003/文学的な現実世界
今年のはじめ、少しの間だけエッセイというものを書いていた。
あのときは精神的にも不安定で、何かを叫ばずにはいられなかったのだと今は思う。証拠に叫んでいる内容はひどく粗暴で、鋭利で、独りよがりだった。恥ずかしくなった僕は書くことを一度やめた。しかしまたこうして、エッセイというものを書き始めている。
エッセイというものとの出会いはありきたりで、国語の古文の授業で扱った『枕草子』だった。
日記文学とも言われ、先生は茶化すように「現代なら清少納言はトップブロガーね」と形容した。
ブログのようなもの、と言われてもあまりピンとはこなかった。日記に文学的価値があるのは、単に平安時代を知るための歴史的資料としての価値だとばかり思っていた。
現実世界に価値を見いだせなかったようだ。
今年、エッセイのようなものを少し書いてみてからしばらくして『できることならスティードで』という加藤シゲアキ著のエッセイ集が発売された。元来ジャニーズオタクであるからというより、以前読んだ彼の『染色』という短編小説の虜になってからというもの、加藤シゲアキの、通称「シゲ先生」のファンなのである。
エッセイか、と苦い思いが蘇る。
そして僕は、いままで現代日本のエッセイを読んだことがないということを認めた。
『できることならスティードで』を読んで衝撃を受けた。
これは国語の先生が比喩した「ブログ」なんてものじゃなくて「文学作品」だと僕は感じた。
確かに体験談、日記ではある。けれど読む者に文学的な情緒の動きを感じさせるものだった。
僕は忘れていた。文学作品、芸術作品は「楽しませるためにあるもの」だと。
以前、書いていた粗暴な叫びは、到底文学作品とは呼べなかった。
事実をいかに読ませるか。その力をつけるためにこのエッセイ100本チャレンジを続けていこう。
小説は現実世界を切り取った作品だ。
じゃあ現実世界も美しく描こうじゃないか。
――この文章が果たして文学作品と呼べるのか、僕にはまだ自信がない。