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6.彼女の恋人。

2020.06.12 15:45

「私、水炊きがあんなに美味しいって知らなかった。」


胃の辺りを擦りながら、言葉に反して満面の笑みをももこは見せた。


「満足頂けて、何よりです。」


背広の内ポケットに財布を仕舞いながら、けんいちも心なしか嬉しそうに笑って見え、2時間半前にやはりそうして暖簾をくぐった様に2人は店を後にした。


コートを羽織りこうして屋外に出る瞬間必ず春が来てたらいいのに、なんて仕様もない期待を抱くのだが外は案の定木枯らしの街、そんな彼女の希望は当然の如くあっさりと打ち砕かれる。


カサカサと葉の擦れる音に乾いた風が吹き付けて、けんいちと2人顔を顰(しか)め先程ランドクルーザーを止めたパーキングまでをのらくら歩いた。


「大野くん、今日ありがとう。」


ももこの言葉に、けんいちが今度はおまえが奢れよ、と言った。


「うん、吉牛でも何でもご馳走するよ。」


と胸を張るももこにけんいちはファストフードなんだ、と呟いた。


結局ビール3杯をあっさり飲み干したももこは僅かに上機嫌で、それは鼻歌(音程の外れたMr.Children)混じりにけんいちの半歩前を行く程だった。


「大野くん、本当にありがとう。」


「わかったって。」


「違う。今日会えて私、何か頑張ろうって持ち直せたから。」


今日の長い長い一日の出来事が、ゆっくりと巡っていく。

新人じゃあるまいしこんなミス、その事がももこのプライドと自尊心みたいな部分をじわじわと苛んでいた。


退社した後、けんいちからの着信を確認した時正直彼の声なんて聞きたくなかったし顔を合わす気分には到底なれなかったのだ。


なぜならももこの胸の内が前述の通りで、その事でけんいちに下手な励ましを貰った日にはそれこそプライドがズタズタだ。


ところがいざ顔を合わせてみると、けんいちはそんなつまらない慰めなど口にはしないし、そんな話すら知らないとでもいった自然さを見せた。


知らない筈なんてないのに、彼は大した役者だ。

再びランドクルーザーを前にして、けんいちはももこを左側へ促した。


「弱る日もあるよな。俺なんて、自分宛の電話が鳴るたびに憂鬱になるもんな。」


今度は何のクレームだよ、と溜息が漏れるらしい。


「大野くんて以外に普通なんだね。」


「どういう意味?」


全く脈絡がわからないとでも言いたいのだろう、小首を傾げながら車のエンジンをかけた彼が初めて自らの仕事について口にしたことで、普段は決して想像の出来ない姿が瞬時に脳裏を過った。


そんなももこの感嘆の眼差しに一瞥をくれてやると、けんいちは「俺なんて超凡人だぜ?」と唇を尖らせた。


「凡人?昔から超モテモテで、頭良くてスポーツ出来て、今どきそんな人りぼんにすら出てきませんけど!って感じだったでしょ?」


「益々意味が分からない。」


だから!と半ば興奮気味なももこと、はいはいと呆れつつ鼻先で笑うと俄かに距離を保ちながら、けんいちは煙草に火を点けた。


薄く開いた窓から暗闇へ煙が揺れて行く。


すっかり鼻に馴染んでしまったその薫りと仕草に、ももこはもう何も言わなくなっていた。


「俺、本当に凡人だぜ?サッカーばっかりやって、面白ければそれで良くてさ。」


あと強いて言うなら人よりちょっと短気、とももこが茶化すとウルセーよ、と柔く小突かれた右肩が擽ったくてやっぱり笑えた。


そんな彼も端々で、誰かに焦がれたりしたのだろう。


ともあれ自らを凡人だと評した彼は、日本人にしては幾らかある上背もそう、デザインの効いたスーツを気負わずに着こなす事の出来る雰囲気だってそう(まさにグッチのモデル)、ひとつひとつ上手く納まっているパーツはもう運命の錬金術だった。


彼は煙草の灰を2度落とすとキーを回した。


緩めのヒーターと腰に響くエンジン音に混じって聞こえて来た「さくら、ドライブしようか?」の問いかけに、ももこは息が止まってしまうかと思った。

そう彼は“特別”なのだ。



***


ドライブしよう、そうけんいちがハンドルを切り返してから20分程ランドクルーザーは都内を駆け抜けた。


車内の液晶は22時18分、平日だというのにこの街はこれからが本領発揮で相変わらず眩しいネオンが夜空を白く煙らせていた。


FMラジオが流すカーペンターズをBGMに、ももこは消費者金融や飲食店の電光が彩る気温の低い街並を眺めていた。


「ドライブとか言ってみたけど、さくら。どこ行きたい?」


車が発進してからただの1度も言葉を発していなかった彼からの問いかけだった。


「え、まさかのノープラン?」


「ドライブはプランには込まれていません。」


オプションです、と淡々と告げている彼はどこがいいかなあと呟いた。


こういう時じゃあここは?なんて気の利いた提案の1つも出来ないももこは、東京ウォーカーや関西ウォーカーなんて類の雑誌がなぜこの不景気にも需要があるのかをたった今思い知った。


「彼女とはいつもどんなとこに行くの?」


そこまで尋ねてからのももこの後悔は計り知れなかった。

行き先を決めかねているこの空気を払拭したいが為の、行き当たりばったりな発言をした自身の口を呪った。


「久しくドライブなんてしてないからな。」


それに彼女車弱いんだ、とけんいちが肩をすくめて見せたのでももこはその失態を感付かれずに済んだ。


彼の恋人は柔らかで女性らしい、きっと彼と並んでも引けを取ることのない人なのかもしれない。


見たことのない彼女の面影を、彼の横顔に浮かべながら少しだけ長い瞬きをした。


「お台場とか、東京タワーとか?カップルでもないのに微妙だよな。」


まだ行き先を決めあぐねている彼は、そのいずれもその恋人と訪れたに違いない。


「プラネタリウムとか、見たい。」


そう口を突いて出た言葉にけんいちは思わずももこを見た。


「プラネタリウムて、さくら似合わねえなあ。」


「失礼な人だねえ。よそ見しないで前向きなよ。」


それも単なる思い付きに過ぎない発言に、再びももこは小さく溜息を吐いた。



「確か中野になかったっけ?プラネタリウム的な。」


的なって何?とももこが問いかける頃にはもう、彼はカーナビを操作しながらそのプラネタリウム的な物を検索し始めていた。


路肩に停車した車内、温いヒーターの風を右耳に感じる。


ティアドロップモチーフのピアスが柔く耳たぶを揺らした。


薄暗い空間にナビの液晶の明かりだけが灯り、それが彼の長い睫毛に影を持たせている。


伏し目がちの目元が眩しくてそんな横顔を盗み見ながらももこは気付いてしまったのだ、その得体の知れない感情に。


顔を見るだけで声を聞くだけでなぜか泣ける位に心臓の裏側が深く深く締め付けられる。


たかしとは全く別の部分がしくしくと痛むのだ。


こんな感覚に遭遇するのは初めてではなかった。


ただ、久しく出会っていなかって感情はももこを困惑させるには充分だったのだ。


「中野にあるな。」


よし、とけんいちはナビの目的地を設定し終えると再びアクセルを踏んだ。


「プラネタリウムなんて子供の時1度行ったかどうかだ。」


そう彼が心なしかはしゃいでいる様に見え、ももこはそれ以上何も言えなくなってしまった。


そこから車はさらに進み、ナビ通りの場所へ到着したがもうそこは既に裳抜けの殻、鉄格子の降りたエントランスに中野ZEROの表札だけをライトが照らしていた。


そんな事は一目瞭然、時間も時間だというのにやはり無邪気に笑うけんいちは車を降りその近くまで歩み寄った。


「閉館22時だったわ、惜しかったな。」


時刻は既に23時を回ったところ。

ちっとも惜しくはないのに彼がそう言うので、冷たい夜の中街灯に照らされた笑顔に堪らず微笑み返した。


「残念だったなさくら。」


「うん。」


鼻先を摂氏マイナス1度の風が掠める。


冷えた鼻先から耳元から指先に睫毛、彼の言葉の1つ1つにそのどれもが震えた。


そうなのだ、もうすっかり大人になったももこには解ってしまっていたのだ。


この瞳に彼を映す色に、最早郷愁が滲んではいない事を。


あの頃よりずっと鮮やかな輪郭を、しっかりと捉え出してしまっている事を。


「またの機会だな。」


「そうだね、また、ね。」


恐らく無意識であろう。


けんいちからあまりに自然に、気軽に容易く振られる【また】にドキリとした。


私達にまたの機会なんてあるのだろうか。


こんな温い気持ちを抱いてしまった以上、その【また】が途方も無い霞の向こうに感じられた。


そしてそれを彼に気取られない様、曖昧に笑いながら横に置く。


存外器用な大人になったもんだなあ、と息を吐く。


ネオンを孕んだ空からは水蒸気と埃が小さな粒となり、静かに落ちてももこの鼻頭で薄く溶けた。


「通りで寒い訳だよな。」


「大野くん、鼻真っ赤。」


「さくら鼻出てる。」


そんな何も変わらないけんいちに、鼻を啜りながら何だかどうしようもなく泣きたい気持ちになった。


そういう彼はコートも羽織らずに出てきていた。

しんしんと、次第に数を増す景色をももこはもう、何も言わずにただ眺めていた。