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3.東京、ときどき大阪。

2020.06.12 14:01


件の上京組の地元の飲み会の日は、あれよあれよという間に訪れた。


杉山が指名した場所はけんいちの会社からもほど近い繁華街。


その日、20時過ぎまでの残業コースのところを19時には切り上げて退社した。

外はすっかり陽が沈みエントランスの人影も疎(まば)らだった。

自動ドアの向こうでは容赦ない北風が待ち構えている。

けんいちもコートをしっかり着込みポケットに手を突っ込むと、ドアの向こうへ出た。


あの日、午後から少しだけ思考がどこか違う所に飛んでいたように思えた。

さくらの名前を耳にしたからではない、とそう思いたい。


動揺するほどのことがけんいちと彼女の間にあった訳ではない。

それでも騒つく何かがけんいちを支配するのだ。

出来ることなら会いたいけれど、だけど会いたくもない。

さくらももこはけんいちにとってそういう位置付けだった。

しかし、そういうイベントに限って予想もしない早さで巡ってくるのだ。


あの日以来、朧気に思えたももこの輪郭が非常にはっきりと思い出せるようになり、忘れかけていた学生時代の彼女の声や言葉、佇まい、表情が後から後から蘇った。


と、そうこうしている間に待ち合わせの店に到着してしまい、不思議と忙しない左胸を落ち着かせる暇さえなかった。


一息おいてからけんいちはそこの扉を開けた。

薄暗いシックな間接照明に細長い通路の奥から店員がいらっしゃいませと現れた。


予約を入れているのが杉山だったので彼の名前を告げ、店員に促されるまま通路を進んだ。

古いジャズのコンピレーションが流れる店内はほどよく満席で、乾杯の掛け声や若いOL達の世間話(きっと内容は恋だの愛だの)なんかを混ぜながら、さらにそこを賑やかにしていた。


二階の個室席の前に差し掛かると、けんいちの訳の分からない緊張は最高潮に達していた。


「こちらのお部屋になります。」 と、店員に言われて引き戸を開けるとあっ!と言う声に思わず怯んだ。


「大野くん!」


そう言われる方を見れば、やたら派手な女が目を丸くしてこちらを見ていた。


「何だ大野、案外早かったのな。」


「杉山。」


「大野くん、お疲れさま、久しぶりだね。先に始めてたんだ。」


「ああ、穂波も。」


上着を脱ぎながら居合わせた面々を眺めるけんいちに、ハンガーを手渡して労ってくれる。

穂波たまえは、昔から気遣い方がスマートで柔らかだ。


そんな器量良しな彼女が、もう10年近く杉山と交際していることがけんいちには俄(にわ)かに信じ難かった。


見渡せばよくよく見知った顔がそこにあった。


「大野こっちな、俺の横。」


杉山に言われるがままそこに座り、おしぼりを持って来た店員に生ビールの中ジョッキを頼んだ。

テーブルの上には皆それぞれグラスを乗せながら、遅れて現れたけんいちを懐かしいなあとそこでようやく労った。


「本当久しぶりね。覚えてる?」


「城ヶ崎だろ?一瞬、誰かわかんなかった。すげえ迫力の美人で。」


「ありがと。」

そうはす向かいで微笑む派手顔の彼女は、確かに昔から綺麗な作りをしていた。

裕福な家庭のひとり娘で、はっきり物言う性格のせいで割かしきつめの印象の女子だったが、その実気さくで面倒見がいい城ケ崎はクラスの女子の憧れの的だった。


そして、今はそれに輪をかけて美しかった。

彼女が笑うたびよく手入れがされた髪が、店の照明に反射し輝き、胸の上で揺れていた。


「大野、久しぶり。相変わらず男前じゃん。」


「平岡、本当久しぶり。」


「サラリーマンやってるんだって?スーツ、超かっこいいじゃん。」


「どうも。」


杉山の向こうからひょっこり顔を覗かせる、飄々としたこの男は平岡。

昔からどうも会話のペースを掴むのが苦手なけんいちとは反して、久しぶりの同級生にもテンポ良く愛想のいい笑顔を向けている。


そうこうしている間にけんいちの飲み物も運ばれ、杉山が改めて乾杯しようとグラスを挙げた。


「今回は残念ながら関口とさくらが欠席ですが、乾杯!」


小気味いい音を立てるグラス、料理を頼むと騒ぐ杉山。


そうか、さくら来ないのか。


気負って来た割に肩透かしを食らった気分だった。

僅かな安堵の後少しだけ、胸の奥が萎(しぼ)んだ。


「まるちゃん、今日とっても楽しみにしてたんだ。でもさっき急な打合せ入ったんだって。」


「そう。」


大野くんも来るよって言ったらとっても喜んでた、と穂波は笑った。


ジョッキをふた口で空にして、するとすぐに誰かが気を回して新しいジョッキが運ばれて来る。

久しぶりの再会に同級生達との会話は尽きなかった。


けんいちも久しぶりに楽しいお酒を飲んだ気がした。


それぞれに仕事を持ちながら、同じ街で暮らしている。

その事実だけで、不思議と明日も頑張れそうな気がした。

そして、今日この席に参加出来ていない彼女を想った。


彼女は一体どんな女性になっているのか。


会えなくて萎む部分と、会わなくて息つく部分が混ぜこぜになる。


まだ煮え切らない思考を、けんいちは再び運ばれてきたビールで一気に流し込んだ。



***



昨日の晩は、本当に楽しかったのだ。


平岡の勤めるテレビ局の裏側や、城ヶ崎が秘書をしている社長の話。


けんいちが普段生活していく中では絶対耳にすることが出来ない様な話題が目白押しだった。


あまりに楽しくて、その日も彼女から今日は何してるの?というメールに対して返信することも忘れていたもんだから、今朝出勤する間際に少しだけ機嫌の悪い声で電話がかかって来て焦ってしまった。


一先ずは今日の夜泊まりに来ると半ば強引に決まり、彼女は電話を切った。


そんなけんいちは昨夜の余韻を引き摺りながらネクタイを選んだ。


貰い物やら何やらで十数本ある中から、その日はエルメスの薄いパープルの物を選んだ。

けんいちは自分でネクタイを買う質ではないので、ハイブランドのそれもどこかからの贈り物だった。


クリーニングに入れたばかりのピンストライプのネイビーのスーツを着込み、それに合わせて黒の革靴を履いた。

スーツに袖を通すだけで背筋がしゃんと伸びる気がした、会社勤めをしている、サラリーマンとしての自分にスイッチを入れるのだ。

それは入社した頃から変わらなかった。


今日は朝から忙しかった。


新しく販売するツアーの行程が大まかに企画から上がり、それに伴い札幌市内のツアーのプランを交渉する段取りを組んだ。

それと並行して午後からのデザイン事務所との打合せ。

これはハネムーン向けの新企画パンフレットで、そこに掲載予定のハワイのホテル仕入れ担当がけんいちのため同席する運びとなった。


午後の打合せは14時から。


手早くTODOをチェックして取り掛かる、そんな忙しない1日になるのは必須なので、自然とけんいちの脳裏から件の彼女の存在は無くなっていた。


昼食を摂る間もなく打合せの時間になり、けんいちは腕時計を見遣るとファイルを纏めて席を立った。

空腹だったがどうにか1日乗り切れそうな気分だった、慌ただしさと忙しなさで軽くハイになっているのだ。


オフィスの廊下を打合せのある会議室まで急いだ。


ガラス張りの向こうは今日も実にいい天気だった。


「すげえいい天気。」


思わず目を細める、と同時に


「超いい天気。」


と、 けんいちの独り言にかぶさって聞こえた感想は、独り言とは到底呼べないくらいのものだった。


ふと視線を前にやると、アイボリーのスカートが弧を描く通路の向こうに見えなくなるところだった。


「でけえ独り言。」


と、僅かに呆れはしたが、特にそれ以上気に留める事もせずけんいちもまた、進行方向へ足を進めた。


会議室の扉を開けると広報担当の社員とデザイン事務所の人間がもう席に着いていた。


「あ、お疲れさまです。」と広報に声をかけられ、けんいちもお疲れさまですと返した。


普段の2分の1のスペースでスクール形式の机を1つだけ向かい合わせにして、即席の打合せスペースが作られている。


デザイン事務所の人間に向かい合う様に、広報の社員の左側に腰を下ろし打合せ資料を受け取った。


「今回掲載して頂くハワイコンラッドの仕入れ担当の大野です。」


「大野と申します。どうぞよろしくお願いいたします。」


広報担当にそう紹介され、すっかり手慣れた様子でけんいちは名刺を交換した。


「大野さん、どうぞよろしくお願いします。」

いやあ男前ですねえ、と、笑うデザイン事務所の担当者も人目を惹く顔立ちをしていた。


黒いジャケットを上品に羽織り、ストライプのシャツにワンウォッシュのデニムをバランス良く身に付けている。

180センチ近くあるけんいちと並ぶ上背に、目鼻立ちのはっきりとした面立ちをしていた。


会議室の扉が再び開いた。


「お、さくら。始めるぞ。」


「すみません、ありがとうございました。お手洗いもバッチリいけました。」


と、伸びやかでハリのある声が返ってくる。

打合せ前のお手洗い、確かに大事だよなあ、なんてことを思いながら扉を背にしていたけんいちは声のする方を振り返ると、小柄な女が1人こちらに向かって歩いてくる。


よく見ると先ほどの独り言女とよく似たスカートを履いている。


「今回のパンフレットのデザインを、彼女が担当させて頂きます。」


その女はけんいちの目の前までやって来ると、鞄をまさぐりようやく見つけたであろう名刺入れから一枚差し出しながら微笑んだ。


「さくらももこです、どうぞよろしくお願いします。」


と、確かにそう言った彼女に、けんいちはそのまま釘づけになった。