「感染症と人間の物語」24 江戸のはやり病(5)麻疹②「はしか絵」
麻疹は小児科の病気だが、江戸時代には大人もかかった。こんな江戸川柳がある。
「麻疹で知られる傾城の年」
「傾城(けいせい)」とは遊女のこと。当時から、麻疹も疱瘡も一度かかれば二度とかからないことはよく知られていた。今回の流行でこの遊女は麻疹にかからない、ということは前回の流行時には生まれていて麻疹にかかっていたということ。そのため年を誤魔化していたことがばれてしまったという句。
江戸時代260年間に、麻疹は13回大流行した。つまり20年余りの間隔で流行した。特に文久2年(1862年)の流行はひどいものだった。「江戸洛中麻疹疫病死亡人調書」には江戸だけで7万5981人が死んだとある。江戸の各寺が報告した麻疹で死んだ人の墓の数はそれよりはるかに多い。なんと23万9862!『徳川実紀』によれば、6月16日の触で、未感染の14代将軍家茂の御座所へ麻疹病人や看病人の出入りを制限したにもかかわらず、家茂と御台所である和宮も罹患してしまった。また江戸の町名主斎藤月岑の『武江年表』はいつもと様相を一変させた江戸の町の光景をこんな風に描いた。
「例年は藪入りの少年でにぎわう浅草寺に千日詣の参詣人の姿はまばらで、両国橋界隈は納涼客を当て込んで立ち並ぶはずの屋台の燈火も見えず、まさに火が消えたようなさびしさ。江戸っ子が毎日通うことを習慣にしている銭湯や、不夜城であるはずの吉原ですら客がいない。そして、普段は魚市場に行き来する人でごった返している日本橋の上を、多い日は二百近い棺桶が寺に向かって渡っていった。」(鈴木則子『江戸の流行り病』より)
麻疹が流行したときには護符として、あるいは世俗画として、多くの「はしか絵」が浮世絵師によって描かれたが、そのほとんどは文久2年(1862)の大流行時に版行されたものである。「はしか絵」には麻疹の予防や心得、麻疹にかかっても軽くするまじないとか、食べてよいもの悪いものや、日常生活の摂生、病後の養生法などについて書き添えてある。たとえば、あるはしか絵。食べてよいものとして「かんぴょう、人参、とうり、大根、切り干し、どじょう、さつまいも・・・」、食べてはいけないものとして「川魚、梅干し、牛蒡、唐茄子、からすうり、そら豆、里芋・・・」をあげたあと、「きん物」(やてはいけないこと)としてこう書いている。
「房事七十五日、入浴七十五日、灸治七十五日、酒七十五日、そば七十五日、月代(さかやき)五十日」
ここで最初に書かれている「房事」は次の川柳の「かの事」と同じ。
「かの事がもうよいぞやと小児科医者」
男女の交わりのことだ。いずれにせよ、こんな形で禁忌が書かれれば、鰻屋、遊郭、湯屋、あんま、酒屋、床屋など商売が上がったりになる職業も少なくなかった。他方、麻疹不況の中で儲かったのが薬屋と医者。
「医者は巧拙をいわずして東西に奔走し、薬舗は薬種を選ばずして、商いはいとまなく、高価を貪るも多かるべし」(斎藤月岑『武江年表』)
そのため江戸の町のあちこちで、素人が突然麻疹の薬を売り始める。江戸時代の薬屋は免許制ではないから、誰でも薬屋になれた。また、宗教関係者は、このときとばかり競ってお札やお守りを売りさばいた。このような状況を反映した、商売あがったりの連中がよってたかって景気のいい医者や薬屋をたたきのめしている錦絵もある。
房種「麻疹軽くする法」
節分の夜に門にさした柊の葉を煎じて、麻疹をしていない子供に飲ませると軽くて災いがないと説く。また、タラヨウの葉に、まじないの歌を書いて川に流すと必ず軽く余病もないとしている。
歌川芳豊『麻疹手当奇法弁』医者の診察
吉「地いろ白くあと紅にかへりつつ つゆをふくめるはなのいろつや」
凶「地のいろもかはらずあともそのままに 霜をおびたるあきのくさのは」
一松斎芳宗「麻疹を軽くする伝」
飼葉桶を麻疹にかからないうちにかぶせると難を免れ、たとえかかっても軽くすむとされた。「はしかをばかろくするがの ふじのやま いづれのかみもさわりなすなよ」と歌が詠まれている。軽く「する」と駿河の「する」、「富士の山」と不治の病の「ふじのやま」が掛詞になっている。
歌川芳藤「痲疹送出しの図」
大きな童子として描いた麻疹神を、大きな桟俵(さんだわら)にのせ、御幣を立て、鏡餅を添えて送り出す「神送り」の絵
芳員「麻疹養生集」
人間の姿の麻疹神ともうかった医者を、商売あがったりの湯屋、芸者、てんぷら屋、寿司屋、遊女などが取り囲んでいる
芳藤「麻疹退治」
はしか流行によって被害にあった風呂屋などの職業の人々が麻疹神をこてんぱんにしている