日本宣教31-関ヶ原決戦の結末
2020.06.12 11:21
1600年5月12日、大坂を出発する前に家康は、漂着したジョン・アダムスらに謁見した。イエズス会は彼らを処刑するよう要請したが、家康はアダムスらから国際事情も含めて聴取し、江戸に連れて行き、領地を与えた。以後彼は家康のブレーンとなり、領地をもらい破格の待遇を受ける。
ガラシャの劇的な最期は、大きな影響を与えた。夫忠興は今更のように激し、東軍を団結させ、一方西軍の人質作戦を頓挫させた。そもそも家康軍は、秀頼の命によって行動しているのであり、この人質作戦は西軍の不安の表明ともいえたが下策であった。
10月21日に戦われた関ヶ原の戦いは、半日で東軍が勝利した。小西行長は、朝鮮で兵を失い、急ごしらえの軍だった。真っ先に崩れたとも言われ、行長はキリシタンとして自害せず、三成らと共に捕えられた。処刑前に彼が望んだのは司祭への告解とゆるしの秘跡だった。
彼は同じキリシタンの黒田長政に頼み、長政は家康に伝えたが聴き届けられなかった。刑場には司祭も来ていたが、できたことは、イエスとマリアの聖画を掲げることだけだった。小西の処刑はキリシタンの大きな柱を失うことを意味していた。
下は岡田三成の映画「関ヶ原」