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ペンと非暴力

書評『マンガで学ぶ動物倫理 』

2020.06.15 11:35

動物倫理の入門書は、日本ではつい最近までほとんど見られなかった。代表的な論客の名は伝わっていても、その議論を詳しく知る専門家が不足している、という事情がその背景にある。そうした中、伊勢田哲治氏は同分野の論争に精通する稀有な研究者であり、2008年には大部の倫理学概論『動物からの倫理学入門』で、動物倫理学に用いられる各種理論を仔細に解説している。本書『マンガで学ぶ動物倫理』(化学同人、2015年)は、初めて動物倫理に触れる人々を対象に、この分野で扱う諸問題のやさしい導入を行なうことを企図した入門書と考えられる。

本書の特色でまず気づくのは、その読みやすさだろう。軽快な漫画と平易な解説を交えた構成は、難しい書籍を読むのが苦手な層にも接しやすく、気楽に読み進めて読了できる。動物問題について考えたことがなかったという人々が、抵抗なく気づきの機会を得られるつくりになっている。

さらに、トピックの幅広さも注目される。ペットの去勢や殺処分、動物実験、肉食と畜産、動物園、野生動物問題、捕鯨、動物の権利論など、多岐にわたる議論が各章に割り振られ、法制度や倫理学の側面から手際よくまとめられている。特に動物倫理学の基本理論については、限られた紙幅の中でどこを抽出して解説すればよいか悩むところであるが、本書は限界事例の話を中心に、初歩的な事柄をうまく問題提起の形で紹介している。読者は堅苦しい理屈に付き合う感覚なしに思考を促されるだろう。

各章末尾と巻末に掲載された参考資料の紹介も充実している。すでに動物倫理をある程度学んでいる読者でも、知らなかった書籍や映画に出会えるに違いない。リストはやや玉石混淆の感があり、動物倫理の文献では優れたものがほとんど見られないが、これは本書が出版された2015年の時点で、まともな動物倫理の関連書籍が極めて少なかったことを思えば当然であり、必ずしも著者の非とされるべきではない。


さて、本書の特長をいくつか挙げてみたが、気になる点もなかったわけではない。本書の記述は、初学者からすると至って中立的・客観的に思えようが、動物倫理にある程度関わってきた者からすると、そう思われては困るところがある。実はそう感じたことがこの書評を書くに至った動機でもあるので、次にそれらの点を挙げたい。

まず、動物実験をめぐる本書の説明は、あたかも国内外における動物実験の規制が、実験業者によって積極的に進められてきたかのような印象を与える。例えば第3章では、19世紀に始まる動物擁護運動がなかなか動物実験を糾弾しない中、「第二次世界大戦後ごろから、研究者の間で、動物実験についてもルールを決めたほうがいいのではないか、という声が上がるように」なり(p.41)、さらに動物の権利運動が登場した後は、それに「対抗」して「研究者たち自身もガイドラインをつく」った(p.42)とある。

しかし歴史を振り返ると、動物実験への反対運動はフランスの生理学者クロード・ベルナールが実験医学を提唱した19世紀から存在しており、20世紀初頭にはロンドン大学の生体解剖を問うブラウンドッグ事件という大きな衝突もあった。動物実験は動物擁護運動が古くから抗議してきた批判対象の一つであり、実験業界はそれら市民の声を「感情論だ」「動物の擬人化だ」といって頑なにしりぞけてきた。ようやく動物実験の規制が進められだしたのは、ヘンリー・スピラをはじめとする卓越した活動家たちの努力が社会の問題意識を喚起した後のことであり、実験業界が進んで倫理的な自主規制を進めてきたかのような語りは問題をはらむといわざるを得ない。

同じ箇所の注釈では日本に関し、規制の遅れが目立つとしながらも、「2005年に動物愛護法が改正された際に『3つのR』の原則も法律の条文に盛り込まれた」(p.42)と述べられている(3つのRは動物実験の削減・代替・苦痛軽減を進める動物福祉の一種を指す)。が、この記述は噓ではないにせよ語弊がある。というのも、国内法における「3つのR」はあくまで題目にすぎず、具体的にどのような削減・代替・苦痛軽減の努力が必要かも定まっていない上、動物実験の実施者がこれを遵守しなかったところで何の罰則もないからである。日本には動物実験施設の登録制も免許制もなく、査察もなければ罰則もない。題目としての動物保護規定はあっても具体的な内容が伴っていないのであり、国内の動物擁護団体は何年も前からそこを問題にしている。本書では他にも「動物実験については国内法でも規制ができつつある」(p.55)、「ただし、本書[推薦図書]は動物実験に対するさまざまな規制がおこなわれる……前に書かれたものなのでその点は注意が必要」(p.145)といった記述が散見されるが、これらは日本の科学業界が動物福祉を徹底している、との誤解(致命的な誤解!)を初学者に与えかねない。

動物擁護団体と動物実験業者の対立をめぐっても、本書の記述が公平かは検証を要する。例えば第4章にはこうある。

実際に動物実験に携わる人たちからすると、動物実験廃止運動側の主張は、「データが古い」「偏っている……」「代替法の威力について楽観的すぎる」など、いろいろ不満があるようです。ただ、反論のために前面に出たり具体的なデータを出したりすると、会社や個人に対する新たな嫌がらせを生むのでは、と不安をもつ人も多いようです。動物実験の是非について、データにもとづいた理性的な議論をすることはとても大事です。そのためには、動物実験が必要だと考える側と廃止運動の側が、お互いを信頼できるような状況をつくっていく必要があると思います。(p.54-5)

私見では、これは絶対に実験業者が勝つ論理となっている。普通、相手のデータに問題があると指摘する時は、それに代わる正確なデータを示すのが議論の常識であるが、実験業者は相手(動物擁護団体)が「嫌がらせ」におよぶという勝手な不信を口実に、データの開示を拒んでいる。著者はその不誠実さを不問に付したまま、むしろ信頼されない動物擁護団体の側にこそ非がある、あるいはそちら側「にも」非があるといわんばかりに、互いを信頼し合える環境をつくろうと提言する――日本の動物擁護団体が、市民の権利としての抗議活動を超え、信頼を失うような違法の「嫌がらせ」におよんだ例は皆無であるにもかかわらず、である。全編を通し、著者は常に両論併記の中立的立場をとろうと努めているが、上の論理はどう解釈しても実験業者の肩を持っている感が否めない。

上の引用箇所でいわれるような信頼できる関係づくりの例として、本書では資生堂の取り組みを紹介する。資生堂は「動物実験廃止運動団体も含めたステークホルダーとの会合を定期的にもち、その結果として動物実験廃止を決定している」(p.54)という。これだけを読むと、あたかも資生堂が率先して動物実験の廃止に取り組み、動物団体に意見を求めてきたという印象を受けるに違いない。しかし実際の状況を知る人々に話を聞くと、資生堂は当初、動物実験の廃止などという考えは全く持ち合わせておらず、それを求める人々の声をことごとく軽んじてきた、とのことである。動物団体が集めた反対署名を資生堂は受け取ろうとせず、市民らがデモの開催や株主総会への乗り込みといった粘り強い手に訴えることでようやく同社は音を上げた。動物実験の廃止を達成したのは草の根の市民である。それを資生堂の自主的な努力のように思わせる記述は、不正と闘ってきた人々の貢献を歴史から葬ることになるだろう。

むしろ本書で描かれる活動家は「過激な運動」に関与する者たちということになっている。「過激な運動」とは「実験施設の内情を暴露したり、動物愛護法違反で実験者を告発したり、……動物実験施設に侵入し動物を逃したりといったこと」(p.42)を指すようであるが、私には施設の内情暴露や実験者の告発がなぜ「過激」なのか分からない。違法行為に及ぶ人物を告発するのは当然のことであり、悪事に染まった組織の内情を暴露するのも特にモラルに反する行為とは思われない。人身売買や児童労働の現場に潜入して、その内情を暴露するジャーナリストは「過激」とはいわないだろう(ちなみに同じ理由で、私は『ザ・コーヴ』の隠し撮り手法[p.115]も何ら問題とは考えない)。また、施設からの動物窃盗を「過激」というのであれば、その同じ施設の職員らによる動物の扱い――拘束、監禁、打撃、切断、強制水泳、毒物注射、疾病誘発、放射線照射、電気ショック、ギロチン――は何と形容すればよいのか。本書に限ったことではないが、犠牲者たちの置かれた惨状を脇に置き、活動家の行為のみを安易に「過激」と称して貶める習慣は社会正義の足かせとなる。知識人がこうした形で抑圧システムを強化することがあってはならない。なお、活動家が施設から奪った動物を逃がすという記述は誤解を招く。動物は良心的な里親に保護されるのであって、無責任に野に放たれるのではない。

ここまでは動物実験の記述に関する問題を挙げてきたが、動物園の説明にも疑問を感じた。本書は動物園に動物保護・市民教育・研究・レクリエーションという4つの役割があるとした上で、成り立ちについては「研究という役割が最初にあり、それが市民教育、さらにはレクリエーションへ拡張されてきた」(p.64)と説明している。確かに、1828年開設のロンドン動物園を、いわゆるzooの元祖に据えるならその通りかもしれない。が、動物園の起源を考える場合は、王侯貴族が植民地や征服地の珍しい動物を蒐集品として囲い込んだ私有動物園(menagerie)の歴史までさかのぼらねばならないと思われる。動物園はレクリエーション施設としての長い歴史があり、19世紀初頭に至って初めて科学研究という目的が付加された。


駆け足気味に気づいた点を拾い集めてみたが、誰でも読める入門書として、本書は一定の役割を果たしているに違いない。この本に出会ったことをきっかけに動物倫理を考えるようになった、という人々がいれば幸いである。しかし動物倫理はその性質上、立場によって記述の仕方が大きく異なってくる。私見では、本書の記述はなるべく中立的であることに努めながらも、結果としては動物産業に好意的となっている印象がある。おそらく動物倫理に「中立的」な記述はありえない。両論併記という形で、搾取肯定派の主張と搾取否定派の主張を同列に並べ、どちらも同程度に妥当でありうることを示唆すれば、それは結果として搾取の容認となる。作家エリ・ヴィーゼルがいうように、「中立は抑圧者を助けるが犠牲者を助けることは決してない」。したがって私が願うのは、本書を読んで動物を取り巻く倫理問題を知った人々が、今度は明確に動物擁護の視点から書かれた書籍へと進んでほしいということ、そして、動物倫理に関し日本で唯一無二の知識を持つ本書の著者・伊勢田氏が、そのような動物擁護論のテキストを編んでほしいということである。


謝辞

本稿を書くに当たっては、動物擁護団体PEACE代表・東さちこ氏から貴重な助言をいただいた。この場を借りてお礼申し上げたい。


【2020/06/18 追記】

本稿に対し、伊勢田氏よりご応答があった。併せて参照されたい。


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