退屈日記から40年
オクスフォードに留学中の知り合いがブログで街並みの景観について書いていて、その事を伊丹十三のエッセイ「ヨーロッパ退屈日記」を引き合いに語っていた。
伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」の存在は気にしていたが未だ読んでいない云々とブログにコメントをつけると、山口瞳は「私は、この本が中学生・高校生に読まれることを希望する。汚れてしまった大人たちではもう遅いのである」と推しているが、まずはどうぞとのことだ。そうすると僕など申し訳ないぐらい随分汚れてしまっているわけなのだけれど。
「ヨーロッパ退屈日記」は昭和40年3月文芸春秋新社より刊行され昭和51年7月には文春文庫に収録されている。それから平成17年新潮文庫に再録されている。解説には初版から三年ばかり前、「洋酒天国」に連載されたと記されいるから、僕など影も形もないころの話しであるから、汚れてしまったもしまってないもないのだけれど。
ウイットを交えながら、茹ですぎたスパゲッティを嘆くエッセイで、嘆くというより「スパゲッティは饂飩ではない」と宣言したと言うべきか、読むひとによっては、ちょっとキザで嫌み、と感じるかもしれない。後の「ポパイ」や「ブルータス」など男性誌スノビスムのもとみたいなものと言えないこともない。
などと書くとある年代からうえの人達に総攻撃を受けそうである。「この本を読んでニヤッと笑ったら、あなたは本格派で,しかもちょっと変なヒトです」と表紙に書かれている。ニヤッとしたのは内容もさることながら書かれていることと同じことを多くの先輩たちに酒を飲みながら、仕事の合間に、説教されたからだ。
先輩たちはいかにも自分のことばで語ってくれたが、今思い起こせば出典はこれだったかと思いあたるのである。それでニヤッとしてしまったのだ。
伊丹十三が「ヨーロッパ退屈日記」を最初に刊行して四十年、あいだに高度成長期、バブル景気を挟んで、食事も車もファッションも偽物を排除して、本物を獲得してきたように思える。通りで欧州車を見かけても驚きはしない、高校生でもモノグラムのひかるバックをもちあるいている。喫茶店でナポリタンを食べることのほうが困難になった。
誰でも簡単に本物を所有できるようになったからこそ、伊丹がもとめる本物を獲得するのはいよいよ難しい。
(横山敦士)