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1.東京、ときどき大阪。

2020.06.12 13:48

胸を裂くような夜が来たなら。

抱き締めてあげたい、あなた。





 大阪駅の御堂筋口にはいつだって甘い匂いが立ち込める。


鼻先を掠める甘い甘い匂い。

それを辿ると改札を出てすぐの所にあるワッフル店からのもの、と断定するのは容易い。


けんいちはこの匂いがどうしても苦手だった。

もう数えきれない位ここを通っているのに未だ呼吸するのを躊躇うのだ。


そして今日もまた無意識に息を止め、そこをやり過ごして足早に西梅田に向かうと、地下鉄四ツ橋線の改札は帰宅ラッシュの真っ只中。

梅田方面に向かう人波に逆らうように、けんいちはそこをくぐり抜けた。


乗客を殆ど吐き出した電車に乗り込みやっとひとつ、深い息をついた。


仕事で地方に出向く機会が増え東京の自分のマンションにいる時間よりも、こうして大阪のビジネスホテルに向かう事の方が月の大半を占めていた。


年が明けてから駅前のビジネスホテルに宿泊するのは4回目、ホテルのフロントマンとは顔見知りにもなる勢いだ。


ホテルに着く頃、辺りはすっかりワイン色に染まり肥後橋の駅の階段を上がり切ると刺すような風が吹き抜けた。


四ツ橋筋を北へ、一方通行にヘッドライトの川が流れていく。


よく見知ったホテルのエントランスをくぐり、手慣れた様子でチェックインを終えて部屋のカードキーを手に取ると、フロントマンもやはり見覚えのある顔で領収書を手渡しながら「大野様、いつもご贔屓にありがとうございます。」と、一言含みながら会釈した。


エレベーターのボタンを12階に設定して部屋に向かう。

二泊分の着替えの入ったビジネスバッグを置きネクタイを緩めた。


明日もう一度顔を出してその足で新大阪に行こう、そうぼんやり考えた。


そうこうしている内にエレベーターは12階に止まり、けんいちは部屋のカードキーをかざし 明かりを点けスーツを脱ぎ今日初めて携帯を確認すると、新着メールが5件。

会社の同僚、母親、ファストフード店のクーポン、親友の杉山、それから彼女。


彼女からの大阪からいつ戻ってくる?、との類の内容に明日の新幹線で戻る、とだけ簡潔にまとめて返信した。


彼女とは大学の先輩後輩の間柄だった。

当時入っていたサークルのマネージャーで、けんいちが卒業する頃からの付き合いなのでもう丸3年。

今はけんいちの会社の総務部に配属されていた。


告白されたから付き合っている、というだけでこうも長くは付き合えない。

けんいちは彼女を可愛いと思っていたし、容姿に反して思いの外に気の強い所も魅力的だと感じていた。

ただ不思議と、 彼女がいても飲みに行く気のおけない友人がいても、けんいちの心には時折、名前の無い『何か』が現れてはぽつりと小さな焦燥感を落としたし、薄靄(もや)をかけて行った。


そんな風に、今この瞬間の今日が終わって行く。


胃全体に胃液が溢れる感覚、 どんなに体がくたびれていても腹は空くのだ。


これから歩いて梅田の街に繰り出してみようか、はたまたホテル界隈の居酒屋にでも出かけてみようか。


そう巡らせながらも、ベッドに温く体を沈めた。


脱ぎ散らかしたスーツやバーバリーのコートがどうなろうが今は知ったことでは無かった。


瞼が重たい。


ホテルの一室のクリーム色の天井を見上げて、けんいちはまたひとつ、深く息をついた。



土曜日の大阪は雨だった。


結局、昨晩は何も口にしないまま気がつけば夜明けを迎えていた。

すっかり胃は空っぽになっていたが、前日の気怠さは微塵も残っていなかった。


その軽い足取りで、手早く身支度を整えると予定よりも少し早くチェックアウトを済ませホテルを出ると、目の前の通りをタクシーやトラックが水飛沫をあげて走っていく。


少し靄(もや)がかった街並みを一通り見渡して、四ツ橋筋でタクシーを拾った。


「西中島まで。」 と、ドライバーに告げシートに深く腰掛けた。


夕べ、地元の幼なじみから久しぶりにメールが来ていた。

毎度のことながらその幼なじみがけんいちに用もないのにメールを寄越すことは珍しくなかった。


大野おまえ正月帰る?

 大野おまえお盆帰る?


それはけんいちが上京した年から変わらず続く、いわば彼らの慣習のようでもあった。


昨日のそれもその慣習通りかと思いきや以外、同窓会の日時を知らせるものだった。


けんいちは静岡で 生まれ、小3までをそこで過ごし、そこからは父親の転勤で東京に越した。


数年して高校進学を機に再び静岡に戻り、当時の仲間に馴染み高校卒業と共に東京へ進学して今の会社に勤めだした。


穏やかで眩しい、ありふれた半生。


それなりに学業をこなしサッカーに夢中で打ち込み、時折親友と馬鹿もした。

多分あれも恋だろう、と今なら思う苦い淡い思い出もある。


けんいちは、久しぶりに郷里の空を思い出していた。

東京とは明らかに違う澄んだオゾン。

そこが真っ赤に染まるまで駆け回っていた毎日も、目の前まで迫るほどの富士の山麓も、眩しいほどに光りを湛(たた)えた駿河の海も今では遥か彼方の記憶に思えた。


「珍しいなあ、桜橋付近混んでますわ。土曜やのになあ。」


独り言のようにドライバーが呟く。


確かに西梅田のヒルトン前に差し掛かろうとし始めた頃から車の流れが悪くなっている。

ホテルは時間に余裕を持って出て来たので取り立てて焦ることもない。


新大阪に向かう前に取引先にもう一度顔を出して、午後には東京に着くまでの流れを巡らせる。


土曜でも出社している取引先の担当者に一度電話を掛けよう。

携帯の呼び出し音に意識半分、窓の外を後ろに後ろに流れていく灰色の高層ビル群を眺めた。


新御堂筋に乗ったら10分足らずで目的地に到着だろう。


窓の外は雨。

ほのかに重たい瞼を開きながらぼんやりと、そんなことを考えていた。