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5.薄情者のラブレター。

2020.06.12 16:36

たかしとももこが合流する頃、埃(ちり)の様な雪が降った。


ちらちらと音もなく落ちて、コートの繊維の隙間に溶けては消え溶けては消えを繰り返していた。


傘を差す程でもなかったが溶けた水滴はとても冷たかった。


そして、駆け足でやって来たたかしの「待たせてごめん。」と言う息の切れた声や、鼻先まで真っ赤になっていること、触れた指先が心底冷えきっていたので、ももこはどうしようもなく心臓の裏側が苦しくなってしまった。


きっとそれが“切ない”なのかもしれない。


どうしようもなく訳もなく、彼の黒目がちの瞳を見ることがとても躊躇われた。


そしてたかしはももこの手を取り、2人肩を並べると一先ずこの天気をしのぐため、足早に歩きだした。


「久しぶりの実家はどう?」


駆け込んだのは、駅前のコーヒーショップチェーン店。


楕円形をしたコーヒーテーブルを挟んで赤いラブソファーに深く腰掛けた。

先程までの環境とはうって変わって、やや強めの空調にももこは小さく身震いすると深く小さな息を吐いた。


「やっぱしいいよね、実家は。」


だらだら寝転んでてもご飯が出てくるし、とももこ。


間違いないな、とたかしが眉尻を下げた。


「注文行ってくるよ。さくら何がいい?」


そう言うと上着のポケットを探りながら、たかしは立ち上がった。


「あ、私も。」


「さくらは荷物見ててよ。」


「じゃあ、マキアート。」


「了解。」


そう目を細めて、暖色系の店内をカウンターに向かって歩く背中を見つめた。


ひょろりと広いあの背中のどれだけ暖かいことか、ももこは嫌という程知っている。


だから尚のこと目を逸らしたかった。


氷の様な爪先と指先が僅かに湿っている様に感じた。


オレンジ色のランプシェードの下でカップをのせたトレーを受け取った彼は、やはり真っ直ぐこちらに戻ってきた。


「ありがとう、たかしくん。」


「どういたしまして。」


受け取ったマキアートの湯気はキャラメルの薫りがした。


「さくら、鼻出てる。」


たかしが呆れた様に笑った。


ももこはカップの縁に唇を添えたまま2度、鼻を啜った。


「もう年末かあ。」


たかしがコーヒーフレッシュのつまみを折るとパキン、と小気味のいい音が響いた。


「うん。明日は紅白だよ。」


「早いよなあ。」


「うわあ、信じらんない。」


「さくらとも、もう随分長いことこうやって居る様な気がする。」


プラスチック製のか細いマドラーは、いかにも頼りなくたかしのカップの中、白と黒の調和を測っている。


「うん。実際、ちょっと長いよ。」


ももこはまだ湯気の立ち込めるそれを、ゆっくりと啜り上げた。


「たかしくん、ねえ、どうしたの?」


そう尋ねたのはももこで、たかしは相変わらず眉尻を下げた穏やかな表情でももこを見つめ返した。


どうもこうもないのだが、何かが違っているように感じた。


それは前述の通り、もう長い事こうして居るからかもしれないし、普段は微塵も役には立たない“女の勘”というやつなのかもしれない。


ただこういう場合、大概大当たりだったりするのだ。


「たかしくん、、」


「さくらはさあ。さくらは、大野くんのことどう思う?」


それはいつかの夜に、たかしに尋ねられたことのある質問だった。


そしてその質問に、ももこは努めて明るく「幼なじみだよ。」と、答えその直後たかしから別れを切り出されたのだ。


その時のももこときたらどうしようもなく驚き狼狽え、ただたかしに「待って、嫌だ。」としか返せなかった。


ただ、夢中で解けた物を繋ぎ止めた。


それなのに、あの時と同じ質問をたかしは今、再度ももこに投げ掛けている。


穏やかな表情のまま、だけど決して揺らぐことはないだろうと思われる眼差しで。


「たかしくんは、私と別れたいの?」


「さくら、そうじゃないだろ。気付いちゃったんだよ、さくらと僕は一緒に居るべきじゃない。」


「色々突然だよ。居るべきじゃないとか、それはだれが決めることなの?理屈がわからない、私頭悪いからそれじゃあ分かんないよ。」


私はたかしくんと居たいんだよ、と喉の奥で震えた言葉を呑み込んだ。


「じゃあ私は誰と居たらいいの?」


「嘘つきだなあ、さくらは。」


もう充分分かってるくせに、とたかしの細くて暖かな掌がももこの頭部に添えられ、髪の毛を乱した。

小さな子供が悪さを見つかって、それを諭されるような優しさでたかしは微笑む。


「たかしくん、」


「何?」


「でもね、それを認めちゃったらたかしくんはもう二度と私には会ってくれないでしょう?」


「そうだね。勿論、今の形では確実に無くなるな。」


「そんなのは、嫌だ。」


「さくらは欲張りだな。」


欲張りでも構わない。


ただ、何もかもが突然の出来事でももこは狼狽えていた。


「さくら、大丈夫だよ。僕はちゃんと分かってるから、さくらが真剣に僕を好きでいてくれてた事。ちゃんと、全部分かってるから。」


だから僕を本当に想うならば、別れて欲しい。

年の瀬迫る街中の景色は色めき立っている。


道行く人もこの店内も皆、新しく訪れる日々を心待ちにしているようだった。


勿論、眼前の彼だって。


曇りも迷いもない、射抜くようや強い眼差し。


そして、それから逃げ回ろうとしていたのは紛れもない、ももこ自身だった。



***



穴が空いていた。


たかしは最後まで穏やかに笑っていたし、寧ろどこか晴れやかにも見えた。


そんな彼を余所(よそ)に、ももこには大きな大きな穴が空いていた。


本当に僕を想うなら、別れて欲しい。


たかしは、確かにそう言った。


一体いつからそんな想いを抱かせてしまったのか。


けんいちと再会して暫らく経って、たかしは1度ももこに別れを切り出している。


その日の事が薄らと記憶の底辺に滲み出す。


けんいちと年明け前に最後に会った晩、自宅付近でけんいちの車を降りた。


「じゃあ、また。」と、けんいちの車のスモッグが溶けて無くなるまで、そこを動けずにいたももこ。


その後すぐにたかしからの着信で「今日行ってもいい?」と尋ねられ、それからドラマの様なタイミングでオリーブ色のミニクーパーが目の前を過った。


その瞬間のももこの表情が一体どんな物だったかそれは後々知る所となるのだが、とにかく気持ちのベクトルの振れ幅はとてつもなかった。


車は綺麗に彼女の前で停車し、ゆっくりと開いた向こうにはもちろんたかし。


「さくら、今日出掛けてたんだね。ごめんね、急に押し掛けて。」


「ううん。」


ウィンドウ越しに車内からやや低い視線で彼は、実に申し訳なさそうに微笑む。


ひょっとしたら、と思う。

ひょっとしたら、たかしは今日の出来事は何も触れてはこないかもしれない。


誰と居たのか、食事してたのか、そういう細かな情報を彼が積極的に聞いてくるとは思えなかった。


仮にもしも尋ねられても何一つやましいことはない、胸を張ってそう言える真実なのに動悸が止まなかった。


「まあ、乗りなよ。寒いし、すぐそこまでだけど。」


パーキングまでドライブしよう、と彼はももこをそう促した。


けんいちの車の温(ぬる)いヒーターの後では、見慣れた狭い車内はむせ返る程だった。


「今日は何かあったの?」


「何かって?」


「たかしくんが突然来ることなんて、今までなかったからさ。」


ももこの元を訪れる際、事前に必ずメールか電話をくれるし、当日でもどちらかを欠かした事はなく、今日の様に突飛な連絡は初めてのことだった。


「特に何にもないんだ。今日仕事終わって、ふと、さくらに会いたくなって。」


「そか。ごめんね、待たせた?」


「ううん、本当にさくらが車から降りる瞬間位に着いたから。すごいいかつい車だね、ランクルだよね?」


「うん、多分。」


「本当に?もう、さくらいっつも適当だからなあ。」


たかしが呆れ顔でバックミラーに視線を移した。

「今度本当に国産車か聞いとくよ、大野くんに。」


一瞬、なぜその名前を口にしたのか自分で自分が分からなかった。

殆ど無意識の範疇で彼の名前が口をついて出たのだ。


「ああ、大野くんだったんだ。」


たかしは合点がいったようなニュアンスを含ませながら、そう頷いた。


「そうなんだ。ほら、今一緒に仕事してるって言ったじゃん。で、ついでにご飯してきたんだ。」


「そっか、道理で。」


パーキングの入り口に差し掛かるとブレーキを引き、たかしは深く1つ息を吐いた。


「道理で?」


「ううん。ねえ、さくら。さくらは大野くんの事どう思う?」


「どうって。男前で仕事が出来て、何か相変わらずモテモテだろなあって。」


「うん、それは僕もそんな気はするんだけど。そうじゃなくて。」


好きなのかなって、異性として。


決して誰かを悪く言ったりする事の無いたかしは、それは穏やかな人なのだ。


そんな彼の淀みのない、雑味もないせせらぎの様な言葉が心臓を鷲掴みにする。


それに反してももこの胸中はといえば、どれが正しい答えはどれなのか、どう言えば当たり障りが無いのかそんな事ばかりが巡っている。


「幼なじみだよ、地元の同級生じゃん。」


そう告げればきっとたかしはいつもの体(てい)で、そっか、と安堵の笑みを見せてくれるに違いない。


ところがももこのそんな都合のいい希望はあっさりとなし崩れ、たかしは安堵はおろかこちらに視線をやることもなく、ハンドルに顎をのせただ前を見つめていた。


街灯だけが車内を伺わせる唯一で、ラジオも会話も漏れてくる息遣いすらない、ただ前を見つめるたかしは何か物思いに耽(ふけ)っている様にも、何かを諦めてしまった様にも見えたのだ。


「ねえ、さくら。」


ようやく聞こえたたかしの声は一切の躍揚が感じられない。

それなのに、しんと優しく響いてくる。


「俺達、別れよっか。」


まるで次の休日の予定を立てている様な響きを持たせて、あっさりと告げられたのは試合終了のホイッスル。


ももこは言葉の意を介する事が精一杯で、ただただ目を丸くした。


「どうしたの、たかしくん。今日何か色々唐突だね。」


「うん、ごめん。」


「嫌。そんな一方的だよ、そんなのは嫌。」


「さくら。」


「どうして、急に。」


「さくら、誤魔化してない?自分自身のこと。」


「どういう意味?」


「僕にもよく分かんないや。」


ごめん、と呟いた声が鼓膜を震わせ、その時ももこは初めて取り返しが付かない事をした、と唇を噛んだ。


目の前の彼に気の効いた言い訳すら浮かばない、手放しで解放してあげる事も出来ない。


狡くて愚かな自分。


静かな車内はこうこうとヒーターの風が満ち、やっぱりむせ返ってしまいそうだった。