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8.苦い二律背反。

2020.06.12 18:04

緑色の看板が見える、本当にあっという間に都内だ。


ひと昔前の人間には考えられない位街と街は近付き、人と人は離れた。


そして今、渦中のももこはけんいちの言葉を反芻させている。


彼は何の話をしているのだろう。


ももこを好きだとかそういう類の話なのだけど、実際はもっと根本的な事にも思える。


そう、もっと根っこの話。


「あ、別に勢いで言ったんじゃないから、今の。」


狭い車内の中、けんいちの落ち着き払った声色を聞けばそれは理解出来た。


ただ、どの件(くだり)に彼がそんな事を思ったのかがどうしても分からなかった。


「勢いとか、え。もうびっくりだよ。大野くん、何言ってんの。」


不意討ち過ぎて喉が開かない。

情けない、声も震えている様だった。


「今すぐどうこうとかじゃない、お前がたかしを少なからず気にしてるのだって分かってる。だけど、俺。自分で自分を誤魔化すの無理だった。」


何とも力強い声だった。


ハンドルを握り、真っ正面を見据えるその気配すら頑として主張している様で、ももこは俯いてしまった。


背中が薄ら汗ばむ。


「何それ。」


え、と聞き返されるももこの言葉尻はもやもやと消え入りそうだ。


「急に言われたって、ね。分かんないよ。」


「だから俺、別に焦ってるわけじゃないよ。」


「だって大野くん、3年も付き合ってたんだよ?3年も一緒にいた人と別れて、私?」


「付き合ってた年数じゃないだろ。仮にそうでも、それでも、お前だったんだ。」


一緒に居たいのは、お前だったんだ。


けんいちの言っている事は最もだった。


自分にはその判断と決断が無かった為に、結果たかしに2度も別れ話をさせてしまった。


けんいちへの気持ちに気付いていたのに、誤魔化してはぐらかして一時の迷いにしてしまおうとしたのだ。


恥ずかしかった。

同じ気持ちで同じ境遇に居たのに常に逃げ回る事に夢中だった自分が、ももこは恥ずかしかった。


車は既に高速を降り今は交差点で信号待ち、音声ガイドに誘われて確実に目的地へと近づいている。


「皆が皆、大野くんみたいには割り切れないんだよ。」


「うん、分かってる。でも、」


「分かってないよ。自分を好きだって言ってくれる人がいて、付き合ってる人がいて。でも、それに応えられなくていつから自分ってこうなっちゃったんだろうって、そんな気持ち分かってないよ。」


思いの外(ほか)自身の声が大きかったのと、けんいちが何か言い掛けていた言葉を遮ってしまった気まずさで、ももこは固唾を飲んだ。


「落ち着けよ。」


「落ち着いてるよ、混乱してるだけ。」


混乱する方が余計にタチが悪くないのか、などと思いながら信号が変わり、けんいちはアクセルを踏み込む、車はまだ直進だ。


「混乱させたならごめん。だけど自分が割り切れなかったら傷つけるだろ、ややこしくしちゃうじゃん。分からないままだとしても何かしら決断しなきゃ、相手だって宙ぶらりんなんだぜ。」


けんいちの言う事ははどこまで行っても正論だ。

彼の言う通り、そうでなければどういう事になるかももこは痛い程知っている。


だけど今の彼女にけんいちの想いは苦く、彼の予想もしない方向でももこの胸に沈んだのだった。


なぜ自分は彼の様に素直に認められないのだろう、どうして無性に情けなくなるのだろう。


あの日のたかしがやっぱり通り過ぎる、未練ではなく罪悪感で。


息が詰まりそうだった、このまま彼の隣にいるのが途方もなく悲しかった。


メーター板には右ウィンカーのサインが点滅している、けんいちがハンドルを切る。


FMラジオのユーミンは物悲しいバラードを歌い上げる。


そろそろ標識に中野区が現れる頃合いで車を止めたのはももこで、けんいちは慌てて路肩に滑り込んだ。


「ごめんね、私ちょっと。」


「さくら。」


「今日はプラネタリウム、行けないや。」


車のドアに左手を掛けると同時に右手をけんいちに捕らえる。


暖かで大きな手、触れたくて触れられたかった手、それすら今はももこの涙を誘う。


ごめん、と呟いた声に彼は気付いてくれたのだろうか。


こじ開けた向こう側はやはり日射しの柔らかい休日で、枯れた植え込みの合間を縫ってももこは歩道に降りた。


後ろ手で扉を閉める寸前にけんいちがもう1度名前を呼んでくれたのに、ももこは振り向く事すら出来なかった。



***



路肩に止めた車内で、けんいちはももこが消えた曲がり角の辺りをぼんやり眺めていた。


今日、彼女に自分はとんでもない事を言ってしまったのかもしれない、そう思うと居ても立ってもいられなかった。


ももこに伝えた言葉はどれも正直な自分で、本当は口にしてしまうと安っぽくなってしまうのを恐れていた。


焦ってしまった訳ではない、ただ伝えておかなくていけないと思ったのだ。


ある種の牽制だった。

ハンドルに乗せた指先が冷たかった。


おもむろに携帯を掴み上げてももこの番号を呼び出したが、かけることはしなかった。


その代わり、また別の番号を引っ張りだしてそれにかける。


いつもならものの2コールで出る相手、思えば今日は休日だ。


そうぼんやりと考えているところで出たのは杉山。


『もしもし?』


「あ、俺。ごめん、今日休みだったな。」


『もしかしなくても穂波といるけど、お前からかかってくるってよっぽどだろ?』


受話器越しの声は何だか全てを見透かしている様な口ぶりだった。


「よっぽどっていうか、さ。」


大した話ではない、と前振りを置ながら事の経緯(いきさつ)を話せば、杉山の事だからいつものようにからかいながら笑うに違いない。


ところが以外、電話の向こうがやけに静かだった。


『大野、おまえ追っかける?』

と、だけ尋ねた。

さくらをこっち向かせたいくらい好き?、とも。


何を今更とも思ったが、杉山の気持ちも分からなくもない。


如何せんももこは手強い、平凡に見えて掴み所がない、どこか飄々(ひょうひょう)として見える。


他の女性と同じ様に甘い言葉で口説いて、食事して抱きしめる、では駄目なのだ。


そんな彼女を追いかける、それはどこか途方もない事に思えた。


今日会うまできちんと向き合いたいと意気込んでいた、それがまさか逃げられるなんて。


「わかんない。振り向かせたい、て気持ちと、ただ傍で。あいつが笑ってる顔を見れるだけで、それだけでいんじゃないかっていう自分もいる。」


『なんだそれ、愛だな。』


「茶化すな。」


何が可笑しいのか杉山はやっぱり笑うのだ。


「今日は俺が悪かったんだ、唐突過ぎた。そりゃあさくらだって焦るよな。」


『まさか慎重派の大野けんいちが、焦って自滅するなんてな。』


「自滅してねえよ、まだぎりぎりセーフだろ。」


『頑張れよ。ある程度時間置けばさくらだって分かるだろう、大野けんいちの献身に。』


献身、か。


本当はももこが車から飛び出した瞬間、ああ自分には無理だと思った。


戸惑わせてしまうだろうとは思ったが、ももこときたら最後は何故か半ば腹を立てていた。


まさか、告白してあんな風に腹を立てられるなんて。


その方面であまり場数を踏んでいないけんいちには、余計にどうすることも出来なかった。


それでも杉山の言葉に幾分浮上する事が出来た。


夜ももこに電話をかけてみよう、このままではしなくていい誤解を招いてしまうかもしれない。


誰かを好きだと思う、理屈じゃなくて気持ちは前を向く。


なかなか前進しなくてもそんな心持ちでいれば、些細な出来事でも手放しで喜べたりする。


けんいちはブレーキを下ろすと、ももこが消えた曲がり角をもう1度目の端に捕えてからアクセルを踏んだ。

 

 

逃げ帰ったあの日、けんいちから2度着信があった。


ももこはそのどれも出ること無く、そして彼からの連絡も途絶えた。


コールバックの覚悟を決めて、何度携帯を手に取っても結局発信は押せず仕舞いだった。


そんな事を繰り返してる内に1週間が始まり、彼と連絡を取る機会がどんどん先伸ばしになった。


自分でもどうしていいかわからなかったが、確かな事がただ1つ。


彼からの告白に涙が出そうだったこと、それはたかしの時とは全く別物だったこと。


あの日、昼下がりの高速で運転席に収まったけんいちを盗み見ていた。


陽を浴びた鼻筋に睫毛、さくらと動く唇に眩暈を覚えたし、2人に流れていた空気には、まるで昔からの恋人同士であった様な錯覚すら起こしてしまいそうだった。


昼食を買いに出たオフィス前の歩道には、やっぱり緩やかな日射しが注いでいる。


上着は羽織らずストールだけを巻いて出たが、もう刺すような冷たさはなかった。


確かに街には春の匂いが漂っていた。