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水は愛・うるおい

2020.06.15 14:02

皿洗ふ水は流れていなびかり 五島高資


Facebook・小松郷伸さん投稿記事

<コロナウィルス関連ニュース>

コロナ禍によって暴かれたのは、良くも悪くもそれまでの人間関係でした。特に緊急事態宣言以降、わたしたちは身近な人々の言動に激しい怒りを感じたり、呆れ返ったりすることが明らかに増えたはずです。あえて辛辣な例え方をすれば、動物を用いた悪趣味な心理テストのように、家族や職場などの人間関係というものが、特定のストレスによってどう変化を遂げるかが試されたわけです。

https://news.yahoo.co.jp/articles/f8cb53d66b57b903f1970ed65df626f4354a347f?fbclid=IwAR0dRqWz_7YxBbgHveV0jVL0BybyamhmPCYojML1PoHSCRiFDPJHOg-47F8

【コロナ前に戻りたい? 仕事に家族…非常時にはがされた「化けの皮」 人間関係を「見切る」きっかけに】 6/12(金) 7:00配信  withnews

台風24号の影響で在来線がストップし、大勢の通勤客らで身動きの取れない状態となったJR新宿駅構内=2018年10月1日午前9時14分、東京都新宿区、松本俊撮影=朝日新聞

新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)は、この先何年も(ひょっとするとさらにもっと長期間にわたって)付き合わざるを得ない「日常風景」になりそうです。一時期は、「コロナが終わったら何がしたい」といった無邪気な声も聞かれましたが、「コロナありきの社会」へと考えをあらためなければならなくなりました。これを「悪夢」ととらえるのは簡単ですが、満員電車の通勤や、意味もなく続けていた会議の日々が「天国」だったのか、冷静に考え直す動きもあらわれはじめています。人間関係を「見切る」「差し引く」きっかけとしてのコロナについて考えます。(評論家、著述家・真鍋厚)

リトマス試験紙だったコロナ禍

コロナ禍によって暴かれたのは、良くも悪くもそれまでの人間関係でした。特に緊急事態宣言以降、わたしたちは身近な人々の言動に激しい怒りを感じたり、呆れ返ったりすることが明らかに増えたはずです。あえて辛辣な例え方をすれば、動物を用いた悪趣味な心理テストのように、家族や職場などの人間関係というものが、特定のストレスによってどう変化を遂げるかが試されたわけです。

テレワークに移行した途端、職場の上司や同僚と直接話す機会が減り、ひどく不安になった人々、驚くほど快適になった人々。家で過ごすことが多くなり家族との絆が深まった人々、かえって家族とのいさかいが起こりDVや離婚に至った人々。困った時に周りに相談したり助けを求められる仲間がいることに気付いた人々、いないことに気付いて愕然としてしまった人々……枚挙に暇がありません。

いわばコロナ禍は「人間性を判定するリトマス試験紙」であったのです。コロナ以前であれば誤魔化すことができていた「不都合な真実」が次々と露見していきました。

平常時から薄々、感じていたこと

「感染症から社員を守る気がない経営者」「部下を監視することに熱中して仕事をしていない上司」「子育てや家事に協力的ではないパートナー」等々、恐らく大部分の人々は平常時から薄々感じていたことばかりだったのではないでしょうか。

しかし、それを軌道修正するにはあまりにも時間と労力を要することを理由に、問題と真正面から向き合うことをせずに先送りにしていたのです。

けれども、緊急事態宣言が発令され、感染者の増加と有名人の訃報、重症化のリスクと死の恐怖が様々なメディアによって拡散され、政府の無策と失態による経済的な被害が着実に拡大していく中で、誰も彼もが多かれ少なかれ「人間性の危機」に対処する必要に迫られました。

突き刺さるフランクルの「箴言」

コロナ禍によってテレワークなどの働き方が加速したといわれていますが、人間関係でも「見切る」「差し引く」考え方が加速したことは否めません。過去を振り返ってみると、このような局面は3.11でも生じていました。

ナチスの強制収容所の生き証人で、実存分析(ロゴセラピー)の創始者であるV・E・フランクルは、「すべては、その人がどういう人間であるかにかかっている」と述べました。

第二次世界大戦が終わった直後のニヒリズムや悲観主義に対する返答だったのですが、現在のコロナ禍ではなおさら痛いほど突き刺さってくる教訓とも言うべき箴言ではないでしょうか。

フランクルは、強制収容所での有名なエピソードを取り上げます。ナチスの親衛隊員である収容所の所長が、密かに自分のポケットマネーで囚人のために薬を購入していました。他方、同じ収容所では、最年長者の囚人が、囚人仲間を「ぞっとするような仕方で」虐待していたのです。

フランクルは、この経験を踏まえ「最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか『だけ』だった」と主張しました。

「人生も、健康も、幸福も……すべてが疑わしいものになり」「すべてが、裸の実存に還元され」るのだと。(以上、V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社)。

ますます試されていく「人間性」

この真理は現代においてもまったく変わるところがありません。わたしたちはコロナ禍が始まった時も、これからもますます「人間性」を試されるのです。

そのような普遍的な視点から眺めれば、ウィズコロナ、アフターコロナの時代は案外悪いものではありません。化けの皮が剥がれやすくなったからです。

近年、人の尊厳を保つのに必要とされる信頼関係やコミュニティといったソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の重要性に関心が注がれています。コロナ禍がそれらの再考を迫る強力な起爆剤になっている以上、既存の帰属先や関係性を見直す人々が多くなっていくことが予想されます。

分かりやすく言えば、「人間性を疑う身近な人々と今後どう関わっていくのか」ということであり、抽象的な表現をすれば、フランクルの「裸の実存」に基づいて改めて自分自身の生き方が問われるのです。

「以前のような働き方には戻りたくない」「こんなパートナーとは付き合いきれない」などといった感慨は、「何を守るために、誰と、どう生きるのか」という大きな問題の枝葉でしかありません。

もともと「遊動者」だった私たち

人類学者の西田正規は、「定住革命」について「逃げられる社会から逃げられない社会へ」というフレーズで表現しました。

その昔、人類は「定住者」ではなく住む場所を自由に選ぶ「遊動者」として生きていました。それが劇的に変化したのはおよそ1万年前といわれています。

「ある時から人類の社会は、逃げる社会から逃げない社会へ、あるいは、逃げられる社会から逃げられない社会へと、生き方の基本戦略を大きく変えた」のです。

<霊長類が長い進化史を通じて採用してきた遊動生活の伝統は、その一員として生まれた人類にもまた長く長く受け継がれた。定住することもなく、大きな社会を作ることもなく、稀薄な人口密度を維持し、したがって環境を荒廃することも汚物にまみれることもなく、人類は出現してから数百万年を生き続けてきたのである。

だが、今、私たちが生きる社会は、膨大な人口をかかえながら、不快であったとしても、危険が近づいたとしても、頑として逃げ出そうとはしないかのようである。生きるためにこそ逃げる遊動者の知恵は、この社会ではもはや顧みられることもない。――西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫>

自分を不幸にする基本戦略

地震や噴火、津波や大洪水といった自然災害を、「遊動者」は身軽に移動することでかわす術を心得ていましたが、わたしたちは「定住」という言葉が示す通りあくまで留まろうとしてしまいます。

これは物理的にというより心理的にです。住居というストックが象徴的ですが、所有という概念に根差した固定的な社会があるからです。

関係性に対するスタンスもこの傾向に半ば惰性で引きずられ、非常時においてもこの「基本戦略」を忠実に遂行しようとして不幸になっているのです。

「不快であったとしても、危険が近づいたとしても」、「人間性を疑う」カルチャーが支配する関係性を守ることを選んでしまうのです。損して得を取れ――自分らしい生き方を犠牲にしたり、ストレスを感じる相手と過ごさざる得ない中で尊厳は損なわれるが、他者の目から見ればまんざらではない生活を過ごす見返りは得られる――というわけです。

「今の世界」を愛せるきっかけに

当たり前ですが、わたしたちは気まぐれに「遊動者」へと先祖返りするようなことはできません。そのような社会はほとんど存在しないからです。

とはいえ、「遊動者の知恵」から学ぶことはできます。

今日的な「遊動者の知恵」とは、「裸の実存」を物事の判断の中核に据えて、尊厳が損なわれかねない場所から、実りのない関係性から、素早く距離を取ったり、軽くいなしてしまうフットワークのことです。冒険を恐れずに新しい仕事や新しいつながりを作ることだってそうです。

「わたしたちはもう元の世界には戻れない」――SF小説の台詞のように聞こえるかもしれませんが、これがウィズコロナののっぴきならない現実なのです。

ならば、わたしたちはむしろ、「元の世界」に満ち満ちていた不正や欺瞞が自ずから露呈する「今の世界」こそ愛さなければならないのではないでしょうか。


https://news.yahoo.co.jp/articles/e48600044217fb8d786cb0865799d7753b7ba97e?page=3

【あの子、マスク着けてません!日本の「自粛警察」を生む教育の闇】 6/15(月) 7:01配信

東京アラートも解除され、東京でも6月22日から通常投稿にする学校が増える。教育現場ではいかにして安心安全に学校生活を送れるかが検討されているが、同時に暑くなる中でのマスク着用も気になるところだ。また、通りすがりにマスクをしていないことで大人に怒られた子どもの話が報じられていたが、正義が暴走したような自粛警察がなぜ出現するのだろうか。

ジャーナリストの島沢優子さんによる連載「子育てアップデート~子どもを伸ばす親の条件」の今回のテーマは、「子どもの義務と権利」。「ルール的なこと」に対し、状況を考えずにただ「守っているか否か」を糾弾する自粛警察には日本の教育のやり方が大きく関係しているのはないだろうか――。

「先生、○○君、マスク着けていません!」

こういうスタイルが教育現場のスタンダードになっている。しかしちょっとしたときにマスクを着けていない場合、体育で暑くて危険な時、皮膚の疾患を抱えている場合

 私が住む首都圏では東京アラートが解除され、本格的に「新しい日常」がスタートする。

そんななか、ある公立小学校の先生はこんな不安を口にする。

「マスクを嫌がる子が何人かいて、その子たちがいじめられないか心配です」

8日からの週。東京は30度を超える真夏日もあり、子どもたちは汗をふきふき授業を受けた。東京都の公立小学校は教室のエアコン設置率100%だが、廊下に出たとたんに熱気に包まれる。トイレに行く際にマスクをつけずに行く子どももいる。マスクの中は蒸れて暑い。もともとアトピーだったり、皮膚が弱かったりすると、口のまわりが痒くなる。

外したまま授業を受けている子どもに向かって、他の子が「〇〇君、マスク着けていません!」と指さしたり。その姿は、さながらコロナ禍で問題になった自粛ポリスのようだ。

「今のところ、いじめがある気配はありませんが、どう対応したらいいんでしょうか?」

 なぜ着けられないのか聞いてみたら? と促せばいい。それぞれ事情があることを知る。多様性の学びにもなるよね。

そんな話をしたが、マスクをつけることを「義務付けられている」いま、子どもの社会で各々の事情を理解し合う難しさは横たわる。先生自身も「マスクは着けるべき」と思っているのだろうから。

 これが大人になると、ポリスっぷりは、より陰湿になる。工事現場でマスクを外していた作業員がいたと「通報」した人がいた。この暑さで、すぐ近くに人がいなければ別に外してもいいではないか。だが、通報した人からすれば、マスクをつけるのは義務であり、つけない人を見つけたら指摘するのが「正義」なのだろう。

正義はエスカレートすると「いじめ」に変わる

たとえばこのステッカーは「投票しました!」という印で、「投票しようよ!」という仲間に呼び変え、団結力を高める意味もある。しかし「県内のもの」のいうステッカーは、団結力を高めるのではなく、「私には暴力をふるわないでね」という主張だ

 正義はエスカレートすると、時に「いじめ」に変わる。

コロナ禍のある時期、地方の感染者が少ない地域で、県外ナンバーの車へのあおり運転や、車への投石、傷をつけるなどの嫌がらせが頻発した。やった人は「自分の町は感染者が少ないのに、感染者が多い町からやってくる車を追い出したかった」と、まるで地域のためにやったあげた感満載で語っていた。

 これに対し、各県の知事らは「県外ナンバーの車に対して敵意をむき出しにすることはやめて」「差別や分断は容認できない」などとコメント。その後登場した「過剰な自粛ポリス回避策」に驚かされた。

 「私は県内の者です」といったステッカーを張るというものだったからだ。間違わないで、私は県内の人間ですよ、と知らせれば嫌がらせを回避できるかもしれない。しかしそれでは、あおり運転や投石という犯罪行為を半ば認めたことにならないだろうか。

 これは、痒くてマスクを外してしまう子どもに「私はアトピーです」というステッカーを張ればいい、そうすればいじめられないから、という考え方と同じではないか。

 自分の正義を振りかざして他者を貶める行為は、私たちの社会の至る所で見受けられる。しかも、ある程度の人数が共鳴すると、それに乗っかる人が瞬く間に増えていく。女子プロレスラーを自死に追い込んだテラハのヘイト書き込みもそうだろう。

 「みんなが言ってる」「みんながやってるから」と子どもがよく言う「みんな」や先生が正しいと言ったことはすべからく正しい。したがって、マウントとって先生に言いつけに行く子は褒められ、違うことをする者は「悪」という狭小な見方をされがちだ。そうやって同調圧力に屈する経験を重ねていくと、決められた枠の中でしか物事を考えられず、何より主体的に行動できなくなるように思う。

ドイツでは留年も子どもたちが選べる

ドイツだけではなく、欧米の多くの学校が留年や飛び級が当たり前となっている。だからこそ「落ちこぼれ」がないのだ Photo by iStock

 自粛ポリスやテラハヘイトを生む片棒を、日本の教育が担いできたのではないか。

 『伸ばしたいなら離れなさい サッカーで考える子どもに育てる11の魔法』(小学館)など、子育てに関する書籍が10冊を超える池上正さん(63)も、このことを否定しない。

「みんなができることができなかったり、みんなと違うことをする子が責められますね。勝手なことをするな、ちゃんとやれ、と。よく見ていると、そんなふうに文句を言われる子はサッカーが上手いわけではない。動きが良くなかったり、足が遅かったりする。チームに貢献していないからきつく言われて当然、という感覚が子どもたちの中にあります」

 これまで50万人もの子どもにサッカーを教えてきた池上さんは、文句を言う子を名指しして叱ったりせず、チーム全体の問題として提起する。

「サッカーはみんなで力を合わせてやるものだよね? 自分さえ楽しければそれでいいの?」と。

 「成績がいい、体育ができるなど、常に順位決めや評価が下される。評価が高い者が上だ、正しい、といった価値観が小さいときから刷り込まれています」

 サッカーを通じてドイツの教育事情を知る池上さんによると、ドイツではコロナ禍で勉強が進まなかった分は進級してから教えていくという。小中学生でも留年制度があるドイツだが、今回は基本的に全員進級させる。ただ、学ぶ単元が多くなるため、不安な子どもは留年してもいい。

 つまり、進級する、しないを、子ども自身が決められるのだ。教師からもアドバイスはあるだろうが、子どもが選べるというルールがあることが素晴らしい。

「追いつけないかもしれないから、もう1年同じ学年でもいいよ。どうする? 自分で決めていいよ、と子どもに選ばせる。教育の意味のとらえ方が日本と違うわけです」

 池上さんはこう訴える。

「日本は、もっと子どもの権利をきちんと考えなくてはいけません。子どもは大人が思っているよりもずっと、自分自身のことをよくわかっている。ぼくはこの学年でやりたい、と言えるはず。日本の子どもは権利を行使できない状態だと思う」

日本は子どもに「義務」ばかり伝えてはいないだろうか。

意見する子の親に「授業がやりにくいんです」

先生に反論したら「授業の邪魔」なのだろうか Photo by iStock

 義務と権利といえば、今は二十歳の娘が小学4年生のときに廊下で給食を食べさせられたことを思い出す。

 2時間目の授業。ひとりの男児を指して、担任が「君がクラスにいると、みんな迷惑だと思っているよ」と言った。娘はそこで「先生!」と挙手してから「なぜ、『みんなが迷惑だと思っている』ってわかるんですか? 私は迷惑だとは思っていません」。

 すると、担任は顔を真っ赤にして「君は僕の揚げ足とりばかりして授業の邪魔になる。君はこのクラスにいないほうがいい」と言い、机ごと廊下に出るよう命じた。

廊下に出た娘は2時間目から5時間目まで廊下に滞在。途中で「なんで廊下にいるの?」と尋ねに来た他クラスの友達には苦笑いで対応し、勝手にトイレに行くなどし、本人いわく「自由に過ごした」らしい。その間、隣のクラスの担任である学年主任から「授業の邪魔をしてはいけない」と説教もされた。

 放課後、娘は何食わぬ顔で帰宅。変わらぬ様子だったが、担任からの連絡で私はすべてを知ることになる。

「それは娘のほうが正しいと思う」と答えたら、「僕が授業しづらいんです」と何度も訴えてきた。「あなたの娘は何度も挙手をするし、反論する」と、自分が被害者だといわんばかりだった。

 「子どもは先生の授業を成立させるために教室にいるのではない。自分の授業を成立させることばかりに心を奪われているのではないか。娘は先生と異なるかもしれないが、自分の意見をぶつけているだけ。聞いてあげるのが先生の役目じゃないのか」

すると、先生は「そんなこと、言われたことがない」と言ってシクシクと泣き始めた。

 その先生は児童に「授業をおとなしく受ける義務」ばかりを要求し、子どもたちが自由に考え、発言する権利を認めていないように見えた。何のために学校があるのか。そもそもそこの設定が相反するため、いくら話しても通じない。

子どもの権利を認めることから「児童を主役に」ができる

 「君はクラスにいないほうがいい、って言われたんだって?」

担任との電話を終えた私が言うと、娘はぷぷっと吹き出し「ママが怒りまくるって思ってた」と言った。先生が発した言葉のナイフは、娘には1ミリも刺さっていなかった。それは本人が自分には主張する権利があると知っていたからだと思う。

 当時、娘のクラスはほぼ学級崩壊のような状況だった。児童が騒ぐと隣の教室から学年主任が現れ「こらーっ!」と怒鳴る。その繰り返しだった。教師が子どもの義務ばかりにフォーカスし、なおかつ余裕をなくせば、さまざまトラブルが起きるのだ。

アフターコロナの学校が、かつての娘の教室と同じ状況にならないとも限らない。教室で咳込んだり、マスクや手洗いを忘れた子を責める。「三密になるから」と言って誰かを仲間外れにする。コロナをフックにしたいじめが起きるかもしれない。

 「子どもを真ん中に」「児童を主役に」

 よく聞く言葉だが、これは子どもの権利を認めることから始まるのではないか。さまざまな制約のなか、彼らの成長や学びをどうやって保証するのかを模索したい。