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こぼれたミルクは還らない。

2020.06.13 00:07

すべてはほんのひとときのさじかげん。

溢れてとまらない。

涙、おもい、心、あい。


目が合う廊下が怖かった。


合うたび逸らされた視線が悲しかった。


そして彷徨った視線がいつか他の誰かを射止めると思うと、それがどうしようもなく苦しかった。


中学二年の梅雨はあっという間に過ぎて、夏服の襟には初夏の陽射しが燦々と降り注いだ。


当時の私は好きな人の話題よりも昨夜のドリフが気になって、おでこのニキビよりも新製品のチョコレートを選んだ。


いつまでも変わらないな、おまえは。


私を見てそう笑ったのは、一緒に馬鹿ばかりしていたはまじだ。


何が変わらないのさ。

あんたは私のどこ見てるの?


そう言われるたびに口を尖らせる私を、そういうとこ。と、はまじは言った。


ここ一年での私の変わり様は半端ないものだった。

体のあちこちが急に丸みを帯びだして胸なんて体育の度に気になって。


知らないふりをしたってどうしたって、朝が来るたびにどんどん変わって行く自分に自分が戸惑っていた。


月に一度が憂鬱になって、そんな日は男子と同じ教室にいるのも苦痛だった。


ほんの二年前には感じたことのない、やり場のない絶望にも似た気持ちに苛まれてた。


朝が来るのが怖かった。


目覚める度に変わる自分の容姿と、変わりたくないと駄々をこねる中身がだんだんちぐはぐになって噛み合わなくなっていった。


私を憂鬱にさせるのはそれだけじゃなかった。


大野くんの存在がきっと一番の原因の様な気がする。


小学校の頃転校した大野くんは、中学に上がると同時に清水に戻ってきた。


小学校の頃から彼の姿は眩しい限りで、だけどあの頃の私達にはそんなことお構いなしだった。


大野くんはクラスのいわゆる大将だったけれど決してがさつなことはなく、むしろ品のある所があった。


頭も良くて、正義感も強い。


そんな彼が成長したら、なんてその頃の私には到底予想もつかなかった。


その日は突然やって来た。


忘れもしない入学式の校門で、やけに派手な人集りの中はまじは私を見つけると手招きした。


まだしっくりこない学生服のはまじに吹き出した私は、その肩越しに目をやると思わず息を飲んだ。


はまじ達よりも頭半分伸びた長身。


まっさらな制服の中妙に馴染む詰襟。


何より、あの頃より少し擦れた声が「さくら。」と言った瞬間。


あの時から大野くんは、ただどうしようもなく私の心を騒つかせる存在になったのだ。

 

今日も体育を休んだ私を、幼なじみの無神経な男子達は大声でからかった。


「さくら最近付き合い悪いぜ。」


「今日のソフトボール、決着つけるって言ってただろ!」


ああ、もう。

気付かれたくないがこの男子達には少しは察してほしかった。


先週の体育で最後に得点を決めて勝ち逃げたのは、私。


それをしこたま悔しがって来週覚えてろよ!、とB級の台詞を吐かれたのは覚えていたけど。


ここまで体調が優れなかったらどうしようもなかった。


全身の血液が足りていない感覚、頭が重かった。


校庭の隅で膝を抱えて白球が舞い上がるのを眺めていた。


もたれたフェンスの冷たい感触に安心した。


いつの間に空はこんなに青くなってたんだろう。


山の向こうにはもう、入道雲が湧きかけている。


校庭は太陽が反射して限りなく白に近かった。


今日、体育を休んで良かった。


自分の判断は間違ってなかった、と顎を伝う汗を拭った。

今日調子に乗っていたなら間違いなくアウトだったなあ。


「さくら、お前大丈夫か?」


降ってきた声に顔を上げると、大野くんが私を覗きこんでいた。


唐突過ぎて声も出ない。


「おまえ、顔色悪くない?」


中学に入って再会した彼をこんな至近距離で見たことがなかった。


私は彼と目を合わせることが億劫になっていたし、妙にぎこちない空気を含ませてしまうことに気付いてしまったからだ。


深い深い黒髪は体育の後でやけにしっとりしている。


腕まくりの体育服から伸びる腕は筋張っていて、私のそれとは全く別の物だった。


「大丈夫だよ、ありがと。大野くんソフトは?」


「今は俺打順待ち。」


「そっか。はまじ今日こそは勝つってわめいてたからなあ。」


やっとの思いでそう返したけれど、やっぱり正面から大野くんを見ることが出来なかった。


「なんか、久しぶりにちゃんとさくらと話した気する。」


「そうかな。」


「うん。さくら、俺見たらいつも気まずそうな顔するだろ?」


「そんなことないよ。」


嘘だ。

そんなこと大ありだった。


だって大野くんは。


私の記憶の大野くんは、クラスのガキ大将で少しだけ乱暴で。


実はそんな彼がちょっと苦手だった。


だけど、今。


目の前にいる長身にあの頃の面影はない。


そこにあるのはやけに端正な眼差しと私とは全く造りの違う男の子だ。


「気まずいよ。だって大野くん、何だか別人みたいなんだもん。」


「何だそれ。」


「私とは全く違う生き物なんだ、て思ったら。」


大野くんは不思議そうに眉根を寄せて私を見た。


「当たり前だろ?だってさくらは女で、俺は男なんだから。」


「いつかさくらだって結婚とかして男に守られるんだぜ?そのために体だって俺とさくらじゃ随分違ってくるのは仕方ないだろ。もしも俺がお前を守りたいと思った時、さくらと同じじゃ駄目だろ。」


大野くんが私を守りたいと思ったとき。


「私を守りたいなんて。あんたも随分物好きだねえ。」


「もしもの話だろ、馬鹿。」


もしも、か。

いつか来るんだろうか、そんな日が。


だけど気付いたことが一つ。


私は彼の前なら変わって行きたいと思った。


彼に映る私は、女性の私であってほしい。


ああ、こんな気持ち知らなかった。


胸の奥に積もった何かが堰を切って溢れて来て、みるみる全身を包んだのはそのすぐ後のこと。


***


体育後の教室にはけだるい空気と、給食のけんちん汁の幸福な湯気とが入り交じっていた。


更衣を済ませた女子はそわそわと制汗剤をふる。


ピンクや青の缶は、フルーツやらミントやらはたまた石鹸の匂いやらを撒き散らす。


とにかくもう、教室はめちゃくちゃだった。


それはもう空腹の胃には過酷な環境だった。


隣で杉山が今にもこと切れそうだ、と鼻をつまみながら顔をしかめている。


とんでもない仏頂面だ。


そんな一角で机に突っ伏しているさくらが見えた。


そういえば体育の時から具合があまり良くなさそうだった。


腹を抱えて更に背中を丸めてうなだれている。


何気なしにさくらの方に足を進めた。


杉山がどうしたんだよ?と、尋ねた答えに生返事してさくらの隣に腰かけた。


「お前やっぱり具合悪いんだろ?」


「大野くん?」


「腹痛か?」


「大したことないよ、いつもなんだし。」


「いつもって、保健室行かなくて平気か?」


「いいよ。そんな本当そんなんじゃないから。」


そんなんじゃないから。と言うけど、本当に辛そうだ。


「でもお前、」


「いいの!これは本当、あの。毎月来る痛さだから、だからいいの。心配してくれてありがと、大野くん。」


ああ、俺は本当に無知だと思う。


保健体育で習う座学ではきちんと理解できているのに。


実践はからきし駄目なのだ。


顔面にじわじわと血が集まる。


このやり取りを見ていた杉山も机に突っ伏して腹を抱えていた。


涙まで浮かべて。


俺が真っ赤な顔で睨んでも全く効果はなかった。


中学に入ってさくらを初めて見た時。


元々小さい奴だったが、更に小さく見えた。


そう言うとさくらは「大野くんが大きくなりすぎなんだよ!」と、口を尖らせた。


何も変わっていない景色に安堵したのも束の間。


さくらは日に日に陰鬱な顔をすることが多くなり、俺はなぜか。


そんな彼女の横顔を見る度ざわざわと胸が騒いだ。


それからしばらくと経たないうちに、さくらとまともに言葉を交す機会はめっきりと減ってしまったのだ。


廊下ですれ違えば全く違う方に視線が泳ぎ、班活動で机を組めば一番端と端に座る。


いつしか俺までも妙にぎこちなくなってしまっていた。


だから今日久しぶりにきちんと交わした会話に、今まで物足りなかった部分がすっかり満たされてしまったのだ。


さらに欲を言うなれば。


もっとさくらと話がしたかったのだ。


訳が解らない。


俺はお喋りな方ではない。


自分の話も気心知れた男同士ならともかく、女子に話したいなんて思いもしない。


それなのにどうして、こんなにもさくらとの関わりを切望するのか自分自身でも解らなかった。


知りたいし知ってほしい。


「大野くん、今日は心配してくれてありがとう。これ食べてよ。」


さくらはそう言ってよく熟れたみかんを差し出した。


それを見つめながら、またじわじわ上がる体温の謎に俺は頭を抱えるのだ。



***



中学の三年間とはどうしてあんなにも一瞬の出来事なのだろうか。


人生が平均八十年だとしたなら、それは本当に瞬き一回分ほどの時間なのだ。


だけどその一回分で、俺はこんなにも心乱されて狼狽えて今に至るのだ。


四限目の教室でぼんやりと英語の授業を受けた。

明日の小テストに向けての書き取りでしんと静まり返っていた。


とは言っても過半数は居眠りを決め込み、歩いて回る教科担に教科書で制裁を受けるのが落ちなのだ。


気付けば窓の外には短く伸びる木陰が校庭に焼き付いている。


静岡に戻ってからもう五年目の初夏。


制服は詰襟からブレザーに変わった。


俺は相変わらず子供だけど、去年とは明らかに違ってしまった。


さくらも同じ高校に進んだが、もう会話に躓いたり気まずくなることもなかった。


廊下で目が合えば柔らかく微笑む。


照れくさくて逸らすことはあるけれどそれすらも心地良かった。


俺は彼氏にさくらは彼女になった。


二人恋人になり、俺はさくらをいつまでもどこまでも守りたいと思った。


手を繋ぎ口付けて抱き締めた。


あの頃、それがこれほど幸せなことだなんて夢にも思わなかった。


「大野、手が止まってるぞ。」


シャーペンをノックしながら視線を机に戻した。


ノートに単語を並べ書き取る。


It is no use crying overspilt milk.


覆水盆に還らず。


こぼれたミルクを嘆いてもどうしようもない。


一度知ってしまったこの気持ちをいつか涙で忘れて無くしてしまったとしても決して悔やまないことにしよう。


この先にあるものが二人別々だとして、俺も彼女もとっくに知ってしまったのだから。


明日例えば涙の結末が待っていたとしても、さくらを好きになってよかった。


胸を張って言えるんだ。