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5.彼女の恋人。

2020.06.12 15:35

けんいちの乗っていたのは、真っ白なランドクルーザー。


大柄なその車種を手慣れた様子で路肩に着けると、左側の窓を開け早く乗るよう促したけんいちから、ももこは目が離せなかった。


細かいストライプの効いたネイビーのスーツが仕事帰りである事を伺わせた。


「お疲れさま。」


と、けんいちに迎え入れられる時にはすっかり風に吹かれ冷えきった体は温い車内が丁度良いくらいで、ヒーターが苦手だと行っていた彼はこれが車内設定温度の限界なのだと笑っていた。


「こんないかつい車に乗ってくるから誰かと思ったよ。」


ぐるりと車内を見渡しながらももこは息をついた。


何の付属品も置いていない、あるのは最新のカーナビとオーディオとフロントに無造作に置かれたスティングのCD位の車内には、やっぱり嗅いだ事のある煙草の匂いが残っている。


外観通りゆったりとした車内で運転席に腰を下ろしたけんいちは、ふと自らのネクタイに気付いて実に気だるそうにそれを緩めた。


その時覗いたネクタイのタグがラルフローレンだったりしたので、ももこは再び息をついた。

まるで全く見覚えの無い、そこにいる酷く造形の整った輪郭から目を反らせずにいた。


「これ社用車?」


誤魔化す様に、ほんの出来心でそう尋ねてみた。


「なわけないだろ。」


けんいちの間髪入れないレスポンスに「だよね。」

そりゃあそうだ、と膝を打つももこにけんいちは僅かに口の端しを上げながら「シートベルト締めろよ。」と付け加えた。


けんいちはギアを切り替えると流れる車の中にしなやかに合流を決め、どんどんアクセルを踏み込んだ。


片道4車線を滑る様に転がる様に駆け抜ける。


普通乗用車より車体の高いそこから見える景色は絶品で、降るようなネオンも絡まるヘッドライトもどれもがいつもと違う物だった。


つい2ヶ月前までまともに連絡すら取り合っていなかったけんいちと、今こうして隣にいることがももこには信じ難い事の様に思えた。


今思えばこの横顔をいつも遠巻きに見ていた学生時代、ももこの歴史の中で最もけんいちとの距離が出来ていた頃だ。


当時のけんいちは絵に描いた様なスポーツ少年で、彼がグランドでサッカーボールを追う姿を女子達はああだこうだとはしゃぎながら眺めた。


定期試験は常に上位30番以内にその名を残し、ますます「大野けんいち」の名前に更に鮮やかな色見を持たせた。


ももこはそんな彼の小学校時代からを知っていたが、その頃からけんいちに対する印象は一寸の狂いもなかった。


それまで、何気なく目にしていたけんいちの姿に異様なまでの緊張を覚えたのは突然だった。


それは何気ないやりとりから感じた異性の匂いに始まり、けんいちと言葉を交わす、目が合う、仕舞いにはすれ違う廊下でさえももこは憂鬱に思えたのだ。


彼に対するえもいわれぬ緊張と動悸の理由は高校を卒業した後に気付く事になるのだが、その当時は避けて通る外為す術を知らなかったのだ。


街路樹の枯れた木立を後ろに見ながら都内を駆けるランドクルーザーは、ビルの隙間に燈色の東京タワー、冷たく灯ったヒルズに遥かレインボーブリッジの瞬く点灯をも映す。


あの頃のももこが今この瞬間を知ったら何て言うだろう、とそんな下らない問いかけの内に車が止まったのは品川の一角。


コインパーキングに車を止め2人はぽつぽつ歩いた。


けんいちが連れていってくれるお店はどうやら鍋の食べれる所らしい。


彼曰くお気に入りに値するとっておきの場所であることが、その迷いなく進む足取りと会話のトーンから感じ取れた。


ヒーターの弱い車内に居たとはいえ、やはり外気は冬のそれでももこはストールを2周させたし、けんいちはコートの襟を合わせた。


そのシルエットの美しさに、彼の深いネイビーのコートにも仕立ての良さを感じた。


「煙草いい?」


そう問うけんいちの唇から白く立ち込めては消える息を目で追いながらももこはどうぞ、と同じく色をした息を吐きながら承諾した。


けんいちが胸ポケットを探る見覚えのある仕草をすると、すぐに冷たい夜風にすっかり馴染んだ匂いが溶けて吹いた。


「大野くんて割と本数吸うの?」


「今は、そうでもないよ。」


「今は?」


「そう、一応気をつけたい年頃なの。」


じゃあ止めなよとももこが小突くとそれは無理、とけんいちが煙を吐く。


「煙草って美味しい?」


「中学生みたいな質問だな。」


「素朴な疑問。」


「不味けりゃあ、吸わねえよな。」


ええ、とももこがやたら悲壮な声で眉を顰める。


「さくらは吸うなよ。」


「興味はあるけど吸わないよ。」


「女の子は吸っちゃだめ。」


「それ、たかしくんも言ってた。」


けんいちはふうん、と僅かな相槌だけで、その吐いた煙とももこの息が夜に混じりゆっくりと滲んで溶けた。


コインパーキングからたっぷり7分弱歩いた所が今晩のディナー会場。


低い屋根瓦の木造の外観を煽る様に設置された照明が浮かび上がらせていた。


暖簾(のれん)も掛かっていないその店に、けんいちは何のためらいもなく潜(くぐ)っていく。


その後ろを、やや落ち着きのない様子のももこが追う。


いらっしゃいませ、と同じ年頃の店員が出迎え予約の有無を尋ねるとけんいちは自分の名前を告げ、そのまま個室まで通された。


勿論ももこは彼がこの店を予約していたことなんて知らなかったし、想像以上にスマートな立ち振舞いを見せるけんいちにただ呆気に取られた。


四畳程の室内に堀炬燵(こたつ)が造り付けられ、2人は机を挟んで向かい合った。


パンプスを脱いだ爪先はここで初めてすっかり冷えきっていたことに気付く。


堀炬燵の中に足を下ろすと痺れるほど暖かい空気に血液がゆっくりと巡りだし、ももこはすっかりほだされた。


一言掛かり店員は2人にお絞りを手渡し、料理を運ぶ旨を伝えた。


飲み物は、と尋ねる店員にけんいちがウーロン茶と答えた後にさくらは?と訊いてくれたので、ももこは躊躇いもなく「生中」と答えたので彼がしらっと視線を投げたのは言うまでもない。


「大野くん飲まないの?」


「お前は誰の車で来たんだよ。」


「帰りはタクシーでも。」


「いやいや、何をおっしゃってるのやら。」


そうあしらうけんいちの長い睫毛が彼の頬に落とす影1つ1つを、湯気の籠もったお絞りを鼻先にあてがい盗み見る。


真上から落とされた照明は通った鼻筋を滑り、頬を照らすその灯りに彼が目鼻立ちのはっきりとした造りだということを物語っていたし、眉下程の前髪はきらきら煌めきその表情はどんな肖像よりも美しく見えた。


それは、昔目にした古いグッチのモデルの様にも思える程。


そんな言葉遊びを楽しんでいると、すぐに先程の飲み物と鍋とその具材が運び込まれた。


鉄鍋をコンロにかけると「お疲れ」とウーロン茶のグラスとジョッキをかち合わせた。

麦芽の薫りとアルコールの刺激が空腹の胃に余すことなく染みていく感覚に、ももこはこの日1番の溜息を吐いた。


「この前もそうだけど。さくらって結構いけるな。」


3分の2減ったグラスを見てけんいちが少しだけ見直した様な顔をした。


「あ、いえ、嗜み程度です。」


口元を拭いながらもお酒は大好きとは、何だか言いにくかった。


鍋の中の半透明の出汁がふわふわと沸き上がる頃にはももこの胃袋はすっかり受け入れ態勢を整えていた。

白菜、白滝、春菊に榎茸、その横には薄桃色した鶏が構えていてももこは菜箸でそれらをつついた。


「ねえ、大野くんお鍋ってきちんとしたい人?」


つまりは鍋奉行か、とももこが問うとけんいちは特に気に留める素振りもなく「特に。」、と美味しく食べれたらそれでいいと笑った。


ただその後、納得したももこが野菜やら鶏やらを取り敢えず入れる(放り込む)、という暴挙に出た事にはさすがに眉を顰めていた。


「さくらって、本当相変わらずな。」


幾度となく彼の口から耳にしている、例の呪文。

呆れた様にただ懐かしそうに、そうけんいちが呟く度にももこは彼の目に映る自分という存在が酷く気になった。


「そうかな、私変わらないかな?」


これでも結構大人になったんだけど、と茹った鍋の中で開いた白菜を菜箸で揺らした。


「今の会社だって4年目だし、ちゃんと仕事だってしてるんだよ。」


今日はがっつりミスしちゃったけど、と語尾を濁しながら訴えるももこを「そういうとこ、変わらない」とけんいちが笑った。


鍋から立ち込めた湯気の向こうでけんいちが眉尻を下げて目を細めた。


涼しく作られたその瞳の優しい色、よく見知った様でそれは全く知らない表情だった。


新鮮さでなのか珍しさでなのか、確かに彼は非常に整った顔立ちではあるが、それとは異なる眩しさにももこの心臓は激しく揺れた。


けんいちは信楽焼の小振りの碗を2つ目の前に並べると、茹った出汁とそこに浮かぶ鶏肉やら野菜をざっとつまみ上げよそうと片方をももこに手渡した。


「ありがとう、モテる男は違うねえ。」


「茶化すなら食うな。」


「いけず言わないでよ。」


大野くんて本当に硬派だよねえ、と追い討ちをかけるももこに相変わらずな仏頂面を見せるけんいちをけらけらと笑い飛ばした。


「肉ばっか食べないで、野菜もしっかり食えよ。」


手渡された碗とその時触れたけんいちの指先の火傷しそうな程の熱さ、そして出汁の染みた鍋の美味しいこと。


いつかの思い出として取り出して眺めるたびに胸の裏側が熱くなる事がある。


これから先、例えば俯きたくなる出来事に遭遇して自分自身とはぐれてしまいそうな時。


そんな思い出が胸の奥で燃えて、血を巡らせる燃料になってくれる。


それがまさにこの時間の事ではないか、今のももこには思えてならなかった。