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5.東京、ときどき大阪。

2020.06.12 14:29

「さくらに会った。」


そう告げた時の杉山の顔、目が点とはつまり今この顔。


ああそう、と言い終えない内に、そいつはまだジョッキから口を離してもいないのに盛大に吹き出した。


「何がおかしんだよ、おい泡飛ばすな。」


けんいちは眉根を寄せて、杉山の傍から自らの取り皿を素早く退けた。


「いやあ別に。大野がさくらに会ったとか言うからさ。」


にやにやという形容詞を背負い語尾を間延びさせながら、けんいちの顔を覗き込んできた杉山に枝豆の殻をお見舞いした。


「全然、おかしい話じゃないだろ。」


けんいちは口を尖らせると、俄かに腹が立った。


「いやいや、世間て狭いなあ、と。穂波が聞いても驚くだろうなあ。」


水曜日の居酒屋にはよく似た年のサラリーマンから学生からほぼ満席だった。

 品揃え豊富で価格帯もリーズナブルな大手チェーンのそこは、仕事帰りに男同士で連れ立って立ち寄るのにうってつけだった。


店内に流れる最新のJ-POPを杉山は時折口ずさみながら、そうかあ。と呟いた。


「さくら相変わらずだった?」


鮪のユッケに乗っている温泉卵を潰しながら杉山が尋ねた。


「うん、いやでも。わかんなかった。名刺出されてさ、さくらももこですって言われなかったら気付かなかったと思う。」


それぐらい、再会したももこは見違えていたのだ。


「何か目の前でさレイアウトがどうとかモデルがどうって話してるんだ。」


「あのさくらが?」


「そ、あの、さくら。」


「毎度遅刻か遅刻ギリで、授業中の居眠り、赤点、追試、補習の常連の、あの、さくら?」


そう、あの、さくらだ。


杉山は枝豆を口に運びながら、やっぱり何が可笑しいのかくつくつ笑いを堪えている。


「大人になったんだなあ、俺たちも。」


と、そこまで言うとようやく落ち着いたのか、杉山はジョッキを空にしておかわりの生中ジョッキを注文した。


「何をしみじみと。」


「だってね、俺と大野はサラリーマン、穂波はOL、あのさくらはキャリアウーマンもどき。そして今もこうして当たり前みたいにつるんでる、想像もつかなかった。」


ま、さくらのキャリアウーマン説が一番予想外だけどな、とも。


「確かにな。」


けんいちも後を追うようにジョッキを空ける。


「でも俺な、大野がさくら以外の子と付き合ってるのも想像つかなかったわ、全く。」


「はあ?なにを。」


「だってよー、静岡に戻って来た頃から大学卒業くらいまで、大野ずっとさくらさくら言ってたじゃん。」


「言ってねえよ。」


「あれえ、そうだっけか?」


いやいや、でも特別だったろ?と杉山に尋ねられると、けんいちは口をつぐんでしまった。


「さあ、どうだったかな。」


「はいはい、素直じゃあない素直じゃない。そんな大野くんはゲソがお似合いよ。」


なんて杉山は相変わらずの調子で、けんいちの皿にゲソの唐揚げを取って寄越した。


「おまえはね、本当に。」


この男は全て見通した上でいつもこういう事を吹っかけてくる。


それで狼狽えるけんいちのことなど、微塵も気には留めていないのだ。


「月に一回そんな気分になるんだ、あの頃は全く想像もしてなかったのになあって。」


「どんな気分だよ。」


この世界にもしも変わらないものがあるとしたら、例えばそれは杉山と共有している他愛もないこんな時間。


学ランを纏っていた頃から何ひとつ変わらない。


けんいち自身の容姿や思考が日ごと形を変えて、周りの環境や生活も静かに移ろいだ。


あの頃抱いていたももこに対する想いも、また然り。


「また皆で飲みに行きたいなあ、今度はさくらもさ。」


また企画しよっかなあ、と杉山はジョッキを傾けた。

けんいちはすっかり冷めただし巻きを2つに割ると、それを頬張った。

冷たい出汁が口一杯に溢れてそうそう噛まずに飲み込んだ。


でも特別だったろ?


特別なのは、恐らく初恋だったから。


今思い返すとわかる、彼女への気持ちがきっとけんいちの初恋だった。


誰しも初めての恋は美化して思い出として眺めたりする、そういう物だろ?


そう言い聞かせながらも杉山のその一言は、けんいちの鼓膜の向こうで静かに不思議な波紋を描いていた。