル、そして、心の陰と陽・・・

 まず、バケモノの世界とは何か。蓮は渋谷にいたはずなのに、熊徹を追ってゆくうちに、思わぬ、バケモノ界の『渋天街』に迷い込む。これは、人間界とバケモノ界は、パラレルであるという事を暗示する。

 バケモノというと、なんだか非常に恐ろしいお化けのようなものを想像してしまうが、実際は、バケモノ界の方がどちらかというと穏やかで平和な世界に描かれている。なぜなら、バケモノ界には『闇』がないのだ。バケモノ界では、人間をバケモノ界に住まわせると、いつしか心に『闇』を宿し、大変な事になるという言い伝えがあるほど、住人達に闇の面がなく、皆仲良く、幸せそうに生活している。しかし、ネタバレになるが、奇しくもバケモノ界の闘士の中でツートップである熊徹と猪山王は、人間界の子供を一緒に住まわせた。この2人は、なぜ、闇というリスクを知りながら、人間の子を自分の傍に置き、育てるのだろう。

 闘士の宿命だろうか。更には、バケモノ界を治める宗師の候補者としての自覚だろうか。闘いを生業とする者達とは、闘う者というのは、一体、なんだろう。何故、人は闘うのだろうか。

 例えば、映画『エキソシスト』では、主人公の神父は、拭いきれず自己の中で消化しきれないような心の葛藤、即ち闇から逃げず対峙するために、ボクシングを趣味とし、ハードな練習で自分を追い込むというシーンが象徴的に描かれる。そこで、やはり心の闇に負けて悪魔に取りつかれた少女に出会うのだが。この『バケモノの子』では、ひょっとしたらバケモノとは人間の心理の表れで、心の弱さを背負いきれず耐えきれなくなった人間はこのようなバケモノの闘士を追い求め、自分の化身たる一人のバケモノに出会い、心に潜む闇を克服すべく鍛錬に励むのかもしれない。そもそも、日本の"バケモノ”である妖怪伝説や怪談話しなどは、小泉八雲集や、四谷怪談など、人間の持つ本能の恐ろしさや恐怖心の表れのものが多いではないか。『バケモノの子』でも、蓮は熊徹に拾われ、育てられるが、その生活の中で、『相手の動きをよく見る事、相手に合わせる事』『敵の中に自分の姿を認める事』に気付き、成長し、やがてそれは、あるひとりの少女との出会いにより、「誰かを傷付けるより誰かを大切にする方が救われる」という思いやりの愛情の芽生えに繋がる。一方で、育てるバケモノの熊徹の方も、最初は「強ければいい、勝てばいい、力があればいい」と、ただやみくもに怒りや攻撃心をぶつけるだけであったが、蓮の親代わりになるうちに、その戦闘方法にも変化を見せ始め最後は、(ネタばれになるが)自分の存在を消してまでも連と共に生き続け、蓮を戒めながら守ってゆくという道を選ぶ。ライバルの猪山王も、一見人望厚いジェントルマンだが、実は自分も気付かぬまでの優越感のかたまりだったと、最後には反省する。つまり、闘う者は皆一様に何かしらの闇を抱えている。しかも、バケモノ界では、この、闘士での勝利者のみが、バケモノ界を治める『宗師』となれるのだ。つまり、闇は、悪でなく、必然で、闇を抱え、打ち勝った者のみが、事実上優れた者としてバケモノ界を統治する権利があるというのだ。


 ここに、格闘技や闘いの意味があるのだろう。誰もが併せ持つ陰と陽、誰もが葛藤するその混在を調和させるべく、闘う者は闘うのか。

 映画には、様々な『闇』を持つ人間が登場する。様々な形で各々の闇と向き合い、すなわち、自分と向き合い、他人を認めて受け入れ、克服してゆく。闇や闘争心を受け入れ、相手を倒して、思いやり、自信として成長してゆく。

 闇は、人間の弱さや自信のなさにつけこんでくるものだろう。ただやみくもにその闇を相手にぶつけるのではなく、或いは逃げるのではなく、上手く付き合ってゆくということ。コントロールして、自己として吸収する。それは、人間の、闘う宿命の者なのだろう。


 ブルース・リーは、『水のように生きろ』といった。水のように、しなやかに状況に応じて生きろと・・・闘い、闇を克服するとは、自己を見つめ、同時に敵を見つめ、敵に合わせて成長するという事。

 ひょっとしたら、闇を宿す人間とは、バケモノ闘士の憧れなのかもしれない。対して、バケモノとは、人間の表裏一体、本能の表象として、存在する者達なのかもしれない・・・。