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3.彼女の恋人。

2020.06.12 15:22

けんいちが連れて来てくれた場所はお洒落な大衆食堂という表現がぴったりだった。


大衆的とお洒落が結び付かないももこだったが店内に入ってなるほど、と合点がいった。


多分築年数の古い家屋を上手くリフォームして、カウンターとボックス席を拵えた店内には微かにジャズが流れ、都心の昼間とは思えない空間は酷く魅力的に映った。


そこで食べた親子丼がとても美味しかったことと、目の前でけんいちが同じ物を食べている景色がより鮮明に焼き付いた。


1時間も充たないランチタイムを終えて、けんいちは言葉通りももこを会社の傍で降ろすと「またな。」と国道の中に見えなくなった。

 

夜中にふと目が覚める、働く様になってからももこにはよくあることだ。


しんと空気の冷えた室内で薄く目を開けて携帯のディスプレイを確認すると4時23分を回ったところで、昼間の出来事をぼんやりと夢に見ていた自分に冴えない頭で溜息を吐いた。


深い夜闇に目が慣れてしまう前に再び瞼を閉じる。

そんな右隣で寝息をたてるたかし。


昨夜遅くにももこの家を訪れたたかしは少しだけ酔っていた。


お店を出す際とてもお世話になった人と食事に行っ

て来たのだと言っていた。


お酒には滅法強い彼が僅かに上機嫌な様子でももこに笑いかけるので、ももこもつられて笑ってしまった。


その後触れた唇からは鈍い葡萄の薫りと、偶然にも昼間嗅いだ煙草の匂いがした。


「たかしくん煙草吸うの?」


短いキスの合間にそう尋ねると「さくらの前で吸ったことなかった?」と、唇がそう動いた。


そのまま右耳の軟骨をやんわり噛まれたり瞼や鼻筋を舐めたりする戯れ言に始まり、酒の功名で熱を帯びた掌が優しく背骨をなぞるので思わず肩を竦めてしまった。


「知らなかった。」


「昔程は吸わなくなったけど、たまにね。」


そうなんだ、と頷きながらあれよあれよという間に柔いシーツの波に飛び込んでいた。


もう幾度この部屋で彼を迎え入れただろう。


たかしと付き合い始めて気付けば2度目の冬。


彼の寝起きの悪さや、実は視力が弱くて仕事以外では裸眼なため愛嬌はあるのに眉間に皺癖が出来そうなこと、女顔を気にして髭を伸ばしてみたけど不評だったこと。


そして歯ブラシやスウェット、彼のための物がこの部屋にも少しずつ増えだしたこと。


17の処女でも乙女でもない、しかし未だに恋に恋するももこの部分はたかしによって確実にくすぐられていること。


彼と過ごした時間は静かに降り積もって行く。

隣で寒さに肩を寄せる仕草を見せる彼にブランケットを掛けなおす。


ついでにずり落ちかけていた羽布団も引っ張り上げてお互いの肩まで持ってきた。


その時カバーのペイズリーが確認出来る位目が慣れてしまった事にしまった、と思った。


たかしが着ているコットンスリーブのティーシャツでは寒いだろうに。


寝てる間に体温の上がる彼にはそれが丁度良い位なのだろう。


この部屋ではこの季節窓際はしんしんと冷気が伝わるので、カーテンを引いてるにも関わらず布団の隙間から侵入してくる空気に一度は身震いを覚える。


たかしが訪れるようになってからはそんなことも無くなった。


ももこの首の下に差し入れられていたたかしの腕をそっと下ろしその肩口に頬を寄せると、心細い暗闇の中でたかしの規則正しい寝息と血潮を巡らせる心音だけがやけに遠くに聞こえた。


半日前に「またな。」と別れたけんいちのことを思い出して、またなという当てもない約束に取り留めのない期待を寄せてしまう自分。


大野けんいちに再会してからというもの、どうしても目に映る生活に現実味を無くしてしまった様な気がするのだ。


昔の記憶だがけんいちに対するももこの感情は曖昧なものだった。


彼氏や彼女の存在が周りで気になり始めた年頃に、たまたま目に留まって離れなかった異性。


それが、大野けんいち。


ただ、当時のももこがその感情をそれ以上に発達させていたとしたら、また違う形で思い出になっていたのかもしれない。


未消化で未発達なままやり過ごした気持ちが今になって図々しくも心を捕える事に僅かな憤りすら覚えた。


今のももこにはたかしがいる。


優しくてそれはそれは暖かな彼、そんなたかしに恋をしている。


確かに確実に、恋しいと泣きたくなる程に。


その隙間を縫うようにじわじわと染みてくるものを食い止めたくて、ももこは再びその暖かな肩に額を押しつけた。