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青のブルグミュラー。

2020.06.13 04:30

なんて呼ぼう。

こんなにも胸に溢れてくる、この気持ち。


空色のブルグミュラー。


ピアノを弾く指に、揺れる栗色の長い髪。


そんな背中に、いつだってひどく憧れていた。

レースのカーテンがひるがえると、甘くて柔らかい卵の匂いがする。


ああ、お母さんがオムレツを焼いてくれてるんだと、思いながら私はピアノを弾く。


ガレージからは、エンジンの音。


お父さんがお気に入りのワーゲンのキーを回す音。


白い壁の青い屋根、庭には楡(にれ)の木。


そこで、私は生まれた。


私が生まれたとき、街にはクリスマスカラーが溢れていた。


その日は記録的な大雪で、お父さんは渋滞に阻まれた道路に、愛しのワーゲンを乗り捨てて二回雪の上に転んで帰って来た、とお父さんの親友の大野くんが話してくれた。


私がその話をすると、お父さんはちょっと不機嫌になって、お母さんは微笑んだ。


私が生まれると、お母さんの親友のまるちゃんが私の子供部屋の壁一面に、絵を描いてくれた。


刺繍を施したみたいな優しいパステルの絵は、今でも少し陽に焼けて私の部屋にある。


「私、大きくなったらお母さんみたいになりたいなあ。」


夢は何?と尋ねられると、決まって必ずそう答えていた。


私が、愛してやまないお母さんのようになりたいと思うのは必然だった。


今だってそうだけど、我が家は本当にお母さんを中心に廻っていて、お父さんも私も本当にお母さんが好きだった。


料理上手で、優しくてしなやか、そして強い。


何より、私にブルグミュラーを弾いて聴かせてくれる。


お母さんの栗色の柔らかな長い髪も、ピアノを弾く指でさえ私の憧れだった。


だけど、お母さんは私がお母さんの真似をするたびに、ちょっとだけ困ったように笑った。


そしていつしか、私にブルグミュラーを弾いて聴かせてはくれなくなった。

 

「まさか、あの杉山くんの子供が音大生になるなんて!」


「それを言ったら、まるちゃんだってそうじゃない?あの大野くんの子供が美大生だなんて。」


だって私たちの子供よ!と、笑い声が響く。


レースのカーテンがひるがえると、お母さんとまるちゃんの声が聞こえてくる。


半月に一度こうやって、お母さんとまるちゃんは談笑を交わす。


まるちゃんが家を訪ねる前には、お母さんが決まってお菓子を焼く。


まるちゃんは、季節の絵葉書を書いては届けてくれる。


お母さんがブルグミュラーを弾いてくれなくなってから、私はモーツァルトやショパンに出会った。


弾ける曲が増えて、好きな作曲家にも出会った。


私が音大に合格した晩、お母さんが本当に久しぶりに私にブルグミュラーを弾いてくれた。


あの頃聴いた変わることのないブルグミュラーで、私は涙が止まらなくなった。


「どうして泣くのよ」と、お母さんは優しく私を抱き締めてくれた。


あの夜、私は肩まで伸びた髪を切ろうと決めた。


「ねえ、ピアノ弾いてよ。」


まるちゃんが私に手招きした。


「何がいい?」


「私、音楽さっぱりなんだよねえ。」


「ええ、どうしようかな。」


まるちゃんの隣でお母さんが笑ってる。


「じゃあ、まずは指ならしで。ブルグミュラーでも。」


何それ?と、まるちゃんも笑った。


私は、褪せてくたくたになったブルーの表紙をめくった。


お母さんのようになりたかった、だけどどう真似たって私は私。


それに気付いたときお母さんはもう、困ったよう笑ったりはしなくなった。


「ちゃんと聴いててね、これが私のブルグミュラー。」


私はいつだって、心に青のブルグミュラーを抱く。