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4.彼女の恋人。

2020.06.12 15:26

冬空で雨雲は中々憂鬱なものだ。


今朝カーテンの隙間から覗き見た本日の天候は明らかな下り坂、これはきっと雪になるんだろうなと内

心そこまで巡った所でようやく体を起こした。


セミダブルのマットレスの左側にはまだ起きる気配のないたかしが身動ぎ1つ見せず、背中を丸めて横たわっている。


昨夜、ももこが感じていたざらざらとした気持ちは今朝になると嘘の様に溶けて無くなっていた。


寝呆けていたせいもあるし疲れていたのだろう、だから妙に昼間の穏やかな時間を思い出したり恋しがったりしたのだ。


そうに違いない、それがももこの出した結論だった。


たかしの起床時間はももこのそれよりもまだ後。


こうしてたかしがももこの家に泊まりに来た朝でも、ももこはいつも通りに起きて身支度を始める(ちょっとやそっとの物音で彼は起きないのだ。) 。


テレビを点け歯を磨き顔を洗いメイクに取り掛かり、チークをのせて完成という時ようやくたかしが寝返りを打ったり伸びをしたりする。


そして「起きた?」、そう尋ねるももこに「起きてない」なんて仕様もない温い返事を返すのだ。


そのまま放っておくとたかしは再び布団の中へと消えてしまうので、そうなる前にももこは良く冷えたペットボトルを冷蔵庫から取り出し、彼に握らせ飲むように促した。


「まだ寝ててよかったのに。」


たかしはえ?と目を丸くすると欠伸を噛み殺してももこを見た。


「なかなか起きられないからって、目覚まし代わりにあんな冷たい水飲ませてくるのに?」


信じられない、とたかしが大袈裟な声を出すもんだから思わず笑ってしまった。


薄く日射しの遮られた国道に沿って、2人並んで家を出た。


あの後それでもやはり寝呆け眼のたかしもようやく体を起こし、のらくらと仕度を終えた。


彼は本当に朝が弱いのだ。


低血圧な体質も手伝って、本人曰く朝はスライム状態になるのだそうだ。


その言葉の真意はももこにはいまいち伝わらなかったが、朝のうつ伏せの状態から1ミリたりとも動かず泥の様に眠るたかしを見ると妙に納得出来た。


針金の様な街路樹は北風に吹かれるたび頼りなく揺れ、それを横目に肩を竦めるたかしはまだ少しだけ眠そうだった。


そしてそんな彼のオリーブ色のアーメンのブルゾン(先月ジャーナルスタンダードで買ったその場で羽織って帰った)を目の端に納めながら、ももこもストールをもう一巻きさせた。


「朝の空気が骨身に染みますねえ。」


たかしの手は何も言わずにももこの掌を捕えた。


「今のすごくおじさん臭かった。」


「そう?いつもさくらが言ってそうなこと真似てみたんだけど。」


どういう意味?、とももこが眉間に皺を寄せて見せるとたかしは小さく吹き出した。


国道を南に南に7分程歩いた所でバス停だ。


そこでももこはバスに乗り、たかしは近くのコインパーキングのミニクーパーで1度帰宅する。


付き合い始めの頃はたかしがももこを職場へ送り届けて行ったりしたこともあったが、ももこの同僚に目撃されて以来ももこがそれを嫌がったのだ。


緩やかな坂道を下り2人の足が止まっても尚、繋がれた掌をももこはぼんやりと見つめた。


厚い雲の隙間からは朝日すら射し込まない。

時折刺すような北風はももこの前髪を散らして揺らし、鼻の先が冷たくて口元までストールを引き摺り上げた。


「じゃあ、ここで。今日も1日頑張って下さい。」


そう言うとたかしはももこの依(よ)れたストールを綺麗に巻き直してやりながら子首を傾げてみせた。

ジャガードの厚手のストールが下唇と顎の間に優しく触れた。


「たかしくんもね。」


そう返すと「了解です」なんて笑い、程なくしてももこはバスに乗り込みそれが見えなくなるまで彼はそこを動かずにいた。


そんな姿は主人の帰り待ち焦がれて止まない彼の愛犬を彷彿させてならなかった。


そしてバスは駅まで走り、ももこもいつもの朝の様に地下鉄を乗り継ぎ渋谷に出た。


通勤のための同じ様な人波に流されながら途中、コンビニで朝食を買いながらこの街のどこかの人波を同じ様に流されているであろう誰かを思い出していた。


地下鉄の階段を上がり地上に出ると、陽射しは射さないものの太陽はきちんと昇って来たことを実感することが出来た。


この日の夜は確かに予想通りの雪で底冷えの晩だったとその後も、ももこははっきりと思い出せた。


今思うとそれくらい鮮やかで密やかで、甘やかで静謐な夜だったのだ。


オフィスに入ると既に出勤していた社員達と朝の挨拶を交わし、席についてパソコンを点けた。


朝礼が日常通りに過ぎ、ももこも新規依頼の打合せスケジュールを営業と照らし合わせたりしていた。

10時を少し回った頃鳴った電話はももこ宛だった。

それはけんいちの会社のパンフレットの印刷を依頼している印刷会社からのもので、入稿と納品スケジュールの確認をさせてほしいといった内容だった。


ももこは電話口で伝えられる言葉に頷きながら手元では手帳とファイリングされた資料を必死に捲り始めた。


通常なら全て前もって伝えておけばこのような連絡が入る筈もない事だけに色んな疑念が駆け巡る。


それはもう色んな想定で、どれも最悪の事態を指し

ていてももこの脳内は光ファイバーなんて目じゃない位に(光速なんてものじゃない)色んな回路を繋ごうと必死だった。


隣でその様子を見ている営業もただならぬ雰囲気に、ももこが広げた資料を彼女の目に付くように並べだした。


その間もオフィス内は通常通りの業務がこなされ、設置されたスピーカーからはいつも通りのFMがビートルズなんかを流している。


そして印刷会社から伝えられた用件が巡らせたそれらの内に当たると判明した瞬間、ももこは今すぐ地球が消えるかはたまた自分が地球から消えるか、なんて事を祈らずには居られなかった。


***


「スケジュールがテレコになっとってんな。」


そうももこに尋ねたのは件(くだん)の担当の営業だった。


テレコって?なんて聞かなくてもそれが“入れ替わった”を意味するのだと、その時のももこには何となく理解できた。


それ位、妙に冴えていた。


「はい。今回の前に依頼していたスケジュールと逆の進行になっていたようです。」


けんいちの会社のパンフレットと、その前に依頼をかけた専門学校のリーフレットの納品スケジュールが入れ違っていたことに先方の電話で判明した。


どちらもももこの担当した物で、スケジュールを提出するのも担当が行うため、原因は間違いなく自分にあった。


「それでどうなった?」


狭い社内で状況はすぐに伝わりももこの報告がなくても社長には全て筒抜けになっていた。


ももこは処刑台に送り出された過去の罪人達はこんな気持ちなのだろうか、等と有り得もしない想像を巡らせる反面、淡々と現状と解決策を報告する自分にどうしようもない違和感を感じていた。


「印刷はもう1度スケジュールを提出し直しまして、パンフレットを優先に刷り上げて貰うように依頼しました。ただ、予定していた納期には1日遅れると言われていますので再度交渉しています。」


「お客様は何て?」


「納品日は1日もずらすことは出来ないので予定通りの納品を、とおっしゃってます。」


それはそうだよな、とこちらに送られる視線をひしひしと感じながらももこも片時も目を反らすことが出来なかった。


「これから。営業に同行して先方に伺い、もう1度その旨を私の方からお伝えします。」


「いや、さくらさんはいいよ。お客様の所でのフォローは営業に入ってもらうから、とにかく印刷会社に最短納期を交渉することに専念して。」


社長は担当の営業を呼び営業はオフィスを出て行き、ももこはただ頭を下げひたすら机にかじりついた。


謝罪よりも何よりも、自らの失態で納期がずれてしまうことを防ぐ事を優先するべきなのに、ましてや彼の会社の仕事でこんなミスをしてしまうなんて。


頭の端で常に最悪の事態がこびりついて離れない。

ラジオが時報を流す頃に鳴った印刷会社からの何度目かの電話で、納期の日の午後にならどうにか納品出来る進行を立てれる運びとなった。


担当の営業にもその事を伝えももこは再び深く頭を下げた。


「今回は先方さんも納期に間に合うのならそれ以上は何も、てゆうてましたので。さくらさんもほんま同じミスしないように気を付けてもらえれば大丈夫だから。」


事務所に戻った営業はそう告げると穏やかに笑っていた。


入社以来からももこを知っているその人は「でもそんなミス始めてやったな、寝坊はしょっちゅうやったけど。」とも付け加えた。

それはそれで問題やわな、とからからと笑って見せた。


その日は他の仕事を進めながら、隅で顔を覗かせる罪悪感に心臓がちりちりと絞られた。


窓の向こうがすっかりと暗がりに浸り窓ガラスに映る誰かさんと目が合うと、それは何とも情けない顔をしていた。


ももこは1度だけ深く息を吐くとこの先の納期スケジュールを確認して帰宅することにした。


社長と営業に頭を下げ、お疲れさまと言葉を貰い事務所を出たのが19時を過ぎたあたり。


すっかりネオンを纏った街をやはり刺すような風が吹き抜け、ももこのストールを1度大袈裟に舞上げた。


北風に吹かれた頬の乾燥が気になったが最早化粧直しをする気力も湧かず、足取りも肩に下げたバレンシアガのバック(去年のボーナスで大奮発)も今は鉛の様に重かった。


駅へ向かう帰宅ラッシュの波に参加しながら、のろのろと携帯を取出し操作すると着信1件とメール3通がディスプレイに貼りついていた。


その着信の内1つがけんいちであったことに酷く驚いて、ももこは着信履歴を穴が開くほど見つめた。


彼が電話を架けてきたた理由は何となく、いや間違いなく察しがつく。

きっと今日の出来事を何らかの形で耳にしたのだろう、彼の事だから気に掛けての電話に違いない。


ももこは地下に潜る前に1度着信を残そうと発信ボタンを押したが、僅かなためたらいとちっぽけなプライドが疼いて呼出し音が鳴るか鳴らないかで携帯を仕舞った。


携帯は瞬間震え出し、ももこの心臓は縮み上がった。


ディスプレイにはけんいちの名前が表示され、慌てて降りかけの階段を戻ったのと通話ボタンを押したのは同時だった。


「もしもし。」


ああ少し吃(ども)ってしまった、あんまりにも焦るから。


『おい、ワン切りすんな。』


不躾な彼の声に息が上がりそうだった。


「ごめん、さっきの間違い電話だから。」


仕事終わった?、と訪ねる彼にももこの意味不明な言葉は届かない。


「今、事務所出たばっかり。大野くん電話くれてたよね、どうしたの?」


自分の声がやたらと白々しく聞こえたがこの会話で正解のはずだ。


『うん、俺も今終わってさ。暇だし飯でもどうかと思って。』


「大野くん水曜の夜に暇なんだ。」


『ほんと、すげえ可愛くないよな。水曜の夜くらいしか空いてないんです。』


お前に彼氏いるのが謎だと憎まれ口を叩かれながらも、けんいちの声を聞いただけで崩れたメイクや風に乱れた髪が酷く気に掛かった。


「私渋谷なんだけど、新宿かどこかで待ち合わせる?」


『ちょっと待って。俺そっち行くから、15分くらい待てる?』


「ええ、待てない。」


『本当、おまえってやつはさあ。』


彼との応酬のおかげで僅かに浮上したももこは、けんいちが現れるのなら何時間だって待てそうな気分だったし、今日のこの日に連絡を寄越したけんいちの顔を思い出さずにはいられなかった。


ももこはピンクやオレンジを滲ませている夜空を見上げて息を吐いた。


それは白く膨れ上がり、直ぐ様掻き消され鼻先は切れてしまいそうだった。


互いの受話器越しに同じような雑踏とクラクションと風の声を聞いた。


『じゃあ今から行くから。うろちょろすんなよ。』


しないよ、と応答しながらももこは携帯を頬に挟みコンパクトを覗きこんでいた。


そして、真っ白なランドクルーザーに乗ったけんいちが路肩に現れたのは、それから15分と経たない頃だった。